トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:実践論

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「釈尊の生涯」(春秋社)
「10.成道後の坐禅思惟」の前半を読みました。

縁起説は「此あれば彼あり、此生ずるがゆえに彼生ず、此なければ彼なし、此滅するがゆえに彼滅す。」という基本命題で表される。

精神的なものも物質的なものも、全ては生滅変化するものである。何もない所に突如として生じたり、存在するものが全くの虚無になったりすることはない。すべては、因(直接原因)と多くの縁(間接原因・条件)との関係によって変化しているだけである。生とは他のものが形を変えて姿を現すことであり、滅とはそのものの姿がなくなって他のものへと形を変えることである。

「此生ずるがゆえに彼生ず、此滅するがゆえに彼滅す。」「諸行無常」は時間的因果関係を示す。

「此あれば彼あり、此なければ彼なし。」「諸法無我」は論理的相関関係を示す。

釈尊は、この縁起の道理が複雑難解であるため、世人に説くことを断念しかけた。

《つづく》


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「釈尊の生涯」(春秋社)
「9.さとりの内容」の後の方を読みました。

外教の実践論に対する批判が書いてあります。

前出の神意論・宿命論・偶然論は、いずれの理論も、修行をしたところでどうしようもないという気持ちにさせてしまうもので、実践のしようがない。

禅定については…
《以下引用》
人生の最高最大の目的はすぐれた智慧を活躍させて、自己および周囲の社会の平和と幸福のために役立たせることである。釈尊時代の禅定主義は、精神の統一と肉体の束縛からの精神の解放とを問題とし、それをもって直ちに理想の状態としたけれども、実はそれは単なる理想の精神状態を作り出すという形式手段にすぎず、その形式のうちに含めらるべき内容としての智慧については、まったく触れることがなかった。釈尊は内容的の智慧こそが最も大切であり、この智慧が仏教の根本教理としての前人未説のものであったのである。
《引用終わり》

理想とする境地については…
《以下引用》
釈尊当時の宗教家たちの間では、来世に天国に生まれて幸福となることを、最高の理想とした者が少なくなかった。また無活動の絶対静寂を理想とした者もあった。釈尊によれば、これらはいずれも誤った欲求であって、前者は幸福なる存在への欲求(有愛)といわれ、後者は非存在への欲求(無有愛)とせられた。また一部の哲学者や一般の人々の間には、現世で官能の満足を求めることをもって、人生の最高理想であると主張する者もあったが、仏教ではこれを欲愛としてしりぞけた。真の理想は死後の来世においてではなく、現在のこの世において、しかも日常生活の間に到達されるものでなければ、理想としての意味も価値もないことになる。
《引用終わり》

これは後世も、現在の新興宗教でも見られるような気がします。浄土教を曲解すれば有愛、禅宗を曲解すれば無有愛、真言宗を曲解すれば欲愛、となりそうな感じですね。

仏教の理想とは…
《以下引用》
単なる苦悩の解決だけでなく、個人の人格の完成であり、社会の融和浄化である。そして釈尊の菩提樹下におけるさとりの内容としての智慧(漏尽智)は、このような究極の目的を達成する体験的知識であったのである。この段階では、個人自身の幸福よりも、社会全体の平和幸福を念願するようになって、宗教の出発点としての個人の幸福は眼中になく、個を犠牲にしても全体のために貢献し奉仕するということになる。それは釈尊の四十五年の活躍によって示されている。
《引用終わり》

《つづく》



このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ