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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十四」を読みました。

《以下引用》…
六朝は貴族政治であるため門閥を重んじたが、唐朝は思想として普遍性を尚び、皇帝の補佐をする人材はひろく天下にもとめ、試験でもって登用し、人種を問わなかった。唐の皇帝の原理には、皇帝は漢民族のみの皇帝であるという意識はなく、世界に住むすべての民族を綏撫するという使命をもち、華夷のわけへだてをするということがない。唐朝において大きく成立したこの普遍的原理を、空海が驚嘆をもって感じなかったはずがないであろう。かれがのちにその思想をうちたてるにおいて、人間を人種で見ず、風俗で見ず、階級で見ず、単に人間という普遍性としてのみとらえたのは、この長安で感じた実感と無縁でないに相違ない。
《引用終わり》

今の中国とは大違いという感じがします。ゆえに長安では、いろいろな宗教に出会うことができました。以下、「けん教」というのが出てきますが、「けん」(示偏に天)が表示されないのでゾロアスター教と書きます。

《以下引用》…
マニ経はゾロアスター教とおなじく、宇宙を光明と暗黒にわける。光明の父は善神であり、暗黒の王は悪魔だが、ゾロアスター教においてはたえず両者が争闘しているのに対し、マニ教では両者はたがいに均衡し、静止している。ただし未来においてこの均衡がやぶれ、暗黒の王が光明の国土に侵入を開始し、はじめて争闘があるとする。ゾロアスター教においてはこの争闘は結局善神の勝利になって死霊は復活しこの地上は善美な世界になるというのだが、マニ教はそのような楽観することなく、善悪の争闘は永劫につづき、帰一することがない。…すでに華厳経と大日経によって善悪の次元を超越した真理が宇宙を動かしていることを知った空海は、この種の教義をきいても、稚拙な童話をきく程度の感興しかおこらなかったにちがいない。
さらに、空海の居住区に景教の寺院がある。緑の瓦で屋根をふき、白堊の塔をもったこの教会の建物は、長安の異国情緒の象徴のようなものであり、この都の殷賑をうたう詩人たちから格好の題材にされてきただけに、空海も、ゾロアスター教やマニ教とはちがい、多少その存在を重いものとして眺めたにちがいない。
《引用終わり》

景教について、つまりはキリスト教について、空海がどう思ったか…これ以上のことは司馬遼太郎も推測していません。『三教指帰』のように、キリスト教についても批評してもらいたかった…。

キリスト教の教義をきちんと聞いていたとしても、密教に対する空海の志は微塵も揺るがなかったことでしょうけどね。

《つづく》