トトガノート

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Tag:密教

空海コレクション 1 (秘蔵宝鑰・弁顕密二教論)

1.序論(1)「序詩」
2.序論(2)「序詩を基点とする十住心体系の概要」
3.序論(3)「序詩を基点とする十住心体系の概要」
4.序論(4)「曼荼羅世界を詠んだ詩句」
5.序論(5)「十住心体系の詩句」

6.本論−第一異生羝羊心「(1)第一異生羝羊心とは何か」
7.本論−第一異生羝羊心「(2)異生羝羊心の人間存在と、まとめの詩句」
8.本論−第一異生羝羊心「(3)問答による異生羝羊心の論拠」

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「三教指帰」(角川ソフィア文庫)第三章「仮名乞児の主張」の後半を読みました。

乞児は輪廻について語ります。当時はまだ、仏教と一緒に入ってきた外来の考え方という認識が強かったのでしょうか。

生き物は輪廻を繰り返す。ある時は妻子となり、ある時は父母となり、あるいは動物となり、すべての生き物の間を迷いながら生まれかわる定め。この考え方は、自分という存在、男とか女とか、老いているとか若いとか、人間だとか獣だとか、そういう束縛から解放するものでもあります。

さらに、釈尊について、無常の賦、生死海の賦、十韻の詩を詠い、仏教の素晴らしさを説きます。そこで、あっさり前出の先生方がひれ伏すのですが、この点は不自然であり物足りない感じがします。もちろん、仏教の深さが他を圧倒している点は明らかですけど。

十韻の詩の中に、「空海の夢」の第20章のタイトルになった一節があるので、メモっておきます。

《以下引用》
六塵は能く溺るるの海、四徳は帰する所の岑(みね)なり。
已に三界の縛なることを知んぬ。何ぞ纓簪(えいしん)を去(す)てざらん。

このように六塵(色・声・香・味・触・法)の世界はすべて無常であり、人々を溺らせる「迷いの海」であり、常・楽・我・浄という四つの徳性を備えた涅槃の境涯こそが、彼岸にそびえる目標の岑なのです。すでに三界(この世)は私たちの真の自由をさまたげる束縛であることがよくわかりました。冠の纓(ひも)や簪(かんざし)で象徴される官位など、捨て去らないでよいものでしょうか。
《引用終わり》

最後の一文は、青年空海の決意表明でもあります。

《最初から読む》

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「三教指帰」(角川ソフィア文庫)第三章「仮名乞児の主張」の前半を読みました。

今回は仏教編。叔父阿刀大足に対する空海自身のストレートな反論と思われる箇所があります。

《以下引用》
あなたは仏道に進もうとする私を忠孝にそむくとして非難しますが、私は私で常に国家の幸せを第一に考えており、両親及び一切の衆生のために陰ながら功徳を積んでおります。これによって得られる智慧や福徳の一切がすべて忠であり孝であると私は考えているのです。しかし、あなたはただ筋力を使って努めることや、身体を屈して仕えることだけが忠孝だと思い込んでいて、もっと大きな忠孝のあることに気づいていないのです。
《引用終わり》

そして、「仏教は全体の真理、儒教・道教は仏教の一部分」という考えを主張します。

《以下引用》
…ある書物によれば、儒童と迦葉の二人は仏弟子ですが、人々がまだ未開の時代に、仏陀はこの二人を中国に遣わされました。しかし人々がまだ深い真理を受け入れるだけの能力が育っていないのを見て、儒童は孔子に生まれかわり、迦葉は老子に生まれかわって、二人に儒教と道教を説かせ、天地・陰陽についての表面的な真理を説き示させたというのです。このようなことも考えずに、あなた方は各自の道が一番だというように固執して争っているのは大きな誤りです。」
《引用終わり》

化身とか、方便とか、真如は一つであり全てであるという、全てを包括してしまう仏教の一面、あるいは空海密教の片鱗がうかがえるような気がします。

《つづく》

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「三教指帰」(角川ソフィア文庫)第二章「虚亡隠士の主張」を読みました。

今回は道教編。陰陽師とか風水とか出てくるかと思ったのですが、仙人の話でした。

儒教は当時出世するために必要だったものですから、もともとの教えは純粋なものだったでしょうけれども、現実は世俗的な成功を求める手段になってしまっていたのでしょう。

虚亡隠士はそこを批判します。

ところが、道教とは何かということになると、結局は長生きを目指すことのようなのです。酒色に溺れて身を滅ぼしてはいけない、というところまではいいのですが、健康を害しないように身体に良い物を食べないと長生きできないよ、という説教。

今風に言えば、儒教は金儲けのことしか考えない経営セミナー、道教はサプリメントとかしか食べない極端なダイエットを薦める健康セミナー。

ところが、亀毛先生も蛭牙公子も兎角公もあっさり並んでひざまずき、降参してしまいます。

儒教<道教、という不等式がここで成り立ちます。

《つづく》

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「三教指帰」(角川ソフィア文庫)第一章「亀毛先生の主張」を読みました。

青年空海が、自分は仏教を目指します!という決意表明の書です。手がつけられない非行少年の蛭牙公子を儒教・道教・仏教の三方向から説得を試みるという筋書き。

三章構成で、第一章は儒教編。水が低い所を目指して流れるように、人間も自然に快楽の方に流れるもの。でも、それではケダモノと一緒。善い方向を目指さなければなりません。人は磨けば必ず光るもの。あなたも才能を磨けば、栄達の人生も夢ではありません。…といった内容。

阿刀大足からなされたであろう説教も、大筋はこんな感じだったのでしょう。

私が子供の頃、年配の人から聞く説教もこんな感じだったように思います。千数百年もの間、最も多かったであろう説教のテンプレートがここにあるような気がします。

《つづく》

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「唯識入門」(春秋社)
「第六章.唯識の修行論」の「二.さとりの可能性」を読みました。

《以下引用》
…瑜伽行派で問題としたもうひとつのこと、そして日本の法相宗が他宗から批判される原因となったことについて触れておきましょう。…

さとりの可能性は広く仏性とか如来蔵の名でよばれており、大乗仏教は一般にすべての衆生がさとりを得る可能性がある、仏性をもっていると教えるものとみなされております。そのなかで、瑜伽行派の人々は、衆生のなかにはさとりの可能性のないものがあるという主張をもっていました。また、ひとくちにさとりといってもいろいろあり、仏と同じ完全なさとりは、菩薩となったものにだけ可能であり、声聞とか独覚の道を選んだものたちにはそれぞれのさとりはあるが、仏のさとりには至らないとも述べております。…

そして、それぞれは一種先天的な性質によるとして、この先天的な性質を種姓(ゴートラ)と名づけております。この説は「五姓各別説」ともよばれますが、さとりの可能性を生まれによって決め、あまつさえ、まったくさとりの能力のない存在(無種姓)を認めたことが、他の大乗諸宗から批難されたわけです。
《引用終わり》

確かに、これは大乗なのか?という感じ。

《以下引用》
如来蔵思想では唯識説で言う意味の転依、よりどころの転換は成り立ちません。…如来蔵思想ではさとりの原動力は心真如として衆生に本来具わっているというのですから、そしてまよっているのは本来的でない無明がそこにあり、業を起こすからで、この邪魔ものさえなくなれば、心はその本来のあり方を実現する、それがさとりにほかならないというのですから、心自体に変化、転換はないことになります。
《引用終わり》

これに対し、唯識は、
《以下引用》
…アーラヤ識が衆生の本来のあり方、しかし、あるべきあり方ではないとし、そこを出発点とする唯識説では、どうしてもアーラヤ識の自己変革・自己否定がさとりにとっての前提となります。そこを転依と言っているのですから、唯識思想は宗教的回心を重んじる仏教、努力主義の宗教、行の宗教です。
《引用終わり》

また如来蔵思想に戻ると、
《以下引用》
…如来蔵思想は、仏から見た理想論として、仏性の根拠も結局は仏の慈悲のはたらきの絶対性に求めることになります。したがって、そこにのこるのは仏からの救済論であり、それにたいする応えとしては信の宗教ということになります。少なくとも出発点に仏性のあることを信ずることからはじまります。唯識説がどちらかというと自己不信、成仏できるかどうか疑うところから出発し、それを行によって確かめようとする(これはなにほどかキリスト教の新教の救済論――神の召命とその確認のための職業の実践――に似ています)のとは対蹠的です。

そして、仏の立場からものを見る如来蔵思想は、後に密教の起こるに際して有力な基盤となったように思われます。唯識思想は自己変革の思想、如来蔵思想は本来の自己実現の思想とよんでもよいでしょう。
《引用終わり》

性善説と性悪説の違いのようでもあります。自分の思想信条の軸足をどちら側に置くかは別にして、どちらの思想をも踏まえておく必要はありますね。

《つづく》

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「空海の夢」(春秋社)
「あとがき」を読みました。

《以下引用》
現在の日本に必要なものは技術基盤でも宗教基盤でも外交基盤でもない。むしろ海外の先駆的実例に迷わされることなく、われわれは現在の日本の矛盾をもっと深く受けとめることである。われわれはまだ、明治あるいは戦後にはじまった日本現代の矛盾を充分に見つめてはいない。もし、その矛盾が今日にいたって飢餓に出ているのなら飢餓の背景におよび、もしその矛盾が失業にあらわれているのなら失業の背景におよぶべくなのだ。けれども、われわれの国の矛盾はいまのところ飢餓や失業ではなく、経済主義や精神文化や、表現力において矛盾を吹き出させた。それならそれで、そのことを徹底してうけとめるべきなのである。

ひるがえって、空海の時代においてもわれわれの国は矛盾だらけだった。国内政治はもとより、対外外交にも法身はなく、まして精神文化の背骨ともいうべき仏教は南都において六宗が六宗とも喘いでいた。日本語という言葉すら、日本人にふさわしい住宅様式すら、できあがっていなかった。そのような実情の中、どのように青年空海が出奔しようとしたか、私が描きたかったのはそのことだった。

唐に行って密教を持ち帰ったというだけなら、空海の仕事はたいしたものではない。高野山を開創したというだけなら、それは空海でなくとも多くの僧が日本全国で苦労したことだ。空海は漢語から「来るべき日本語」を想定し、華厳国家から「来るべき密厳国家」を構想し、さらには文字の書き方を入木道(書道)として、声の出し方を読経として、市場のあり方を東寺や西寺として、多様にプランしようとしたのである。

そのことを議論するには、当時の言葉だけにたよって空海がどのように実情を打開しようとしたかを説明しても、それはたんなる歴史の解説におわる。そこで私は、むしろ現在の視点から、現在において思索される言葉を駆使することで、当時の空海の計画がどのように今日にリンクしうるかを説明してみた。それが本書である。
《引用終わり》

再びこの本の帯に戻ると、『〈日本〉をプログラムした神秘の密教者、空海。』というフレーズがあります。

今回の東日本大震災でも、日本人のモラルの高さを海外のメディアは高く評価しています。幕末の日本に滞在していた外国人も同じでした。それがどこからくるのか?が、私が抱き続けているテーマです。

それがこの本の中に見つかったような気がしています。空海の国家観の件です。

当時においても現代においても、国が治まるとは、その民の一人一人が自分の心を治めているか、に帰着するのではないかということです。これは、ホロン的であり、華厳的発想とも言えますが。

民の心が治まっていれば、江戸幕府にような小さな政府でも、少なくとも国内的には治まるのです。

食と兵と信という三者択一の問は論語の中に出てきます。海外メディアが取り上げる日本人のエピソードは、兵も食も無い状況で信を見つけた話と言い換えてもいいかと思います。

しかし、我々が信を持っているとしても、それは礼(外部的規範)に起因するものでないことは明らかです。それは悲という言葉が一番近いような気がするのです。

そこに空海を感じるのです。彼のプログラミングが、まだ、この国で機能しているような気がするのです。

《最初から読む》

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「空海の夢」(春秋社)
「結.母なる空海・父なる宗教」を読みました。

一神教と仏教との対比がおもしろかったので、その部分だけまとめておきます。

《以下要約》
砂漠の民の場合、議論の末の決定は唯一者でなくてはならず、その唯一者の決定はたとえそれがまちがっていても従わなければならない。これが、一神教を生む発端です。

一方、鬱蒼としたアジアの森林では歩きすぎることは迷うことであり、右か左かの判断も単一的なものではない。こういうところでは、むしろいったん止まって熟慮するほうがよい。議論もある程度は多いほうがいい。知識は分散されたほうがよく、一点集中はリスクが高い。

こうした事情によって、砂漠の民とは対照的に議論と経験を分散させ、討議のしくみこそが教理となった。問答の様式こそが結論を生む様式となった。

ギリシア的な「線をもつロゴス」ではなくてインド的な「幅をもつダルマ」が重視されていく背景ができあがっていった。

これは反面、迷いを生むことになる。しかし、迷いは必ずしもネガティブなものではない。初期ヒンドゥ=ブディズムの哲人たちは「われわれは迷うものである」という目覚めによって、ポジティブに転換することをこそ思索した。
《要約終わり》

最後の文章が素敵なのでメモっておきます。

《以下引用》
現在性とは宗教や宗教者を過去の成果にしまいこまないことから始まっていく。われわれの一人一人において宗教的現在性は立ち上がっていくものなのだ。なかでも仏教はふんだんのヴァラエティに富んだものである。「たくさんの私」によって動向するものだ。もし今日の仏教が単一のものに見えるなら、それは仏教ではない。もし今日の仏教が過去と未来をつなげようとしていないなら、それは仏教ではないのである。
《引用終わり》

そういう意味で、今日、仏教は存在しているのか…わかりませんが、有無に関わらず、自分から進めていくのがまた仏教なのでしょう。

《つづく》

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「空海の夢」(春秋社)
「28.想像力と因果律」を読みました。

《以下引用》
想像力と因果律の対立は、現代におけるあらゆる現場を襲っている。人々が奔放な「おもい」や自由な「ねがい」を実行に移そうとすると、その多くが社会史の築いてきた力の関係によって阻まれることは誰もがよく知るところである。そこで人々はしかたなく因果律の範囲内で、因果律の形にあわせた想像力でがまんすることになる。あとは実行をまったくともなわない想像力が文化をうめつくす。
《引用終わり》

以下、外部の因果律に出会うことなく頭の中だけで妄想と化す「おもい」や、想像力を失った因果律に潰されそうな現代の人間たちについて述べられています。

《以下引用》
…私は本書において…空海の思想と生涯を右往左往をしながら追ってきた。そこに見えてきたこととは、一口に、そこでは「想像力と因果律の宥和」こそが懸命に追及されていたということだった。空海は人間本来の想像力が仏教本来の因果律と宥和しうることを確認しきったのである。これは想像力と因果律がさかしらに対立する現代の日々に身をおく者にとってはたいへんに衝撃的である。
《引用終わり》

「空海とホワイトヘッドの夢」という文章が付録として載せてありまして、ホワイトヘッドやデヴィッド・ボームの言葉を引きながら、「即身」について述べてあります。

肉体的存在としての自己と、精神的存在としての自己との間で起こる矛盾という説明の仕方もありましたが、束縛されるのは肉体的(物理的)要因とは限らないので、想像力と因果律という説明の方が適切かもしれません。それが仏教の出発点でしょうし、その宥和(妥協でも調停でもなく)が仏教の目標であるはずです。

《つづく》

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「空海の夢」(春秋社)
「27.マンダラ・ホロニクス」を読みました。

《以下引用》
ホロニクスとは、科学哲学者のアルフレッド・ホワイトヘッドや理論生物学者のフォン・ベルタランフィの有機体理論から派生したもので、その理論の継承者でもあるアーサー・ケストラーらによって命名された「ホロン」(holon 全体子)にもとづいてつくられた言葉である。だからホロニクスとは、どんな部分にも全体の動向が含まれているような部分=全体系のことをさしている。…

ただし、ホワイトヘッドはホロニックという言葉をつかわなかった。私が勝手にホワイトヘッドの考え方はホロニックなシステムに到達していたのではないかとおもっているだけだ。しかし、たとえば次のような言葉を見ると、ホワイトヘッドこそ有機体のためのホロニクスを最初に構想した科学者だったとおもえるのである。それは「一個の有機体はそれが存在するためには全宇宙を必要とする」という目のくらむような一行である。
《引用終わり》

ホワイトヘッドさんもスゴイんでしょうけど、これは華厳の中に含まれているし、空海がこれに着目していますから、こっちの方が気絶するほどスゴイことですよね…。目がくらむどころの話ではない。

《以下引用》
密教はあえて空想の場所を儀軌に導入し、直観がその宮殿に立入ることを指示したのだった。いやむしろ、人々が想像もつかないような場所や場面を導入することによって、想像力と直観力を試したといったほうがいい。このことを指摘した研究者はまだいないけれど、私は密教とはそういうものだとおもっている。そして、こうした超越的な観念場面の導入をはたしたことこそが、密教を独立させたと考えたい。

…空海が気がづいたことはこのことだったのだ。密教の奥では、正体のわからないもののためのクライマックスが出入りするということがおこるようになっていなければならないと気がついたのである。そしてマンダラとは、まさにそういうものであろうと直観したのである。そうだとすれば、マンダラのイコンたちは、そのひとつずつがホロンだったのである。
《引用終わり》

空想の場所を想定することによって、直観をフリーな状態に持っていき、直観に無限の可能性を持たせることによって、果分を説いてしまおうということでしょうか。

《つづく》

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