トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:教育

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お子さんを公文国際学園に通わせた方が山形にいらっしゃるということで、そのお父さんのお話を聞きましょうという会に行ってきました。10月2日、山形テルサで。

講師がお父さんでしたから、「お父さん講座」というタイトルになったようでしたが、男性は私を入れて4人だけ。あとはお母さんたちでした。

で、その講師ですが、多田農園の多田耕太郎さん(ブログもされてます。流石です。)でした。YAMAGATAセレクションにも選ばれているサクランボを生産している方なので、お名前だけは何となく拝見してました。

お話で、まず「おや!」と思ったのは、幼稚園年長の時にスーパーファミコンを買ってあげたということ。本人が欲しがるものだから、そんなに欲しいなら天声人語をスラスラと読んでみせろ!という条件を出したそうです。いつの記事でもいい、意味は分からなくともいい、とにかく一回分を止まらずにスラスラと読めたら買ってやる!と。

幼稚園の年長さんにですよ。かなりユニークな条件です。うちもDSを買ってしまいましたが、妹にも貸してあげること、公文のプリントをやってから遊ぶこと、くらいしか条件は出しませんでした。

ともかく、多田さんもファミコンのソフトが欲しかったらプリントをやりなさい!という条件は何度も使ったそうです。つまり、物で釣るのもアリということですね。

もうひとつ、「おや!」と思ったのは、奥さんがかなり厳しく公文のプリントを毎日させたということ。

学校から帰ってきても、公文のプリントをやらないうちは家から出さない。「5枚するのと10枚するのとどっちがいい?」という選択をさせて、あたかも自由はあるかのように錯覚させるわけですが、「0枚」という選択肢は絶対にない。「やれ!」「やらない!」の激しいやり取りは何度もあったとのこと。

でも、母(耕太郎さんの奥さん)は一歩も譲らなかったそうです。お爺さんお婆さんや伯母さんからも、「そんなにしなくても」という意見は出たそうですが、やはり譲らなかった。

息子さんのお友達は「○○くんのお母さんは鬼だ!」と言っていたそうです。

これ、すごくホッとしました。怒っていいんだ!と思いました。

実は、今まで聞いた体験談は(そんなに多くは無いんだけど)、「ひたすらできたところをほめてあげましょう!」だったのです。じゃあ、うちの子みたいに解ける問題も「難しい、わかんない、わかんない」と言って泣き叫ぶ奴はどうしたらいいんだ?と思っていたのです。「じゃあ、それ終わったらチョコあげるよ」というと、急にスラスラ解き始めるような奴はどうしたらいいんだ?と。ほめようがないじゃないか?と。

質問しても、「うちの子はそんなことありませんでしたね…」と言われてしまい、やっぱりお宅のお子さんはうちの子とはモノが違うんじゃないですか!?ということになってしまうわけです。これでは親の気持ちも萎えてしまう。

でも、多田さんは違いました。これは大きな収穫です。

さて、タイトルの公文国際学園ですが、多田さんの息子さんは4期生ということで倍率も低かったようですが、今は神奈川県でもトップレベルの偏差値だそうで、入るのはかなり難しいようです。そして、それよりもネックになるのはお金。これは、子供が努力してもどうにもなりません。

とにかく、お父さんはガンガン稼いで、子供のためなら惜し気も無く使う…これが今回の「お父さん講座」の結論だったようです。

はりきゅうの仕事で、あるお客様を訪問していた時です。家具の大安売りのチラシを見て、余りに安かったので、「二つ(次女の分も)買っちゃおうかな…」と言ったところから議論が始まりました。

お客様いわく:
「小学校入学は人生の中で重要なポイントだということを子どもに教え込むことが大切だ。だから、小学校に入らない妹にも一緒に机を買ってあげるなんてことは断じてしてはならないのだ!自分は小学校に入るのだ、今までとは違うのだ、という自覚と感動が子供の成長を促すのだ。」

おっしゃる意味は分かるんですが、正直「???」でした。

小学校の教諭を定年退職された方で、現役時代は熱血先生で有名だった方です。今回、初孫が産まれたばかりなので、教育について改めて思うことがあるのでしょう。しかし、息子さんはともかく、嫁さんも同じ考えを持っているとは思えませんでした。嫁姑戦争が勃発する前に、私と衝突しといたほうがいいんじゃないかと思い…反論することにしました。

私:
「おっしゃることが間違いとは言いませんが、絶対にそうしなければいけないというのはどうでしょうか?そうでない考え方もあると思います。入学という儀式を過大に演出すると、子供にとってはストレスになったりはしないでしょうか。学校に行くのが怖くなったりしないでしょうか?

例えば公文は、幼稚園児も小学生も中学生も、同じ机に向かって勉強しています。進学は、同じ教室のお兄ちゃんお姉ちゃんが通ってる学校に行くことだと思っています。全くの未知の世界に行くという感覚はありません。それは良いことではないですか?」

お客様:
「だから、感動が少ないのだ。小学校に入るということで感動する。そこで読み書きを覚えるということで感動する。計算ができるようになるということで感動する。それがとても大事なのだ。公文をやっていれば、小学校でそういう感動を味わうことはできなくなる。優越感には浸れるかもしれないが。」

小学校に入るまで読み書きや計算はできない方がいい、とも取れる主張で、ますます「???」だったので、敢えて突っ込むのはやめました。

入学する感動、読み書きや計算ができるようになったという感動は、各自がその都度、それぞれのタイミングで味わってもいいのではないでしょうか?少なくとも、全員一緒に味わなければいけないということはないのではないでしょうか?

良し悪しは別にして、最近の傾向は、人生の道程にも段差を余り設けたがらないような気がします。ただ、スムーズに進んでいける代わりに、逆境には弱くなるというデメリットは当然あると思いますけど。

…というところを取りあえず落とし所としたのですが、気づいたら50分も経っていました。施術よりも長かった仲人さんだから、まあいっか。

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2月7日の日本経済新聞、サイエンスの欄で、金(ゴールド)に関する記事を読みました。化学反応が起きにくい安定した金属ですが、ナノメートル(nm:ナノは10億分の1)単位の超微粒子になると、かなりラジカルなものに豹変するという話。

色も変わるというのが面白かった。直径50〜100nmで紫、20nmで濃い赤色、10nm以下では黄に近づくそうです。

例えば20nmで、なぜ赤く見えるかと言えば、金属の周りを巡る電子が振動し緑の光が吸収され、緑と「補色」の関係にある赤が強調されて見えるから…

この色の見え方の説明が良かった。初めて出くわしたわけではありませんが、今回はとっても示唆的に響いたのです。

赤い物が赤く見えるのはなぜか?緑の光を吸収するから。ここまでが科学の話。ここから先が「念中仏仏」です。

全く偏りのない光が、皆に平等に、降り注いでいる。しかし、緑に執着するモノは緑の光を放さない。故に、そのモノが発する(反射する)光には緑が欠落している。そのモノは偏った存在として見えることになる。つまり、赤いモノとして見えることになる。

全く偏りがない光とは、いわゆる白い光です。光の三原色(Red,Green,Blue)がバランス良く配合された色。全てを含む色。言うなれば「」の色です(「そら」と読まないでね)。

光の緑成分を蔽うと考えれば、客塵煩悩のようでもあります。執着を無くせば、偏りは無くなり、「空」の境地に近づく…これが、第一の教訓です。

赤いモノ、赤に偏っているモノとは、赤の成分が突出していると捉えるのが普通の見方です。だから、赤いモノを更生させるには、赤い成分を抑えてやろう、削ってやろう、妨げてやろう、と発想するのが普通です。

赤いモノを矯正するには、教育するには、救済するには、赤い成分を抑えることだ…。でも、これは、緑に執着していたモノに、さらに赤に対する執着をも植えつけることにはならないでしょうか?

煩悩を減らそうとして、実は煩悩を加えている

赤いモノには、赤を削るのではなくて、緑を補ってあげなければいけない。緑を補い、緑への渇望を癒し、執着を無くしてあげなければいけない。

これが第二の教訓。まあ、教育やカウンセリングの現場で応用するには、全く参考にならない、具体性の無い話ではありますが、例え話としては面白いんじゃないでしょうか。

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空の剪定…あらゆる方向に根を伸ばし幹を伸ばし枝葉を伸ばし得る私たちが、この世に生まれ、人として育つ中で、空から離れ、アンバランスな存在性を獲得していく。

教育も、この剪定作業のひとつなのかもしれない。今の時代をより良く生きるために、子供の頭や心を、「良かれと思う形」に整えていく作業。

この「良かれと思う形」は、時が経てば変わるし、場所が違っても変わる、「一時的な価値観」。例えば、この国の「ゆとり教育」が方向転換を迫られるのに数年しかかからなかった。国の教育方針なんて、この程度のもの。紛れもない「虚構」

切断したはずの指が痛むことがあるらしい。もう切り落とされたはずなのに、確かにその場所が「痛い」。煩悩とは、剪定で切り落とされた枝葉の叫びではないだろうか…。

例えば、多細胞生物であるがために切り落とされるポテンシャルならまだしも、国の教育方針なんかで切り落とされるポテンシャルはたまったものではない。そこに溜まった煩悩を、単に不浄のものとして片付けていいものなのか…。

ゆえに、真の教育者とは、子供の全てのポテンシャルが見えなければいけないのだと思う。その子を空なる存在として見通した上で、その子のポテンシャルの何が切り落とされたのか、あるいは何が健在なのかに気づかなければいけないのだと思う。

そして、煩悩の疼きをも、受けとめてあげなければいけないのだと思う。

それでもやはり、教育とは剪定であるから、子供が「なるべき形」を示し、その形に近づいていくことを促すために競争を仕向けることもあるだろう。

でも、その「なるべき形」とは「一時的な価値観」であることも教えるべきである。そうすれば、競争に負けたとしても、不必要に過剰な劣等感は持たないだろう。また、勝ったとしても、過剰な優越感を持って敗者を差別することもないだろう。

つまり、教育者はその心を空に保ち、子供の心を空に導かねばならない…。

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順位付けが差別につながるという意見。学校から順位付けを無くそうとしているわけですから、ほぼ差別と同一視しているということでしょう。

でも順位付けは「区別」であって「差別」ではありません。この区別を間違えてはいけません。区別を差別してはいけないのです。区別した結果、「お前は成績が悪いから一緒に遊ばない」とか言い始めるのが差別です。

「区別」は重要なことです。「生きる力」とは「区別する能力」と言っても過言ではないと私は思っています。物事をどれだけ微細にわたり区別できるか。学問上の難しい概念の理解から、どこのスーパーが安いとか、品物がいいとか、どっちが得だとか…に至るまで現実の世界では常に的確な区別をした上での判断が求められます。山奥で一人で暮らすにしても、あっちの山の方が木の実が多いとかの区別が生存を左右します(猿との競争ですね)。

おそらく子供が競争を好むのは、人類の祖先が生存競争の中で獲得した本能なのでしょう。知恵とは「区別する能力」でもあります。それによって人類は自然淘汰を超えてきました。

運動会の順位付けが差別だというのなら、オリンピックもNGです。教育委員会に文句を付ける前にJOCとかIOCに文句を付けて欲しい。どうせならモンスターペアレントとして世界を目指して欲しい。

私の商売でも、「高い」とか「あっちの治療院の方が上手だ」とか言われたら、差別ということで訴えてもいいんでしょうか?

公共事業での競争入札は良いこととされていますが、これも差別なのでしょうか?

社会に出れば、必ず競争が待っています。自分が順位付けされるし、他者を順位付けもします。勝ち負けが常にはっきりします。

その時に、勝っても有頂天にならずに負けた人の悔しさを思いやる。負けても悔しさに打ちのめされずに勝った人の強さをたたえる。

勝っても相手を侮蔑することなく、自分の幸運に感謝して、さらなる精進につなげる。負けても相手を嫉妬することなく、自分の非力を自覚して、悔しさを向上心に昇華する。

学校とは、生徒たちがこれから巻き込まれていく社会の競争の中で、そういった態度が取れるように教え込むところです。区別が差別に結びつかないように訓練するところです。順位付けをしなかったら、そういう教育はできません。

《つづく》

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第15章「人間の進歩・幸福に不可欠な「徳育と知育」」を読みました。

《以下引用》…これまで考慮の対象にならなかった重要な経験的要素として、時間の心理的な価値がある。幼年時代とそれ以後の時代とでは、時間の価値は同じではない。子どもにとっての一年は、生理学的にも心理学的な面でも大人の一年よりはるかに長い。十歳の子どもの一年は二十歳の大人の二年分に相当する。年齢がもっと低くなれば、この差はさらに大きくなる。
 三歳から七歳のあいだに流れる時間は、大人で言えば、おそらくは十五年から二十年にあたるだろう。ところで、将来の人生に起きる、あらゆる出来事に対応していくための精神的枠組み、とくに自分の道徳律を子どもが築き上げるのは、まさにこの時期と言える。だからこそ、生まれて数年のあいだに、かなりの量の知識が蓄えられていくのだ。親や教育者は、ぜひこの点を肝に銘じていただきたい。…《引用終わり》


著者のご専門はまさにこの部分です。生理学的時間を算出する方程式の考案者なのですから。そんなわけで、ここはメモらせていただきました。この定量化が妥当かはわかりませんが、早い時期の教育がいかに有効であるかは、子どもに接していると毎日気づくことがあります。

《以下引用》…基本的な原理は一つであっても、その提起のしかたや展開の方法は、学ぶ側の器にあわせなくてはならない。学ぶ側には、「教えの精神」を汲み取ってもらわねばならない。同じ言葉を使ったからといって、ポリネシア人や高校生や大学生に同じ結果をもたらすとはかぎらない。…《引用終わり》

この本は異教徒や途上国の人に対して侮蔑的な表現が多く、とても気になります。その辺は目をつぶって上の文章を読みますと、これって「方便」だよね!と思いました。

《つづく》

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NHK「爆笑問題のニッポンの教養#65」(3月10日放送分)を見ました。教育社会学の広田照幸先生でした。「学校は何も教えてくれない?」というタイトルでしたが、期待したのとは違った面白さがありました。

まず、明治期の教育はどうだったか?という研究。婿養子に入って医者を目指して勉強するが、受験に何度も失敗し、家を追い出されてしまった人。田舎町での、のぞきや夜這いの事件を報じる当時の地方紙。今と比べて、同じところや違っているところなど、当時の記録を読むだけでも面白い。そして何より、追い出された婿さんも山形出身なら、田舎町というのも山形であるのは興味深い。

何で山形なの?

安倍政権発足時に、私が最初に失望したのは「美しい国」というスローガン。そこには何も具体的なメッセージが含まれず、当たり障りのない言葉でした。教育改革も目指しましたが、「その間違いは何だったか?」という問いには、「政治家は自分の考え方が正しいと思い込んでいる人が多くて、それと同じ考え方を皆がするようになれば国は丸く治まると思っている。」というような指摘で、納得しました。

全く幼稚な幻想ですね…いろいろな考え方を教えて、その良し悪しを一緒に考えてみるのが教育だと思います。ひとつの考え方だけを教え込むのは洗脳です。

太田さんが理想とする授業というのも面白いと思いました。その日にテレビで話題になったようなことからディスカッションを始めて、そこから生じた疑問をドンドンと勉強していく授業。興味が湧いた時に学ぶ、というのは理想ですね。

ただ、それでは体系的にバランスのとれた学習ができない、というのが広田先生の指摘でした。それも、なるほどです。

勉強もゲームも本質的には同じものだと私は思っています。だから、ゲームに取り組むみたいに、子どもが勉強に夢中になるように仕向けるにはどうしたらいいのか…今、毎日考えているところです。

広田先生が目指す教育を、もう少しはっきりと聞きたかったな。著書を読めってことかな?

《つづく》

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第五章「子どもたちに夢を!」の後半を読みました。

「教育とは、魚の釣り方を教えるのであって、魚を与えることではない。」

この言葉、以前どこかで聴いて気に入っている言葉なのですが、この本にも出てきました。木全さんのオリジナルなのか分かりませんが。要するに、教育とは自立させることなのですね。

子どもがたくさんいて親も忙しかった昔は、子どもに手が回りませんでした。いちいちやってあげる余裕が無かった。だから自然と「あとは自分でやってみなさい」ということになったわけです。十分に与えられなかったから、釣り方を教えるしかなかった。

ところが少子化ということになると、魚を与えようとする人がたくさんいる。我が家でもそうですが、お爺ちゃんお婆ちゃんの子守りは与えることが主になりがちです。孫の可愛さは格別だそうですから、魚を与えてしまうことが優しさだと勘違いしまうのでしょう。

公文式は、読み書き計算という「釣り方」の訓練と言えます。自立を目指して、あるいは自分の目標に向かって、「釣り方」を習得するまでとにかく諦めずに頑張る。いち早くできるようになって、できなくて困っている人に教えてあげる。あるいは助けてあげる。そういう生き方が身につけば、最低限でも親としての務めを果たしたことになるんじゃないでしょうか?

《最初から読む》

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第二章「素敵なお母様への道」の前半を読みました。

「遺伝か、環境か」という章がありました。エジソンの言を参考にすれば、遺伝は1%で環境が99%と言えるかもしれません。

毎日わが子を見ていると、「親(自分たち)に似ているな」と思うことは多々あるので、遺伝が1%というのは低すぎる気もします。が、離れて暮らしているならともかく、我が家は接している時間が多い方だと思いますから、私たちの背中を見て真似しているところがかなりあるのでしょう。

環境(遺伝以外の要素)が圧倒的に大きいと考えることは有益だと言えます。そう考えなければ、子どもの可能性は生まれながらに決まっているのだということになってしまうから。夢も希望も無くなってしまいます。

それは、教育がいかに重要であるか、ということでもあります。

その教育には、「結果ではなく過程の努力を認めてあげること」「認め、ほめ、励ますこと」そして「期待してあげること」が大切である!と書いてあります。

《つづく》

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木全徳裕さんの本からです。

インドの大学教授の話。
「国力を高めるには高いレベルの技術者が必要であり、数学があらゆる技術の基礎だという共通認識がある…高度な教育が行われ、激しい競争があるからこそ国際レベルで通用する技術者育っていく。カリキュラムをやさしくするなんて誰も考えないよ」落ちこぼれを出さないために敷居を低くする、という発想は普通思いつかないですね。ダメなことが目に見えている。最近、やっと見直しの機運があるようですが…

これは私見ですが、教育界で「偏差値」という指標を使っているということは、子どもたちの成績分布はおおよそ正規分布に従うと考えていることになります。落ちこぼれが出ないくらいにカリキュラムのレベルを下げるということは、あの尖ったクラゲのようなグラフの下の裾に合わせるということ。でも、あのグラフは無限遠までゼロにはならなかったはず。だから、「一人の落ちこぼれも出さない」ためには、無限にレベルを下げなければいけない。最終的には、カリキュラムを全廃すればいいことになります。国が教育を放棄することになる。

文科省の方々は頭のいい人ばかりなのでしょうけれど、教壇に立った経験がある人はどのくらいいるのでしょうか?頭が良くても経験がなければ素人です。数年の実務経験を義務化する必要があるんじゃないでしょうか。

「落ちこぼれが出ているから、目標レベルを下げる」という行為は、「厚生年金を算定するための標準報酬月額が改ざんされた話」と同じで、役人が自分の成績を上げるためだけにやる不正です。誰も幸せにならない。皆を不幸にし、国力を削ぐ行為です。

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