トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:普賢菩薩

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「十二 如来の見聞供養によって善根を生むこと――如来出現の第十相」「十三 結び」を読みました。

・如来たちを見聞し善根を生むことをどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

ひとりの人が金剛石を食べたとしても、それは消化されずにそのまま現われてくる。それと同様に如来を見聞供養する金剛のごとき知恵は、煩悩を残らず絶滅させる。

草や枯れ葉を山のように積んでも、芥子粒ほどの火によって燃えてしまう。それと同様に如来の供養を少しでも果たせば、一切の煩悩を燃やし尽くして涅槃に入る原因となる。

雪山に「善現」なる薬樹があって、見聞すればどんな病でも治癒する。それと同様に如来を見聞すれば、一切の徳性を身につけて仏の知恵を得るに至る。

・結び
世間にある全ての比喩は何であれ、皆この仏の事跡から離れている。しかも世間を利益するために衆生に教示しようとして、如来は比喩を絶したものに道理を尽くして比喩を与える。これらの如来の秘密は凡夫には知覚できない。努力精進して知恵を備えてよく教化された者たちのみ、このような如来の秘密を聞くことができる。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「十 如来の転法輪――如来出現の第八相」「十一 如来の偉大なる死――如来出現の第九相」を読みました。

・如来たちの転法輪(法の車輪を前進させること)をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

無比なる転法輪は知覚されない。退転することもなく、一切の時間を超越している。すべての文字を語ってもそのために文字が尽きることがないように、転法輪も辺際がない。

すべての文字は言及されたものに普くゆきわたるがどこにも定着しないように、転法輪も諸音声に普く存するがどこにも定着しない。

諸文字は内にあるのでもなく、外から生ずるのでもない。それらは尽きることなく、なんらの集積もない。

・如来たちの偉大なる死(大般涅槃)をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

「如来がこの世に出現する」ということは、衆生たちが喜ぶことばである。「如来が涅槃にはいる、即ち死ぬ」ということは、衆生たちの愁いを生むことばである。しかし真実には、如来たちは真理の領域に住んでいるから、この世に出現することもなく、涅槃にはいることもない。衆生の願いをかなえてやるために、この世に出現しもするし、涅槃にはいることを示しもする。

如来の日輪は一切の限りない世界の真理の領域を普く照らす。一切の濁りなき世界の濁りなき心をもつ衆生という水の器すべてに、その影をあらわす。しかし、濁った心をもつ衆生の壊れた器には、如来の日輪は見られない。心が濁り、業と煩悩に蔽われた衆生の前で、如来たちが涅槃にはいることを示現したとしても、それを如来たちの欠陥と捉えるのは間違いである。

偉大なる死によって教化すべき衆生に対しては、如来たちは偉大なる死を示現する。しかし、如来たちはこの世に出現することもなく、この世から消えさること(即ち涅槃にはいること)もない。たとえば、火がこの世の全ての物を焼き尽くして鎮火したとしても、この世から火が無くなったわけではない。如来たちの偉大なる死とは、そのようなものである。

技術の習練を完了した幻術つかいがいて、まじないの力によって、世界じゅうのいたるところに長期にわたって幻術を示現したとする。やがて、その中のひとつの国では目的を達成したので、幻術つかいは姿を現さなくなった。しかし、一切の世界から、すべての幻術が失われてしまうわけではない。

如来たちは、偉大なる死を示現するときに、『不動』という三昧に入る。無数の如来たちの身のひとつひとつから無量・無辺の光明が現われ…そこには一切衆生と同じ数だけの如来の身が、仏の徳性のあらゆる飾り飾られて鎮座している。それらの如来の身は、どこかの場所にあるのでもなく、特定の方位にあるのでもなく、有でもなく、無でもない。如来の教えの偉大なる本願によって、衆生たちの能力が成熟した暁には、それらの如来の身もまた、完全な涅槃に入る。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「八 如来の活動領域――如来出現の第六相」「九 如来の明らかなさとり――如来出現の第七相」を読みました。

・如来たちの活動領域をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

真実ありのままなる絶対はまったく不生・不滅である。それはなんら限定された領域にとどまらず、あらわれない。世間のために利益をなす如来たちの活動領域も同じく無量で、その本性は真実ありのままなる絶対に等しく時間を超越している。

・如来たちの明らかなさとり(現等覚)をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

一切の現象の証悟(さとり)は二とか無二とかの分別を離れ、正しく無対象である。それは虚空に等しく、我(アートマン)のあるなしにかかわりがない。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「七 仏の知恵の対象――如来出現の第五相」を読みました。

仏の対象領域をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

比喩
大海は水と宝の集積をもって無量であり、衆生たちと餓鬼たちの住処に関しても無量であり、一味にして無雑である。そこに生まれた衆生たちは他の水のなかでは活動しないように…

仏の対象領域も知恵をもって無量であり、三宝(仏法僧)の依拠するところとして、宝の集積という点でも無量である。衆生たちや餓鬼たちをもっても無量である。

《つづく》

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「華厳経如来性起品」の「六 如来の心の生起――如来出現の第四相」を読みました。

如来の心の生起をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

第一の比喩
すべての所作は虚空に依存して配置されるが、虚空にはよりどころがないように…

如来の知恵に依存して、世間的・超世間的のすべての知識が配置されるが、如来の知恵にはよりどころがない。

第二の比喩
真理の領域において、一切の仏弟子の道を行ずるものたちでさえ解脱し、一切の独力で覚る道を行ずるものたちでさえ解脱し、一切の菩薩もまた出現するが、真理の領域には増減がないように…

如来の知恵に依存して、世間的・超世間的なすべての知識が確立し、一切の業と修行もまた確立するが、如来の知恵には増減がない。

第三の比喩
四大州と付属する小島は、大海と相接しているので、どこであれ水が湧き出ているが、大海にはどこに水を出そうなどという分別はないように…

如来の知恵の大海は、考えたり、構想したりせず、順序を決めて働くわけではないのに、衆生たちの心や行為の差異によって、如来の知恵の光明の差異が出現するのである。

第四の比喩
大海中の四種の宝珠の威力で大海に宝が出現するが、この宝珠は龍王の庫蔵に収まっているため大衆には見えないように…

如来の知恵も、如来の法の庫蔵(如来蔵)に安置されているから、薄幸の衆生たちには見えない。菩薩のような生活と、菩薩の知恵の光明によってのみ手に入れることができる。

第五の比喩
大海中の四種の宝珠の大力と大威光が大海の増減を防いでいるように…

如来の知恵も、菩薩たちが目的を追求すれば、法の力を断つ大波を完全に除滅し、広大な般若の知恵は普く照らし出し、如来との平等性を獲得する。もしそれがないと言うなら、誰も覚るものはいなくなり、理に合わないことである。

第六の比喩
底なる基盤からはじめて輪廻生存の最高の位置にいたるまでの欲・色・無色の三界のすべては、無我なる虚空の世界に完全に依存して存在する。しかし虚空にはなんら高低はないように…

声聞の知恵も、独覚の知恵も、菩薩の知恵も、有為において働く知恵も、無為において働く知恵も、あるかぎりのすべてはこれ、如来の知恵という虚空に依存し、そこから生ずる。如来の知恵の虚空によって全ては浸透されており、如来の知恵には禍も楽ならざるものもないが、種々さまざまの知恵が成就している。

第七の比喩
雪山の頂には大威光をもつ最勝の薬樹「根がまだ完成していない」があって、その威光と力によりジャンブ大陸の全ての優れた樹が生ずるように…

如来の知恵の大薬王「根がまだ完成していない」も、前世における深い宗教心と大悲心によって、堅固な根をもって生まれる。行によって菩提が生じ、菩提が行を生む。心や意(おもい)の平等をそなえるものには仏の知恵が生ずる。

第八の比喩
火によって世界が破壊される劫が到来したとき、激しい劫火が生じて燃える。ある人が草の束を積んだとしても燃えないはずがないように…

その火の塊の中で、草の残滓は少しは燃えないで残ることも有り得る。如来の知恵によれば、三世の衆生たちは、心冷たきもの、きわめて冷たきもの、法がすっかり凍りついてしまったものですら、だれでも如来の心に入れられないものはない。如来たちは差別なき知恵を心に抱いている。

第九の比喩
世界の壊れる劫のとき「解放」の風が起こり、それは鉄囲山もスメール山も吹き散らす。吹き散らしたものを戻す他の大風がなければ、無量の諸国土は全て壊滅するように…

如来たちの大風は、菩薩の煩悩を吹き払う。さらに「巧みな方便によって正しく保持する」という如来たちの知恵の大風の力によって、その位から超え出て、如来の位に上がる。

第十の比喩
たとえば、三千大千世界と同じ大きさの大画布(経巻)があって、三千大千世界が順序どおり完全に描かれているとしよう。この大画布が極小なる一原子の粒子の中に収められる。同様に、全ての極小なる原子の粒子の中に、残りなく、一つ一つ、同様の大画布が一枚ずつ入っている。そのとき、ひとりの知恵優れた男が、大画布が原子の中に収まっていても、衆生の誰の役にも立たないことに気づく。そして、微細な金剛杵をもって原子の粒子を打ち砕き、大画布を取り出すように…

如来の知恵も、全ての衆生の意識の流れの中に普く浸透している。しかし価値観の転倒した愚者たちはそれに気づかない。如来は聖道を説いて、彼らの想念の作り出した一切の束縛を除去し、利益する。

密教教理の基本が華厳と近いと言われる理由が、少し分かってきたような気がします。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「五 如来の音声――如来出現の第三相」を読みました。

如来の音声をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

第一の比喩
四禅(原始仏教以来説かれる基本的な禅定。色界(欲望のない、肉体を存する領域)に対応)について説明しています。
・初禅では、尋・伺・喜・楽・定の5つの心作用が働く。欲と怒りがないから、極めて安楽で、欲界(欲に満ちた領域)から完全に超え出る原因となる。
・第二禅は、無想無行・無覚無観・無尋無伺(心を対象にひきとめることなく、対象を探求することもない)。
・第三禅は、歓喜から離れる。
・第四禅は、寂静。楽の感覚が無くなる。

以上が、世界が壊れるとき(?)に聞こえる四種の大音声で、これと同じように如来の四種の大音声は…

・第一の大音声は、「八種の難点(八難処)を捨てよ!」と説く。八難処とは、八種の不運な生まれ(1)地獄(2)畜生(3)餓鬼の世界に生まれること(4)長寿天と(5)辺地に生まれること(楽にふけって仏法を求めないから)(6)感官に欠陥があるもの(仏の教えを聞いてもわからないから)(7)邪見をもつもの(8)如来の出世しない時代に生まれること。
・第二の大音声は、「有為(諸条件によって作られたもの)は甚だ苦であり無常であるが、無為(絶対・究極の価値)は寂静で苦痛なく、もろもろの捨てるべきものを離れている」と説く。衆生は音声認(音声によって真理を受け入れること)を得る。声聞のこと?
・第三の大音声は、「この他者の音声に従う道(仏弟子の道)はきわめて小さい。これよりも大きな道、師を入用としない自ら真理を覚る道がある」と説く。大信ある衆生は独力で覚る者の菩提に入る。独覚のこと?
・第四の大音声は、「仏弟子の道や独力で覚る者の道を超えた大乗がある。これは菩薩行に結びつき、六波羅蜜と菩提行の流れを断たず、菩提心を捨てず、福徳と知恵の無量の集積にまとめられる。菩提への乗のうち、最勝・最上にして、すべての衆生を利益する乗である」と説く。善根を生じた衆生たちは、この如来の言葉が自分たちの善業の集積からあらわれたのだと理解する。

第二の比喩
山・岩・岩山にある音声は、人のこだまを受けて全ての岩が語るものである。種々のよりどころにもとづいているかに音声は起こり、あれこれの判断がないように…

如来の音声も分け隔てはなく、他者の修行と感官の成熟に応じて生ずる。多くの衆生を教化し喜ばせても、高慢心も救護心もない。

第三の比喩
太鼓が正義を伝える音声を持ち、神々が欲にとらわれ放逸であるとき、虚空から正義の音声を示現するように…

如来の音声を出す太鼓は、十方に普き衆生に正しく伝わる。感官の壊れた者にはとらえられない。その音声を聞いて衆生は菩提を得る。

第四の比喩
神々の王ヴァシャヴァルティンが天の宝を楽しむとき、天女の口から出る一息ごとに多くの性質があり、一息の一音から種々の音声が生ずるが、そこには分け隔てがないように…

如来の一語が響き渡ると、衆生の得られる限りの音声の諸性質が一時に生ずる。衆生はその願いに応じて如来の音声を聞き、聞き終わって煩悩を断ずるが、音声には分け隔てはない。

第五の比喩
梵天はその座から動かずに、一音声を発すれば梵天の大衆を喜ばす。しかも会衆の外には出ないで、会衆をして理解せしむるように…

如来は仏の座に坐して、一音で真理の領域を残りなく満たして鳴り響く。しかし会衆の円輪を超え出ることはなく、さりとて物惜しみの心もない。ただ信心のない衆生にはその音声は聞こえない。

第六の比喩
水の流れはすべて本性同一で、味も一様で分け隔てなく清浄で八つの徳性をもつ。地表の器が異なるに応じて、水の種類もさまざまであるように…

如来の音声も、味は一味で分け隔てなく仏の菩提を本性とするが、衆生の行為の種別によって種々となる。

第七の比喩
アナヴァタプタ龍王(四大河の源となる池の主)は大ジャンブ大陸を普く満たし、四大州を満たすように雨の流れを放ち出す。秋の収穫や森・林・水流などを次第に生み出すが、水の流れは龍王の身からも心からも生じないように…

如来も真理の領域を満たし、衆生の心を満足させるように法の大雨をふらす。百の善につとめて衆生の煩悩を鎮める。しかし、その音声は外にも内にもなんらあることはない。

第八の比喩
龍王マナスヴィンは、7日間この虚空界に雲を集めながらも、目的を果たすまでは雨を放たないように…

如来も、大悲心の雲を集めて、法の大雨を降り注ごうと決意したとき、般若の知恵と巧みな方便をもって、衆生たちを成熟させる。しかし衆生たちの機根がまだ成熟しない間は、甘露の雨を前もって降り注ごうとはしない。粗細すべてに通暁して、知らねばならぬ法を説き、衆生たちが怖畏・嫌悪しないように、次第を追って、法の無上の味をもって満たす。

第九の比喩
「荘厳」という名の大海龍王は、十種ないし百千の雲の飾りを集めて、同じ一味の雨から種々さまざまな雨を降らすように…

如来も法の雨を降り注ごうとするときは望みに合わせて、一つの法を飾りとする荘厳をもって法を説いたり、百千の法を飾りとする荘厳をもって法を説いたりする。如来の法の大雲の教説には何ら判断は無く、どの家系においても、衆生たちの能力を満たしてやるべきかに従って、無量の種類の教説が生まれる。

第十の比喩
サーガラ龍王は、四大州を雲の網で普く蔽い、各所に普く種々の雨を降らすが、愛憎に二分すべきものは無いように…

如来も、大いなる憐みの力で身の雲を広大に広げ、菩提への道を歩むものに法の雨を降らせて、分け隔てなく世間の衆生の全てにあれこれと説く。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「四 如来の身――如来出現の第二相」を読みました。

如来の眼に見える姿をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

第一の比喩
虚空界(空間)は全く果ての無い領域で、形あるものとないもの、物と非物のすべてにわたり、あらゆる方角とその中間に、虚空という要素が浸透しているように…

如来の身もすべてに浸透していて、どこに行くこともなく、どこに去ることもない。なぜなら、如来の身には身体がないからである。ただ、衆生が知覚することができるように、その身体なきものを身として説明するに過ぎない。

第二の比喩
虚空には判断は無く、さまざまに区別して考える戯論(無分別なるものを分別(主客に分けて認識し、判断する)し、それによって種々の誤った見解が生ずること)がないように…

如来の身もあれこれの判断はなく、戯論もない。なぜなら、如来の身はそもそものはじめから、あれこれの多様な戯論の一切を遮断しているからである。

第三の比喩
大地に日が昇るとき、闇を残りなく除いて万物を照らし出し、光の降り注ぐいろいろな土地の種々の場所において全ての衆生を利益するように…

如来も全ての衆生を利益し、善なるはたらきを育て、無知の闇を除去し、般若の知恵を輝かせることによって、一切の安楽を得させる。

第四の比喩
日輪が大地を照らすとき、どこを先に照らそうという判断があるわけではないが、まず高い所を照らし出し、その後に低い所を照らし出すように…

如来たちの知恵の日輪も、何の判断もなく、光線は平等に降り注ぐけれども、衆生たちの善根に差異があり、志に差異があるため、如来の光明も区別があるように表れてくる。

第五の比喩
眼を持たない者は太陽が普く照らすのを見ないけれども、太陽は一切衆生の飢えを無くし身を潔めて軽快にし、眼を持たない者をも利益するように…

信心の無い者は仏という太陽を見ない。しかし、仏は彼らをも利益し、菩提の座に至らしめることもある。

第六の比喩
月が昇るとき、(1)一切の星を凌駕し、(2)増減(満ち欠け?)をよく示し、(3)清澄な水の器にその影を現わし、(4)どんな衆生にも分け隔てがないように…

如来の身も、(1)仏弟子の道に属するあらゆる聖者たちのあらゆる種類の徳性を凌駕する。(2)どのような心の傾け方をする衆生にも、その種々の見解に応じて、さまざまな寿命の量を示しながら、如来の身の月輪自体には増減がない。(3)あらゆる世界において、深い宗教的志(増上意楽)を持つ心が清浄な衆生の前にその姿を現す。(4)教化されるべき衆生に応じて適宜の姿を見せるという方法で如来の身を現わすが、分け隔てはなく、多様な判断もない。

第七の比喩
あたかも梵天がその宮殿から動くことなく、三千大千世界の全てにその身を示現し、神々や人々を支配下に置くが、梵天自らの身を様々にすることはない(?)ように…

如来も身体を変化することなく、あらゆる世界の衆生たちに対して、その志と心の傾け具合に応じて身を現わすが、如来の身には分け隔てもなく多様な判断もない。

第八の比喩
すべての学に通じた医者があり、彼を見た者は病が鎮静するので、彼の寿命が尽きる時に薬を集め身体に塗り込めて、その身を保とうとするように…

無比の医王たる如来も、方便と般若の知恵の全てに通じ、前世の行の差異に応じてその身を現わす。それを見て、衆生の煩悩は鎮静する。

第九の比喩
海の底に宝珠があって、あらゆる種類の光を放ち、それに触れた衆生は宝珠と同じになり、それを見た衆生は眼がきれいになるように…

如来も般若の知恵の光を放ち、だれであれ、それに触れた衆生は仏の色になり、それを見たものは五眼を得、無知の闇を除去し安住に至る。

第十の比喩
その宝珠が全ての願いを支え、だれが何を望もうとその人に全てものを与え、何ら分け隔てがないように…

如来の身もあらゆる願いを満足させる。彼を見て誓願を立てるものはだれであれその願いを成就する。心悪く心劣ったものたちには見えないが、分け隔てて吝(おし)んでいるのではない。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「三 如来出現の原因」を読みました。

この章はまとめがありますので、そこをメモっておきたいと思います。

・行を完成することは無量である。(無料じゃなくて、無限ということですね)
・十方にある一切のものを広く満たし、広大である。
・生滅の基盤を離れていて、執着せず、欲望もない。
・(日常の)心、おもい、認識を離れていて、行くことがない。(不来不去のこと?)
・虚空と同様の本性で、身体がない。(実体がないということ?)
・一切衆生に我(アートマン)はなく、平等である。
・一切衆生のために無尽となる。
・未来のはてまで断絶せず、あともどりしない(不退転)。
・如来の知恵には障害がなく、奪うものもない。
・原因や諸条件によってつくられたもの(有為)と、そうでない絶対的存在(無為)との平等性を覚知し、無二である。
・以前に成熟させた衆生のすぐれた宗教的志(意楽:いぎょう)を満足させ、すべての輪廻の道にあるものたちを利益する。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「一 序章」「二 如来出現の法門―総序」を読みました。この経典は原名「如来の生起・出現の説示」という元来独立の一経です。

世尊と一緒に多くの菩薩たちがいる時、如来性起妙徳(如来の家系に生まれた幸ある人の意)菩薩の頭頂に不思議な光が入った。ついで別の光が普賢(あまねく知れわたった自在なる王の意)菩薩の口に入った。

そして、如来性起妙徳菩薩が、普賢菩薩に対して、如来に関して次のことを説明して下さるようにお願いします。
1.出現の説明
2.身による顕現
3.音声による表現
4.心の威力
5.対象の状態
6.活動領域の説明
7.正しいさとりのありさま
8.転法輪(つまり説法)の完成
9.偉大なる死(般涅槃)の示現
10.如来たちを見、(その教えを聞き、)如来と出会い(供養し)、(それによって)善根を生ずることについて

以下、普賢菩薩による説明が繰り広げられます。如来性起妙徳菩薩は文殊師利と考えられます。「ふげん」と「もんじゅ」が揃いました…

《つづく》
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観世音菩薩普門品第二十五では、観世音菩薩について語られています。観音経として単独で用いられることが多いようです。怪人二十面相の約1.7倍の変装能力(?)を持ち、ピンチに際してその名を呼ぶ人あらば、いつでもどこでも最適な姿に変身して現れるスーパーヒーローです。ヒーローの原点がここにあるように思います。

ただ、ウルトラセブンでさえそうなのですが、正義を遂行することは非常に難しいことで、その時のピンチから救ってあげることが本当にその人にとって良いことなのか?というジレンマに必ずぶち当たるはずなんです。勧善懲悪の無敵の超人のお話は痛快でいいのですが、人生はそう単純にはいかない。それに対処する術を私は仏教に求めるいるので…まあ、ヒーローが仏教にも必要だったということでしょう。

以下、陀羅尼品第二十六妙荘厳王本事品第二十七普賢菩薩勧発品第二十八と続いて終りになります。

いろいろ諸説あるようですが、仏教が衰退していく中で布教活動を盛り返すために作られたものという感じを受けました。分派してしまった教団をひとつにまとめて、布教を強化しようという意図が強く感じられます。何度も最高の経典であること、この経典が奇跡の力を持っていることが強調されています。この経典をよりどころとしている宗派の強さはここに由来しているのでしょう。

他の経典も読んだ上で、気になったらまた、この経典に戻ってきたいと思います。

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