仙台で見てきた話は先日書きました。その時に考えたこと…「映画を見た時との違い」そして「怒るということ」。

この映画を見たのはテレビで、確か淀川長治さんが解説していたように思います。二十年くらい前でしょうか。今、この劇を見ると、最初に浮かぶのは裁判員制度です。が、これについて再び考えるのは疲れてしまいました。それよりも、この制度に対する自分の考え方、あるいはアメリカという国に対する考え方がすっかり変わってしまったことに気づいたのでした。

二十年前(もっと前かもしれない)、私の中にはまだアメリカという国への信頼とあこがれがありました。劇中のセリフの中にも、「自由の国」とか「民主主義の国」とか「フェアネス(公正さ)を重んじる国」としてのアメリカを誇っているニュアンスが感じ取れます。それにいちいちうなづいていました。「やはりアメリカはスゴイな」と。陪審員制度なんてあるんだからな…。日本ではそんなこと何年たってもできやしないだろう…。

今、裁判員制度が導入され、賛否はどうあれ、この制度のメリットは何なのか?まだよく分かりません。日本もそういう制度を導入できるようになった(せざるを得なくなった?)けれども、それが良いこととはとても思えない自分がいます。まして、アメリカが自由で公正な民主国家だなんて…。

ただ、このお話、「怒る」ということをなかなかうまく描いています。十二人の男が、それぞれの形で怒っています。貧民階級への偏見から生じる怒り、自分と対立している息子と被告をダブらせての怒り、何で赤の他人のために相談しなくちゃいけないんだという怒り、冷静にあるいは論理的にみんなが議論しないことに対する怒り、フェアネスの国にいてフェアな裁判をしようとしない人たちへの怒り…。

しかし、怒りはどれも、理不尽であり、強引である。やはり、人は「怒り」を原動力にして生きてはならないのだな、と思いました。