トトガノート

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「空海の風景」(中公文庫)「あとがき」から。

《以下引用》
私自身の雑駁な事情でいえば、私は空海全集を読んでいる同時期に、『坂の上の雲』という作品の下調べに熱中していた。この日本の明治期の事象をあつかった作品はどうにもならぬほどに具体的世界のもので、具体的な事物や日時、具体的な状況、あるいは条件を一つでも外しては積木そのものが崩れてしまうといったような作業で、調べてゆくとおもしろくはあったが、しかし具体的事象や事物との鼻のつきあわせというのはときに索然としてきて、形而上的なもの、あるいは真実という本来大ウソであるかもしれないきわどいものへのあこがれや渇きが昂じてきて、やりきれなくなった。そのことは、空海全集を読むことで癒された。むしろ右の心理的事情があるがために、空海は私にとって、かつてなかったほどに近くなった。
《引用終わり》

この代表的な2作品が、ポジとネガの関係だったようで、興味深いです。奈良の都に作った「国」らしきものを、京の都を中心に更に発展させようとしていた時代。一方、明治政府という近代国家らしきものを、列強の方法論をまねて発展させようとしていた時代。日本という国の事情も似ていた時期かもしれません。

「国」という言葉が、夢とか、理想とかいう言葉とほぼ同義で用いられていたに違いありません。「国」をしっかりと確立しなければならない、その必要性を信じて疑わなかった時代。

平城遷都1300年ということで作成された番組の再放送を見ながら、昔の人が羨ましい気分になりました。唐の方法論をまねて、次々にいろいろなものを制定しています。女性が天皇になって政治をしている点は、現代日本よりも先進的です。

「国」というものを欲したのは、国際社会を意識してのことでしょう。グローバル化の流れです。そして、唐なり欧米なり御手本が必ずありました。しかしながら現代は、むしろグローバル化の結果として、世界が同時に苦境に嵌り込んでいて、そこから抜け出すための御手本も見当たりません。

「国」という言葉に別の万葉仮名(?)をあてるとしたら、「苦荷」とかしか、思い浮かびません。その必要性すら、よく分からなくなってきています。

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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第三章 奈良」を読みました。

《以下引用》
…男山の南麓、交野は788年(延歴7年)に桓武が中国の皇帝を真似て、天壇を築き、生贄の牛をささげた地である。のちに坂上田村麻呂が連れ帰った蝦夷の将、アテルイとモレをだまし討ちにしたのもこの地だったという。…
《引用終わり》

東北の人間としては微妙ですが…京都周辺に行ったことがないので、航空写真はワクワクします。

確かに平城京よりも長岡京の方が海(大阪)に近くて、便利そうですね。ただ、京都盆地を意識すると偏った場所です。琵琶湖に引っ張られるようにして、平安京に移って行ったんですね…


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《以下引用》
…ひとたび人間とは何か、という哲学的問いを立てたならば、本質的な問いを回避した所に積み上げられる知識や規範などは、逆にみずからの精神を束縛しようとするものだと感じられる。さらに、世の中の秩序が、大衆を奴隷的精神の持ち主へと貶め、管理することによって成り立っていると考えたならば、高級官僚など、いわばその精神的な奴隷たちのリーダーに過ぎないと思い至ったであろう。…
《引用終わり》

24歳の空海の著作『聾瞽指帰(ろうこしいき)』『三教指帰(さんごうしいき)』に、こういった思索の経過がまとめられているのでしょう。いつか読みたいです。

《以下引用》
…密教は7世紀のインドで成立したとされる。釈迦仏教、すなわち厳しい修行によって煩悩をたちきり解脱をめざす宗教からは大きく変質し、現世を肯定、欲望をも否定しない。少なくとも印象においては、まったく新しい宗教であった。

密教が生まれたころの世界において、釈迦の教えはすでに少数の修行者だけのものではなくなっていた。しかし教えを受ける庶民たちの多くは、欲望を断ち切ることなどできない。到底たどりつけない解脱の境地と照らして、みずからが当然の本能としてもっている煩悩の大きさに精神の負い目を抱かずにはいられなかったであろう。密教を生み出した哲学者たちは、おそらくこのような人間精神のありようを、惨憺たるものだと感じたであろうし、だからこそ、釈迦の思想を昇華させることで、生に対して肯定的な宗教を作り出そうとしたのかもしれない。かれらがその思想の中心に据えたのが、大日如来という宇宙の真理を体現する絶対的な「虚構」であった。…
《引用終わり》

人間とは何か、という哲学的問いの答えを「あの世」に求めている宗教・宗派は多いのではないでしょうか?これは逃げであり、ごまかしではないかと思います。

でも、空海は逃げません。

《つづく》

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