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第四章第三節の「本地身と加持身」を読みました。

密教の教主たる大日如来は本地身か?加持身か?という内容です。古義真言宗(自証説学派)と新義真言宗(加持説学派)が論争を続けているテーマだそうです。

眉間にしわをよせて、ひととおり読んだのですが、よくわからない。そもそも本地身と加持身の言葉の意味がわからない。この2つの最重要単語をブラックボックスのまま読み続けるのは、すごく頭のトレーニングになったような気がしました。

高価な大辞典を買う余裕もないので、ネットで調べてみました。本地身は「本源の姿」、加持身は「救済のための具体的姿」。全く同じではないのかもしれませんが、法華経では本迹二門と言って、どちらの姿で説かれたかによって、本門(本体の教え)と迹門(仮の教え)という区別があるようです。

和光同塵と言って、俗人のところまでレベルダウンして下さった姿が加持身。ということになると、どちらにしても私が直接お世話になるのは加持身の方で、本地身は遠くから仰ぎ見るしかなさそうです。甚だ失礼ですが、私のレベルではどちらでもいいことですね…

著者は「本加二説の止揚によって、そこに初めて密教の教主の真相を見出すことができる」
とまとめています。私の場合は「止揚」というより「どう止揚」ですけど。

こんなことも知らないで本地垂迹説を語っていたというのはお恥ずかしい限りです。

ともかく「ひとつ」をもととして、この世の全てが具現化したものだという考え方は好きです。その「ひとつ」を大日如来と呼ぶのが真言密教ということですね。

《つづく》