トトガノート

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Tag:形而上学

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「意識の形而上学」
第一部「存在論的視座」の「.真如の二重構造」を読みました。

全一的「真如」のイメージを略図化したものが示されています。円を半分にし、上半分をA空間、下半分をB空間とします。A空間は何も描かれておらず、無分節,非現象,形而上を示します。B空間は鱗のような模様になっていて、分節,現象,形而下を示します。

まん丸いタイ焼きが上を向いているような絵です。ポニョが上を向いている姿…「シンニョ」と「ポニョ」だから、少し似ている?

《以下引用》…ここで注意すべきことは。B空間なるものが、A空間との関連において、形而上学的・存在論的に、二重の意義をもち得るという事実、…我々がもしB空間だけを認知して、それの実在性信じ、流転生滅の現象的事物の存在次元のみが唯一の実在世界だと思い込むなら、『起信論』の立場からすれば、B空間はすなわち「妄念」の所産に転落する。…これに反して、我々がもしB空間は、ほかならぬA空間そのものの本然的自己分節の姿であって、A-B双面的な全体こそ、全一的実在としての「真如」であると覚知するなら、B空間は、そのとき、「妄念」の所産であることをやめ、…形而下的存在次元における「形而上的なるもの」、ということになる。「真如」は、妄心乱動する生滅流転の存在として機能しながら、しかもその清浄な本性をいささかも失うことはない、と考えるのである。《引用終わり》

このような「真如」の側面を『起信論』では「如来蔵」と呼ぶそうです。

この崇高な次元のものを身近な俗っぽいものに見立てていこうと、私は企てています。この世の全ての存在物がこのような双面性、ひょっとしたら多面性を持っているんじゃないかなと、思ってます。

《つづく》

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「意識の形而上学」第一部「存在論的視座」の「.真如という仮名(けみょう)」と「.言語的意味分節・存在分節」を読みました。

《以下引用》…東洋哲学の諸伝統は、形而上学の極所を目指して、…日く「絶対」、日く「真(実在)」、日く「道(タオ)」、日く「空」、日く「無」等々。いずれも、本来は絶対に無相無名であるものを、それと知りつつ、敢えて、便宜上、コトバの支配圏内に曳き入れるための仮の名にすぎない。《引用終わり》

言葉では表せないものだけれども、言葉にしないと始まらないから、敢えて別物への置換をせざるを得ない。

《以下引用》…対象を分節する(=切り分け、切り取る)ことなしには、コトバは意味指示的に働くことができない。絶対無分節的な「形而上学的なるもの」を、例えば「真如」と名づけたとたんに、それは真如なるものとして切り分けられ、他の一切から区別されて、本来の無差別性、無限定性、全一性を失ってしまう。だからこそ『起信論』は、「真如」という語を使いながら、それをあくまで仮名にすぎないと強調し、仮名だ、仮名だ、本名と間違えてはいけない、とあれほど繰り返すのだ。《引用終わり》

確かに形而上学のキータームであれば尚更でしょうけれど、日常的にも、言葉を重ねれば重ねるほど嘘っぽくなるもどかしさを感じることはあります。ラブレターなんかそうじゃないかな。少なからず伝えることと伝わることは違ってしまうものだし、聞き手によって受け止め方が全然違います。恋愛なんて、うまくいくも壊れるも、この誤解の産物ではないでしょうか?

宗教を説明することは、自分の崇高な愛情を伝えようとするラブレターのようです。『起信論』も、一切衆生を暖かく包んで守ってあげようというラブレターに見えなくもない…

《つづく》

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