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ブロックとは、レゴブロックとかダイヤブロックとかのブロックです。

何でも作れます。自動車もお家も人間も…何でもかんでも。

でも、本物とはちょっと違う。本物の自動車は、自動車の部品でできているから。本物のお家は、お家の材料でできているから。本物の人間は、人間の細胞が集まってできているから。

でも、本当に違うのか?もっともっと分解すれば、全部原子の集まりだぞ。本物は、原子というブロックで作られてるだけじゃないか?

先日の縁起説の説明を読んで、そんなブロック的宇宙観を思い出しました。(自分の中に以前からあったものです)

精神的なものも物質的なものも、全ては生滅変化するものである。何もない所に突如として生じたり、存在するものが全くの虚無になったりすることはない。すべては、因(直接原因)と多くの縁(間接原因・条件)との関係によって変化しているだけである。生とは他のものが形を変えて姿を現すことであり、滅とはそのものの姿がなくなって他のものへと形を変えることである。

生とは、バラバラなブロックが組み立てられること。滅とは、ブロックがバラバラになること。

ブロックがバラバラになれば、今まで目の前に有った物が見えなくなってしまったりします。でも、ブロック(原子)が消滅したわけではない。

ブロックが組み立てられれば、今まで何も見えなかった所に忽然と物が現れます。でも、ブロック(原子)が存在しなかったわけではない。

原子レベルで捉えれば、縁起説の説明はそのまま科学の教科書に載せてもいいような文章です。

ブロックがひとたび「何か」を形成して目の前に現れた時、私たちはそれがブロックの集合体に過ぎないことを忘れ(あるいは気づかず)、「何か」という名前や意味づけにばかりとらわれてしまいます。

「もの」は何でも、(そもそもブロックなのですから)ブロックとして振る舞いますが、私たちは「何か」として見ようとばかりします。

ブロックで作った不格好な塊を、車と呼び、お花と呼び、お家と呼び、夢中になって遊ぶ子供たち。しかし、それを笑う大人たちも、結局は同じ遊びを夢中になって続けているに過ぎないのかもしれない。