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「神の視点」から「人間の視点」への移行というのを考えた時、「民の見えざる手」というフレーズが頭に浮かびました。

市場原理で価格が決定するシステムを、正当化するためと言えばいいんでしょうか、神聖化するためと言えばいいんでしょうか。「神の見えざる手」という言葉には、王権神授説みたいな俗っぽさを感じます。

神様が俗界の象徴みたいな「お金」に手を出すんだろうか?「神様は賭博場に通うのか?」的な批判は当時無かったんでしょうかね。八百万の日本ならば、賭博場の神様も居そうですけど。

「神の裁き」とか「最後の審判」とか、西洋の神様は裁判がお好きなようです。だから、裁判とは神聖なもの…と思いがちです。でも、最近、私は違うような気がしています。天罰のようなものは除外するとして、少なくとも民事とか刑事とかの裁判は神聖なはずがないと。

本当に神聖な存在は人を裁くだろうか?神様が賭博場に通うことに違和感を覚えるのと同じように、神様が法廷に立つことも奇妙なことに思えてならないのです。

裁判員制度は、司法における「神の視点」から「人間の視点」への移行ではないでしょうか?神に近いと思われる良識ある専門家たる裁判官から、一般の人間へと判断が委ねられる…

科学史を展望して気付いたのは、「神」と呼んでいたものも結局のところ人間が想定したものに過ぎません。政治・経済・司法等々の様々な分野でも、いたるところに「神」は現れ、極めて俗っぽい作業にもその手を染めていました。

でも、それは「神」の手ではありませんでした。われわれ「民」の手だったのです。

《つづく》