トトガノート

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Tag:恵果

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「空海の夢」(春秋社)
「11.内は外」を読みました。

《以下引用》
密教は汎神秘主義である。その神秘を隠匿するか展示するか、そういう分かれ方もある。「神秘を展示する」とはいささか妙に聞こえようが、密教史をみているかぎり、半ば隠して半ば表立つという方針がとられてきたことは明白だ。では何を「内」にして何を「外」にするか。そこが結局は密教の本質を解く鍵になる。…
《引用終わり》

以下、『大日経』は内、『秘蔵宝鑰』は外、高野山は内、教王護国寺(東寺)や 綜藝種智院は外…という節分のような文章が続きます。

そして、不空はいささか「外」が勝ち過ぎていたと著者は評しています。不空によって、中国密教は頂点にのぼりつめました。ナショナル・サイズとして最大値に達しました。

その弟子恵果は、新羅の恵日・悟真、ジャワの弁弘、日本の空海ら異邦僧にも好んで伝法しています。

《以下引用》
…一国社会主義があるなら一国密教主義という危険もありそうだ。一国に密教をとじこめることは、「超越的内外」を眼目とする密教を、ふたたび「内」にのみ向かわせることになる。護国密教は、その国家が世界性をもっているならまだしも、恵果の時代の唐帝国のように凋落に向かっているときにはあまりにも狭すぎるフレームというべきである。恵果は“そこ”を理解したのであったろう。そしてその恵果の理解のあとに空海が続いたということが、空海の幸運だったと思われる。

恵果が空海を選んだのは直観による英断である。この英断がなかったら空海は空海でなかったかもしれない。

空海の歴史には多くの人物がカレイドスコープのごとく乱舞しているが、「空海の規範に影響を与えたものをただひとつあげよ」と言われたら、私なら好みもあるのだが、迷わず「恵果の倫理」をあげたいとおもう。恵果こそよく「内外」を知る才幹の人だった。
《引用終わり》

恵果という人は、歴史の上ではおとなしく、地味な存在ですが、凡庸な人であったはずがありません。こういう評価を見るとうれしくなります。

《つづく》



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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十六」を読みました。

《以下引用》
…インドにおいては、その後の人類が持ったほとんどの思想が、空海のこの当時までに出そろってしまっているが、それらの思想は、当然、言語に拠った。厳密に整理され、きびしく法則化されてきたサンスクリット語によって多くの思想群が維持され、発展してきたが、空海がすでに日本において学びつくした釈迦の教えやそれをささえているインド固有の論理学や認識学も、さらに蘊奥を知るには中国語訳だけでなくこの言語に拠らねばならない、ということは、インド僧だけがそういうのでなく、インド的体温のまだ冷めないこの時代の唐の仏教界では中国僧もそう思っていたにちがいない。
《引用終わり》

恵果に会わずに「置きっぱなし」にしていた5カ月間、空海は、世界中のものが揃っていた長安という都において、その好奇心と吸収力を存分に発揮したようです。そして密教習得に不可欠なサンスクリット語(梵語)も、インドの僧から習っていたようです。

《以下引用》
…恵果の空海に対する厚遇は、異常というほかない。
空海をひと目みただけで、この若者にのみ両部をゆずることができると判断し、事実、大いそぎでそのことごとくを譲ってしまったのである。空海は日本にあってどの師にもつかずに密教を独習した。恵果は空海を教えることがなかった。伝法の期間、口伝の必要なところは口伝を授け、印契その他動作が必要なところはその所作を教えただけで、密教そのものの思想をいちいち教えたわけでなく、すべて空海が独学してきたものを追認しただけである。空海の独学が的外れなものでなかったことを、この一事が証明している。
《引用終わり》

奇跡のような偶然の積み重ねが空海という一点に集結し、密教は日本にもたらされました。余りにも偶然が重なり過ぎているがゆえに、何か大きな「必然」に見えてしまいます…。

《以下引用》
…空海は、恵果から、一個人としてゆずりうけたのである。…
空海の帰国後の痛烈さは、こういうことにも多少理由があるであろう。かれは、その思想が宇宙と人類をのみ相手にしているというせいもあって、国家とか天皇とかという浮世の約束事のような世界を、布教のために利用するということは考えても、自分より上の存在であるとは思わず、対等、もしくはそれ以下の存在として見ていた気配があるし、また国務でもって天台を導入した最澄に対し、空海の天台体系への仏教論的軽視ということはあるにせよ、ごくつまらぬ存在であるかのようにあつかったのは、このあたりに根のひとつを見出しうるかもしれない。
空海は、極端にいえば私費で、そして自力で、密一乗を導入した。
《引用終わり》

空海の奇跡はまだまだ続きます。

《つづく》

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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十五」を読みました。

《以下引用》
…密教的成仏たるや、他の仏教体系なら人間が成仏するなど気が遠くなるほどに可能性が小さいにもかかわらず、密教にあってはそのまま“即身”の姿で成仏できる。つまり仏教一般の通念からいえばありうべからざるほどに異様なダイナミズムを持っているはずであるのに、唐の朝廷ではそのことにさほどの関心をもたなかった。繰りかえすようだが、密教の壮大な形而上学や即身成仏などという観念上の果実をよろこばず、ごく現実的な行者の呪力のほうをよろこんだ。
《引用終わり》

このことは、金剛智不空善無畏の生涯を見たところにも出てきました。

《以下引用》…
道教はもともと単に鬼神を祀って招福を祈ったり禍福を占ったりする程度のものだったが、仏教の渡来とともに大胆にその教説、とくに宇宙構造の説を剽窃するようになった。

…仏教もまた中国化して中国という思想風土に根付くにおいては、道教に負うところが多かったということはいえる。たとえばサンスクリットの形而上的なことばを翻訳するにあたって、多くの造語もおこなわれたが、似たような言葉が中国に存在する場合は、それが借用された。そういう言葉の中には…老荘の哲学用語が多く、つまりは老子を権威として教祖であると称している道教と、当然、多くの術語が共通してくる。このためもあって、唐の時代になれば道といい仏というが要するに両者似たようなものではないかという印象が中国世界では一般化され、となれば似たものである以上、中国の固有である道教を重んずるほうがよろしかろうという気分がつよくなったということがいえるかもしれない。
《引用終わり》

中国で「空」と「無」をごっちゃにしているような話がありましたが、これと関係あるかもしれませんね。

《以下引用》…
ともかくも、盛唐以後の唐朝にあっては、道教の宮廷勢力が大きかった。これに対抗するのに、金剛智も善無畏もあるいは不空も、呪術をもって渡り合わざるをえなかったのは当然であっただろう。これがために金剛智や善無畏の将来した純粋密教が、せっかくぼう大な思想体系をもちながら、その宮廷に対する接触面においては呪術や加持祈祷、さらには西胡(イラン)の幻戯のようなまねまでせざるをえなかった。純密が中国に渡来するにあたって、呪術性という点で似たような道教が存在したということは、密教にとって、逆縁としても順縁としても、不幸であったといえる。
《引用終わり》

空海がこれからもたらす密教に対して日本の朝廷はどうだったのか…先が楽しみです。

《以下引用》…
空海が長安に入ったこの時期、密教はすでに退潮気味であった…。事実、恵果の晩年のこの時期には、すぐれた若者が密教を志さなくなっていたのではないか。
《引用終わり》

恵果を五カ月近くも「置きっぱなし」にしている間に、長安での空海の評判は高まっていきました。その者はなぜ自分のところに来ないのか?という思い、また己の死期の近いことを悟っての焦り。それらが恵果の中で膨らみきったところに、空海は現われます。

異国より訪れた初対面の空海に、何の試問も行わず、すべてを与えてしまうという奇跡が、かくして実現します。

《つづく》


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「?.両部の相承」の「一.恵果和尚」「二.真言と天台」を読みました。

恵果和尚は746年に長安の東方の郊外で生まれました。これは、師となる不空がインド・スリランカの旅行を終えて、長安に戻ってきた年です。9歳の時に不空の門弟だった曇貞和尚に師事し、遅くとも17歳のころには不空に師事していました。22歳のころには、不空より「金剛頂経」系の密教、善無畏の弟子の玄超和上から「大日経」系と「蘇悉地経」系の密教を授かったことになっています。

不空は多くの弟子を抱えていたので、恵果は優秀ながらも弟子たちの中では若い方だったので目立たない存在だったようです。28歳のころに不空を失い、兄弟子たちが亡くなっていく中でしだいに活躍の場を広げ、師不空の鎮護国家の路線を踏襲していきます。

当時の長安は東西の文化を集めた国際都市でしたから、ジャワ,朝鮮,インドなどから恵果の下に訪れる僧がおりました。日本から訪れたのが空海(31歳)です。59歳で病床にあった恵果は即座に空海の才能を見抜き、病をおして密教の奥義を授けました。亡くなったのは、空海と出会ってわずか半年後。

両部一具(金剛界系と胎蔵系の金胎両部を同等に見て、対にして捉える)の考え方は恵果に始まり、空海へと受け継がれていきました。

最澄は、空海と同じ804年に入唐していますが、密教に対する関心は余り高くなく、天台・戒・禅とともに付加的に密教も習ってきました。ところが、帰国して桓武天皇から求められたのは密教でした。この時代の要請に対応した形で、天台宗の中に密教専攻部門(遮那業)を渋々設けたようです。

一方の空海は、 善無畏訳の経典に基づく「虚空蔵法」と善無畏・一行訳の「大日経」を読んで、密教に猛烈な関心を持って入唐しています。最澄が習った密教は辺地の密教でしたが、空海は都長安で習っています。内容・質の面での両者の開きは大きいようです。

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