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「唯識入門」(春秋社)
「第三章.さとりのプロセス」の「二.得ることと得ないこと」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第七偈が出てきます。

(1.7)それゆえに、得ることは得ないことを本性とするものであることが証明された。それゆえにまた、得ないことと得ることは等しいことが知られる。

《以下要約》
「得ること」は唯識ということの認識、「得ないこと」は対象の得られないこと(対象を知覚しないこと、対象の非存在)および認識作用の非存在。

唯識と知ることが唯識という状態になること、能所の対立のない状態になること。逆に言うと、識が所取・能取となって顕れることが、まよいの世界の成立と言えます。

ただし、まよいの世界成立以前の、識のみの状態とは、あくまでも理論的な要請です。われわれのあり方は、無始時来、能所対立の世界です。仏教はそこから出発します。しかし、さとりによって到達できるのは、本来そうあるべきだから、というのもまた、仏教の考え方の特徴です。

さて、ブッダが法を弟子たちに説いているとき、ブッダの意識には能所の区別はないのか?という疑問が生まれます。答えは「分別はある」ということになります。

ブッダといえども、人間の姿をとって(他の衆生でも構わない)顕れているかぎりは認識作用(智)があって、自他を区別し、法を認識し、意識している自分を意識しているはずです。

その点はさとっていないわれわれと全く同じです。

ブッダが我々と異なるのは、真実においては唯識であると知っていること、一度、唯識の状態になったということです。

そこで、一度、無分別智を得た後で現れてくるものという意味で「後得智」と呼び、「清浄なる世間的な智」と規定しています。分別という点では「虚妄分別」と同じですが、その虚妄性を自覚している点が全く違います。

これは、究極の立場と世間的方便の立場、第一義諦・勝義諦と世俗諦という考え方に見合うものです。

仏のあり方でいうと、法そのものとなった仏(法身)と、それに基づいて他者に法を説く仏としての受用身(浄土にあって菩薩のために法を説くほとけ)、変化身(穢土つまり娑婆世界で、凡夫のために法を説くほとけ)という三身説に呼応しています。
《以上要約…詳しくは本書参照》

ここで「龍樹」のブッダの章を読み返してみましたら、以前と違った文章に感じました。理解が増したということかもしれません。

《つづく》