トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:宗教

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第14章「「神」と人間のあいだで」を読みました。

《以下引用》…イスラム教徒は思想に対して非常に大きな不信感をいだき、強制的なきびしい修行によって、ものを考える力を捨て去ってしまっている。…《引用終わり》

これはイスラム教徒ではない私でさえも非常に不快を感じる文章です。自分たちの神を崇拝し、仲間内で盛り上がるのは結構ですが、他人の神様にケチをつけるのはいかがなものでしょうか。この著者は、他の宗教に関して、ものを考える力を捨て去ってしまっているようです。

《以下引用》…きわめて優秀な頭脳を持ち合わせた人々の一部には、もう一つの反論が深刻に受け止められているらしい。それは、人間に危害を加える無用このうえない生物の存在を神がなぜ許しているのか、という反論だ。つまり、ガラガラヘビや黒後家グモ、マラリアの媒体であるハマダラカ、恐るべきライ病菌、種の存続を脅かす梅毒の病原菌はなぜ存在するのか、こういうたぐいのものは、すべて神のもつ善意と両立しないではないか、と言うのである。…《引用終わり》

これに対する説明はこうです。

《以下引用》…もし、ある最高の力が真実の諸法則を「創造した」という事実を受け入れるならば、これらの法則がいったん形づくられると、みずからその機能を果たしていく、という事実をも受け入れなくてはならない。言い換えれば最高の力自体でも、さまざまな現象がこうした法則の定める方向に展開していくことを食い止められないのだ。さもなければ、法則などもはや存在せず、気まぐれだけが残ることになる。…《引用終わり》

これは全然納得できません。諸法則が実行されていくとモンスターを生み出してしまうという弊害があるのなら、そんな法則は最初から創造しなければいい。そんな言い訳は神ならぬ身のみができることなのであって、そんな法則を創造してしまうのであれば全知全能の創造主ではないということになります。

私は、道徳という分野に関してさえも、絶対的な善悪の判断基準というのは無いと思っています。まして、科学者が生物を善玉と悪玉に分類するなんて、正気とは思えません。

これについては、明日、もう少し書きたいと思います。


《つづく》
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第13章「宗教―自己を高める「努力の価値」を確信するために」を読みました。

《以下引用》…さまざまな宗教は、その形式や礼拝の具体的な詳細、象徴に対する人間的な解釈の面では互いに対立している。だが神の存在、美徳、道徳律については、どれもが一致する。純潔や善、美、信仰はいたるところで敬われているし、こういうものこそがすべてを支配すべきなのである。したがって、物質的な偶然性から解き放たれ、高遠な理想をめざす無私の努力の必要性を認めている教義に対して、非難を浴びせることはできない。人は、自分の内にあるものを発達させ、みずからを浄化し、改善し、キリストという完全な理想へ近づくことが大切だという点を理解しなくてはならない。そのほかのことはすべて二の次なのである。…《引用終わり》

美徳・道徳律などは各宗教とも共通する部分は多いかもしれません。が、「どれもが一致する」というのは言い過ぎのように思います。少なくとも「キリスト」という部分は共通ではない!

《以下引用》…どんな宗教を信じているにせよ、わたしたちは、谷底にいながら、他の峰々を圧してそびえる雪をいただく山頂へ登ろうとする人々に似ている。だれもが同じ目標に目をすえており、きわめるべき山頂が一つしかないことでは一致している。ただあいにく、たどる道がそれぞれに違っているのだ。…宗教は形式がさまざまに異なり、外的条件の制約を受け、風土によっても違いが生じ、土地がらや民族や伝統に適応しているが、そのすべては一つの普遍的な法則のもとにおかれている。超自然的なものから生まれたこの法則が、各宗教の存在理由となっているのだ。不寛容は、無理解の証しである。…《引用終わり》

山の例えに似たものを自分も以前書きました。目指すものが同じであるということについては、少なくとも釈尊はかなり慎重であったようです。みんな同じものを目指していても、その目標がみんなの目に同じように見えるとは限らないのではないか?

この本は、かなり強引というか…不寛容さを感じます。

《つづく》
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第12章「迷信の功罪」を読みました。

野獣はすべて火を恐れる中で、人間だけが火を支配下に置くことができました。

《以下引用》…恐怖がその心理学的な反応を妨げる壁とはならなかったという点で、原始人は、動物と決定的に違っていた。彼だけが、その壁を越えて進んでいける脳をもっていた。炎の支配に成功した後、彼は経験という限界の外側に、超自然的でしかあり得ないような起源を考え出し、その起源に現実的な人格を授けた。すなわち、つくりものではあるが強力な、新しい存在を創造し、怒りや憎しみ、嫉妬など、あらゆる人間的な感情をつけ加えたのである。これが最初の神だったかもしれない。《引用終わり》

この段階での神は完成されたものではないので、これを崇拝することも宗教とは呼び難く、迷信と呼ぶべきであるという内容です。動物から人間へ至る過程と同じように進化と適応の原則の下、迷信も進化したり適応してしまったりした中から、宗教と呼ぶべきものが誕生した…という考え方。

そしてこれまた、動物と人間との間に完全な一線を引いたように、迷信と宗教との間に一線を引いています。そして、この宗教とはキリスト教のみを指していることは間違いないようです。

でも、自分たちと他者とを完全に区別すること、自分たちの思想・信条が他者のそれとは完全に別物で、しかも自分たちの方が絶対的に優れていると信じることが危険であることに気付いていないようです。

その考え方を拡大していったときに、論理の上では矛盾が生じ、人間社会の中では軋轢が生じる。この本の著者は、そこまで気付かないレベルの人なのだろうか?

《つづく》
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序章「人間は、これからどのような未来を迎えるのか」を読みました。

《以下引用》…本書は、生涯のある瞬間に、なんらかの会話や体験を通じて心に疑問が湧き上げるのを感じたことのある人々に向けて書かれている。合理的な自我と考えているものと、精神的、宗教的、もしくは感情的な自我との葛藤に悩んでいる人々に向けて書かれている。また、人生の目的が高邁な良心の実現と、人間固有の資質の調和のとれた融合による自己完成にあることをわきまえ、自分の努力や試練のもつ意味を理解したいと願うすべての人々のために書かれている。…《引用終わり》

人間は「自分はカスなんじゃないか?」という絶望感に直面しないようではダメなんじゃないか?と前に書きました。また、自己が自己に対して抱く矛盾による悩みを抱くことこそが「人」としてのはじまりだと思います。この本は、そういう人が対象ということですね。

《以下引用》…本書は、みずからの努力が宇宙的な秩序の中に組み込まれることを願い、その宇宙的秩序に対するなんらかの貢献を通じて、みずからの存在や希求心に、個人的利害という狭い枠を越えた真の価値を与えたいと切望する人々のためにある。人間的尊厳が実在し、宇宙における人間の使命が確かにあることを信じている人々、あるいはそれを信じるまでにはいかなくても、そう信じたいと願っている人々のために、本書は書かれているのである。…《引用終わり》

第二次大戦前後に書かれたものだと思うのですが、大量殺戮兵器の悲惨を目の当たりにした世界が震撼して、人類の将来に危機感を持ったという時代背景があるのかもしれません。

こういう真面目なことを言うと煙たがられたのが、我々の世代です。

《以下引用》…今日まで個人個人の生活に一つの意義と努力の根拠と達成すべき高邁な目標とを与えてきた教義、すなわち宗教を、知性がいまだ揺籃期にある科学の名において破壊し、人間の存在理由をすべて奪い去ってしまったところに、現代の不安の主な原因があると確信している。…人間を人間として特徴づけるのは、まさにその人間の内部における抽象的な観念、道徳的な観念、精神的な観念の存在である。このような観念以外に、人間が誇り得るものはない。これらは人の肉体と同じく現実的であり、肉体だけではとうてい手に入れることのできない価値と重要性とを与えてくれるのだ。…人間の尊厳というのは空虚な言葉ではない。そして、この点を確信せず、この尊厳を手に入れる努力をおこたるならば、人はみずからを獣の水準までおとしめてしまう―これらの点についての証明が、いま必要とされている。…《引用終わり》

宗教が全てを包み込み全てを説明していたところに、科学という別な説明の仕方が出現したわけです。科学は「誰の目にも同じに見えるもの」(即ち客観性)で構成されますから、宗教との間で食い違いが生じた時、宗教には勝ち目がない。

だから科学と宗教の間に整合性の橋を架けることはできないまでも、とりあえず科学と宗教で住み分けができれば良かった。でも、宗教が余りにも硬かったために、科学との衝突でガラスのように粉々になってしまった…

この本がやろうとしていることは、科学を十分に意識しながら(当時有名な生理学者でしたから)、この破片を拾い集めることかもしれません。

但し、著者も訳者もクリスチャンですから、「宗教」というのはキリスト教に他ならないはずです。私は仏教的な視点で読み進みながら、この作業を自分なりにやってみたいと思います。

上記引用文を読み返すたびに、大乗起信論と共通した志を感じるのです…

《最初から読む》
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双面的な意味を持つ言葉「本当」。前述のように、「理想」という意味と「現実」という意味があります。「理想」とは、プラトンのイデアに相当すると思います。このイデアは、どこか遠くの崇高な世界にしまってあるわけではなくて、私たちの頭の中にあるものだと私は考えます。

例えば「馬」というイデアは、「馬」という普通名詞を理解した時点で頭の中にできる。それは、病気や怪我をしたりしていない馬、つまり理想的な馬です。馬の絵を見たり、映像を見たり、実際に動物園や競馬場(!)で見たりして、経験を積むことで更に克明なイメージになっていきます。つまり、帰納的に形成されるものです。

生物学的に個々の馬(つまり「現実」の馬)を規定するものはDNAですが、これは理想的な鋳型(つまりイデア)から作られるものではなくて、オスの半分とメスの半分をくっつける手法で作られます。だから、時間とともに「馬」も変化していくわけですし、クローンでもない限り同じ「馬」は現実には存在しません。まして、永久不変の「理想」的な馬の鋳型なんて有りえないのです。

理想から現実が作られるのではなく、現実から理想が作られる…

理科で言うなら、理論から実験結果が決まるのではなく、実験結果から理論が実証される、ということ。でも、実験では決しない分野(つまり哲学とか宗教とか形而上学的な分野)における「本当(理想)」は、自由に決められるのかもしれない。

だから…何が言いたいかというと…

最大多数(なるべく多くの人)が最大幸福(なるべく幸せ)を感じられるような考え方を、「本当」と決めればいいんじゃないだろうか?

そういう「本当」を探し出すことが、私の本願です。

《最初から読む》
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科学に興味を持ち始めたダライ・ラマに、あるアメリカ人女性がした忠告は私も面白いと思いました。「科学が宗教を殺す」ということ。神は死んだそうですが、殺したのは科学なのかな…と私も思っています。

ただ、だからと言って科学に近づくのを恐れてはいけないと思います。科学をこれ以上野放し状態にしておくことは全人類にとっても危機です。「科学は人類をも殺す」だろうから。ダライ・ラマの勇気をたたえたいです。

私見ですが、科学とは客観性(あるいは再現性)のある事象から帰納的に真理を探究していくもの。宗教とは、人を幸せにする真理を示すもの(あるいは探究すべきもの)。そして真理とは絶対普遍のものなどあり得なくて、時代とともにあるいは人とともに相対的にあるものです。昔と現代で違うし、科学者と宗教者でも違う。だからこそ、歴史を振り返り、いろいろな分野の人と影響を及ぼしあいながら、永遠に追及し続けなければいけない。

さてさて、先が楽しみです。

つづき(20%)から見る

ダライ・ラマ科学への旅―原子の中の宇宙
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クリスマスケーキを食べたかと思うと、一週間後にはお寺で除夜の鐘を聞き、その翌日から神社に初詣にでかける…と揶揄されますが、これが典型的な日本人です。でも、これってダメなことですか?

「これだから日本人はダメなんだよ!」という人に言いたい。「こうじゃないから世界平和が訪れないんだ!」と。

宗教はその教団内部に平和をもたらすかもしれませんが、排他的な側面もあるので、逆に他宗教との争いの種にもなります。であるならば、日本人のこのやり方はとってもいいんじゃないでしょうか?

教義に厳格な真面目な人たちが、他宗教と溶け合っていくのは難しいと思います。だから、たとえばキリスト教ならば聖書からではなくケーキから入っていって、みんなでおいしいものを一緒に食べているうちに仲良くなる…

いっそのこと、この年末年始の期間に世界のいろいろな宗教のおいしいところだけ取り入れて、日本の新しい習慣にしてしまえばいいんじゃないでしょうか。それに必要なものが売れるから景気も良くなるし、おいしいことはいいことです。

これが世界平和実現の唯一の方法だと、私は思っています!
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