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現代は「怒」の時代だと思います。

何か問題が起きた時、即座にみんなが口にします。「誰が悪いのか?」犯人が見つかるまで、責任の譲り合い(一般的にはなすり合いと言う)も積極的に(臆面もなく)行われます。そして、犯人(いけにえ?)が見つかると、「責任を取れ!」と連呼して吊るし上げる。

これが定式化し、日常化し、当たり前のルーチンとなっているようです。天下国家の一大事から、テーブルにジュースがこぼれた!というような問題に至るまで、このルーチンで処理されています。

そこには、「世の中は誰か悪い人がいない限り、問題は起こらない」という前提があるかのようです。そして、「悪い人は徹底的に懲らしめなければならない」というルールもあるかのようです。

このルーチン処理を行っている時の感情は「怒」。何か問題が起きると、私たちは必ず「怒」に支配されます。まさに、私たちは「怒」の時代を生きていると言えます。

「怒」は、自分と他者を徹底的に区別します。「怒」は、他者とは違う自分を徹底的に正当化します(犯人たる他者に責任転嫁することの裏返しです)。そして「怒」は、正義の名の下に、徹底的に他者を排撃します。寛容が入り込む隙は有りません。

動物も持っているような単純な怒りは、身体の活動を奮い立たせ、天敵との戦闘や逃走に適した肉体的状態を作ります。人間が仕事をする場合でも、肉体労働に限らず精神的な労働においても、このような緊張状態は必要だと私は思います。

仏教とてこれを禁じてはいない、と私は解釈しています。

問題なのは、つまり仏教が禁じているのは、必要以上にあらゆることをこの「怒」の状態に持っていく思考回路、すなわちルーチンだと思います。このルーチンのプログラムを変更する必要がある。

それには、「世の中は誰か悪い人がいない限り、問題は起こらない」という暗黙の前提を捨てる必要があります。「世の中は誰も悪い人がいなくとも、問題が起こってしまうのだ」という前提に置き換えなくてはいけません。

そうすれば、問題が起きた時に、それを「受け入れる(妥協)」でもなく「受け付けない(拒否)」でもなく、「受け止める(中立)」ことができるはずです。

そうすれば、責任者とおぼしき人物が洗い出されたとしても、「本当にその人だけを責めることができるのか?」と思う余地が出てきます。つまり、寛容の入り込む隙が生まれます。

さらに正義は争いのもとであることを想起すれば、拳を振り上げるようなことも滅多に起こらないはずです。

このようなプログラム変更を行って、問題発生と「怒」が直結する回路を断ち切らなければなりません。「怒」ではなく、みんなの輪、つまりドーナツの「ド」につながる回路にしなければなりません。