トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:意味

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「六塵ことごとく文字なり」…これの現代版がITかなと思いました。「文字」とは即ち「情報」。

現在ではセンサー技術が発達しているので、色・声・香・味・触を感じ取るセンサーは全て有ると言っていいでしょう。センサーは電気信号に変わり、デジタル信号として数値化されます。これは六塵のうちの五つのカテゴリーの文字を読み取ったと言っていいでしょう。

但し、「文字を読み取ること」つまり「情報伝達」とは相互作用ですから、読み取る側の器量によって解釈は変わります。

「色」即ち「視覚」を例にとりますと、同じ被写体を映像化するにも3Dになる場合もあれば、デジタル画像、アナログ画像、等いろいろです。可視光に限らず赤外線を映像化する場合もあります。X線を映像化すればレントゲンになります。磁気の共鳴で含水率を映像化すればMRIになります。

同じ対象でも読み取り方によって結果は変わります。同じ絵を見ても、同じ音楽を聴いても、同じ匂いを嗅いでも、同じものを味わっても、同じものを触っても、感じ方は違います。

同じ文字でも読み取り方によって意味が違います。ゆえに、「ことごとく文字なり」という比喩は絶妙だな…と思います。

仏教の勉強をしていなければ、念仏を聞いても馬と同じです。物の値打ちが分からなければ、真珠を見ても豚と同じ、小判を手にしても猫と同じです。

鍼灸師という立場で言うならば、人の体に触れても研鑽を積んでいなければ患部の状態や患者の苦しみを読み取ることはできないということです。そして、その苦しみよ消え去らんという祈祷文を書き込みように、手技を施し鍼を刺し灸を燃す…

いろいろな仕事、いろいろな立場に置き換えることができそうです。

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
意味にどれほどの意味があるのか

例えば、以前書きましたポアンカレの科学観。「近代科学の歴史は、科学的真理が人間の視点から見たひとつの見解にすぎないということを実証してきた歴史である」というものでした。

だから、犬には犬の科学がある。カラスにはカラスの科学がある。ヘビにはヘビの科学がある。カエルにはカエルの科学がある。マグロにはマグロの科学がある。…ポアンカレもここまで奇抜な表現はしてないでしょうけど、要はそういうことですよね。

科学にはたったひとつの真理がある。時代によって変わるのは観測精度等によるものであって、科学的真理は永久不変である…という思い込み

前掲書の数学の章には無理数や虚数が誕生した経緯も書いてありましたが、数学界でのいろいろな出来事の順序が違っていたら、現代の数学の有り様も違っていたのではないか?と思ったりもします。

例えば発展の順序が違ってしまって、現代の数学で既知とされる理論が未解決とされて、リーマン予想のような未解決の事柄が先に解明されて、数学が発展していく場合も考えられます。そんなふうにしてできた数学は、現代のものとは違った姿をしているはずです。当然、物理学も違った姿になるでしょう。

「意味」を追うことに意味は無いとは言いません。でも、意味は文字通り「味」なんですね。味付けしだいで人間好みにも、犬好みにも、カラス好みにも…なる。調理の順番次第で、味も違ってくる。

「唯一絶対」とか「永久不変」の「味」なんて無い。
「唯一絶対」とか「永久不変」の「意味」なんて無い。

それがあると思い込むことには、全く意味が無い。

ブログネタ
★くもん・公文・KUMON★ に参加中!
公文式の説明会で聞きました。学校では「意味」を大切にするらしい。「公文式は計算を速くすることだけを重視していて、「意味」を教えない。」という批判があるらしいのです。

公文式は「取りあえず計算が速くできるようになって下さい。できるようになってから意味を考えて下さい。」というスタンスだそうです。私も、それが正しいと思います。

例えば学校では、「5+3はどうして8なのですか?」ということに重点を置いて足し算を教えるらしいのです。みかん5個とみかん3個の絵を描かせて、数えてみたら8個。だから8個。これが「足し算の意味」だそうですが、こういう意味にこだわる意味があるのか?私はそちらの方が気になります。

国語とか英語だったら、どうでしょう?「みかん」をどうして「みかん」というか、教えるんでしょうか?どうして主語とか述語があるか、教えるんでしょうか?それは、いずれ興味があれば語源とか文法とかの勉強をすればいい話です。私は、意味は後からついてくるものだと思います。

ゲームをやるように計算をして、後で「みかんだったら…」とか考えた方が楽しいんじゃないだろうか?意味にこだわるから、勉強がゲームよりつまらないものになるんじゃないだろうか?国語や英語を、語源や文法から勉強させたら、ほとんどの人がウンザリしますよね。

理系の科目(数学を含めて)は違うんじゃないか?という反論はあろうかと思います。私も学生の頃はそう思っていました。でも、今は国語も英語も数学も同じだと思っています。

「分かる」というのは経験を積み上げることなんじゃないかと思うのです。

いろいろな日本語を聞いて、自分も真似して話してみて、少しずつ他人に通じるようになって…そういう経験の積み重ねが「日本語を分かる」ということなのではないか?英語も同じ。

文法は規則性を帰納的に抽出したものです。つまり、後から付いてきたもの。初めに国文法や英文法があるわけではない。

四則演算も、いろいろな問題を解いて、たくさん○をもらって…「5+3」が「8」以外には見えなくなったら、「分かった」ということ。

こんな話があります。プランクが後日述懐したことだったと記憶しております。

量子力学が出始めた頃は、アインシュタインを筆頭に多くの物理学者が受け入れられないと言いました。若きプランクは量子力学の発展に貢献し、物理学界でも理解されるように努めた人です。晩年を迎える頃には、量子力学が学界の常識になりました。

でも、プランクは言ったそうです。これは量子力学が理解されたからではない。量子力学以前の物理学を勉強してきた人たちが死に、量子力学を勉強してきた人たちが学界の多数を占めるようになったからだ…

量子力学は後世になって認められたわけですから、意味としては正しいということだと思います。理科が「意味」が全ての学問であれば、アインシュタインも容易に受け入れたのではないでしょうか?彼が受け入れられなかったのは、それまで積み上げてきた彼の物理学の経験が妨げになっていたのではないかと思うのです。

つまり、数学と区別がつかないような理論物理学の世界であっても、「意味」よりも「経験」のほうが意味(!)がある、と言えそうなのです。

ブログネタ
人、生きる意味 パート2 に参加中!
先日書きました。「生きる意味なんて無いかもしれない。でも、あると思った方がいいんじゃないか。」

「意味」が見つからなければ、自分で作ればいいのだと思う。「意味」があれば「絶望」しないで済むかもしれない。「絶望」が単なる「苦悩」で終わるかもしれない。…と、「絶望の方程式」は言っている。

しかしながら…

科学が浸透して、みんなが自分を客観的に見つめるようになった。だからかな?

産業革命〜IT革命等々で生活が激変して、今まで考え方が通用しなくなった。だからかな?

宇宙にポツンと浮かぶ青い地球を見て、家だとか、町だとか、国だとか、社会的しがらみが陳腐なものに感じた。だからかな?

今は「意味」が、なかなか決められない。

「お前は長男なんだから、早く大きくなって、いっぱい稼いで、家を支えていかなくちゃダメだぞ」な〜んて、昔は言われたんじゃないだろうか?私は言われなかったけど。でも、そういう空気は私の世代でも、まだ何となく感じてました。

例えば、「リボンの騎士」とか「ベルサイユのばら」とか(こんな例しか、なぜか思い浮かびませんが)、運命に翻弄される人生。「意味」が向こうからやってきて、縛り付けてしまう。自由の無い人生は「苦悩」続きでしょうけど、「意味」があるから「絶望」はしないのかもしれない。

こんな束縛からの解放が、現代までの世界のテーマだったのかもしれない。でも、解放された我々は、束縛してくれる「意味」を探しあぐねている…

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
昔は、言葉には表と裏の意味があるのが当たり前だったような気がする。

それだけじゃなくて、右とか左とか、上とか下とか、前とか後ろとか。

当たり前に、有ったんじゃないだろうか。

だから、言葉には幅があり、高さがあり、奥行きがあり、内側があり、外側があり…

少しの言葉で事足りた。それが以心伝心。

それを解しない人たちは、日本語を難解で曖昧だと言った。

裏を削り、両脇を削り、上を削り、下を削り…

言葉を、シンプルで、ピュアなものにしていった。

そして言葉に厚みが無くなった。

だから、なんだか、日本文化全体が薄っぺらになってきたような…気がする。

言葉はあふれているけれど、何も書いてない手紙をやり取りしているみたいだ。

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「それ」は全てを構成しているもの。
何にでもなるから、何と呼ぶこともできない。
「それ」はエネルギーなのかもしれない。

そうなる必要はないのだが、
エネルギーが質量を持ったとき、
「それ」は物になる。
そうする必要はないのだが、
「それ」に言葉をあてがったとき、
「それ」は意味を持つ。

「それ」はあらゆる物になることができるし、
物はあらゆる意味を持つことができる。

「それ」を素晴らしいと思えば、
あらゆる物も、あらゆる言葉も、それらを用いる営みも、
素晴らしいことになる。

《最初から読む》

↑このページのトップヘ