トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:宇宙

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人体という小宇宙。細胞というブロックで構成されています。

最初は一個の卵。そこから分裂して、それぞれの持ち場におさまります。脳になったり、心臓になったり、肛門になったり…

皆が共通のDNAを持っています。ひとつひとつは、もともと同じブロックなのだけれども、違う場所で違う働きをして、その「役」を演じています。

脳は王様みたいな「役」、心臓は働き者の「役」、肛門は身分が低い(?)「役」…。

「役」に優劣はあるけれど、もともとは同じブロック。

「立場」に優劣はあるけれど、もともとは同じ人間。

もともとは同じなのに、損な「役」っていうのはある。

もともとは同じなのに、つらい「立場」っていうのはある。

損してもつらくても、そうでない「役」や「立場」に気持ちをうつせたらいいね。

損してなくてもつらくなくても、そういう「役」や「立場」に気持ちをうつせたらいいね。

それが、ひとつの小宇宙を構成するための秘訣…

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子育てってこんなに楽しい! に参加中!
1日にプラネタリウムに行ってきました。長女(年長さん)は近々、幼稚園で行くらしいのですが、初めては嫌なので下見をしたいようなことを言っている…誰に似たのか(やはり私か

この施設(北村山視聴覚センター)は、私が小学生のころにできた筈です。「プラネタリウムという凄く高価な機械が入った!」と担任の先生に言われて、授業の一部として連れて行ってもらったような気がします。

それ以来ですから、三十数年(ほぼ四十年)ぶりです…それから星空を見るのが好きになり、宇宙に興味を持ち、理学部に入ったような気がする。

そんな感慨に浸りながら、娘と並んで座りました。しだいに暗くなり、ポツリ、ポツリと半球状のスクリーンに点が現れてきました。

「ほら一番星!あっちに二番星…」と娘に教えていたところまでは覚えています。その後は記憶がない…

途中、娘に顔をいたずらされて目が覚めたような気がします。「こら、やめろ!」と怒ったような…

「東の空が少しずつ、明るくなってきました。朝が来ると、プラネタリウムは終わりになります。」というアナウンスで目が覚めました。

妻も爆睡していたようでした。二人していびきをかいていなかったか心配です。効果音としてはいいかもしれませんけど。

「シートの座り心地をもっと良くして欲しいな。」
「枕持ってきてダメなのかな?」
「布団も敷きたいね。パジャマも持ってきて。」
「睡眠障害の治療に使えないかな?我々は必要ないけど。」
「でも、だいぶスッキリしたね。」

ほぼ四十年経って、感想もだいぶ変わりました。

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悟りへの道 に参加中!
つらいことばかりで何もいいことがない。何をしてもうまくいかない。そして理不尽なことばかり横行している。この世を憂き世(浮世)とは、よく言ったものです。

そんな逆境の中で、希望を捨てず、明るい明日を信じて、夢に向かって頑張り続けるには、どうしたらいいでしょうか。憂き世と呼びながらも、この世を諦めることなく、私たちの祖先はどうやって頑張ってきたのでしょうか。

それは「本当はいい世の中なのに…」という宇宙モデル(!)を心に描き、共有していたからではないかと思います。もちろんそれは仏教信仰の中から、知らず知らずのうちに芽生えていったものだと思いますが。

本当は、この世は極楽浄土なんだけど、現状はそうなっていない。だからみんなでこの世を極楽浄土に近づけようよ!という共通認識を持っていたから、頑張れたんじゃないか?

それが仏教の重要なエッセンスのひとつだとすると、たとえ仏像に手を合わせなくとも、この宇宙モデルを常に頭に描いておけば、だいたいOKじゃないだろうか?

先日、「「哲学としての仏教」が示す宇宙観・人間観を身につけることで、なるべく動じない心が養われていくように思います。」と書いたのは、そういうことです。

「本当はいい世の中なのに…」と捉えることによって、つらい憂き世を諦めない道もあるのかもしれない…

それはそれこそ悟りの道。遠く険しい道でしょうね…

《つづく》

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第四章仏身論第二節「大日如来論」まで。

五智や四(五)種法身について語られています。興味深かったのは、釈尊と大日如来の関係について。つまり、大釈同体説か大釈別体説か。

他の宗教でもこれと似た議論はあると思います。教祖と神(のような存在)との関係。同じとするか、別だとするか。

これは飽くまでも私の好みの問題なのですが、別にして欲しいな…と思っています。教祖は飽くまでも我々と同じような人間であって欲しい。物凄い超能力を持った天才だった!と言われると、どうもリアリティがなくて信仰する気が湧かない。

釈尊に限らず、教祖さまが生まれるずっと前から宇宙があったわけで、大宇宙の中のちっぽけな銀河系、その中のちっぽけな太陽系、その中の一惑星にポツンと生まれ落ちた一人の人間が、大宇宙全てを統括するような偉大な存在だ!と唱えるのは無理がある話です。

大宇宙全てを統括するような法というのはずっと前から存在していて、その全てを人間が理解するということは不可能なのだけれども、一番近い線まで気づいた人(理解できた人)が教祖さま!という説明の仕方が一番いいと思う。

これを仏教でいえば大釈別体説ということになります。この立場を取るのは真言密教だけだと思います。私が真言密教をお気に入りにしている理由のひとつです。

《つづく》

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死なない理由 に参加中!
私たちに与えられているのは、限られた波長の光しか感じない目と、これまた限られた周波数の音しか感じない耳。犬より格段に劣る嗅覚。ちっぽけな脳細胞がいろんな機械を発明して、もともとの能力以上のことができるようになっているけど、全知全能には程遠い。

宇宙というのは複雑多岐。何次元かわからない。3次元空間に時間を足して4次元まで、我々はかろうじて認識できることになっている。だから、それ以上の次元はわからない。

認識能力を超えた次元を見ようとすると、どういうことになるか。これには影絵の喩えがよく使われる。影絵は3次元の物を2次元のスクリーンで捉えるもの。つまり、2次元しか認識できない目で3次元の物を見ること。

角度を変えれば、いろんな形になる。こういうことは大宇宙なんて大風呂敷を広げなくても、日常的に体験できることなんじゃないだろうか。身近な出来事、身近な人、見方を変えると全然違ったものに見える。

たとえば、目の前にいる私の奥さん。一人の人間は60兆を超える細胞でできているとのこと。そして、1個の細胞を構成している原子の数は…と考えたら、これは立派な小宇宙。こういった構成要素それぞれの都合を総合して、一人の人間が動いている。ずっと一緒にいても謎が尽きない。

そんな謎めいた奥さんと、謎めいた私と、その謎を引き継いだ娘たちが影響を与えあっている。我が家の中を見ただけでも何次元かわからない多次元の宇宙。

つゆと落ち つゆと消えにしわが身かな なにわのことも夢のまた夢…

生まれるとは、何か大きな全体からポツンと一滴、しずくが落ちるようなものじゃないかと思う。葉っぱの上を転がるしずくのように、表面張力をもって、なにわの中をコロコロ転がる。

限られた窓からしか他を見ることはできないし、聞くこともできないし、嗅ぐこともできない。そんな窮屈な表面張力が用意されているのは、何か意図があるのではないか?と思う。

見えないようにできているんだから、見えるところだけ精一杯に見ればいいと思う。聞こえないようにできているんだから、聞こえるところだけ精一杯に聞けばいいと。嗅げないようにできているんだから、嗅げるところだけ精一杯に。そして、生きているんだから…

生きる意味がわからない?死なない理由がわからない?じゃあ、死ぬ意味って何なんだ?わかるのかい?

《つづく》

ambivalent…この言葉、最も好きな言葉のひとつです。宇宙の本質を言い当てているような気がするから。

光は波なのか粒子なのか…小学生の時、百科事典で調べました。どちらも本当とのこと。実験によって波の性質が観測できるものと粒子の性質が観測できるものとがある。つまり、答えは尋ね方によって違う。光とは気難しいものだなあ。

私は波なのか粒子なのか…同級生に光君がいました。私の名前にも光が付く。そして私も含めてこの世のものは全て原子という粒子でできているらしい。でも、これも実験のやり方で波の性質が出てくると習った。私も尋ね方によって、波になったり粒子になったりするらしい。そもそもそんな実験をしなくても、私は気難しいらしいが(家内談)。

おそらく、宇宙というのは何も無いのだ。有るとも無いともおぼつかない媒質くらいは有るだろう。それが振動している。振動が止まれば、私たちは宇宙ごと雲散霧消してしまう。そんな空しい存在。まして、そこに境目など無い。同じものが振動しているだけの波に境目などあるわけがない。

でも、生まれ落ちるとは境目をつけること。境目をつけることによって、自分という存在を確認できる。私たちは必死になって境目をつける。これは私、それはあなた。これは私のもの、それはあなたのもの。これは私がしたこと、それはあなたがしたこと。私たちは必死になって妄想を創り上げていく。

それは、境目のないものを区別する空しい作業。全ての苦しみはそこから生まれる。波と知りつつも、時として粒として生きなければいけない。でも、それがこの世の掟。この世に生まれ落ちるということ。

波としての自分と、粒としての自分。アンビバレントなまま、人は揺れ動く。それがこの世を生きるということ…

露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢

 宇宙の中のゆらぎが特別な状態を作り出し、そのなかで化学反応が起きて生命が生まれた!という仮説があるようです。現代社会の生活の中でも、私たちはいろいろな変化に包まれていますし、それがストレスになる場合もある反面、その波に揺られているのが自然なあり方なのではないかと私は思います。全く波立たない海に浮かんでいても、つまらないのではないかと。

 でも、大きな波が来たときの苦労からか、人は安定を求めがちです。仏教でしっかりと「無常」を勉強してきた日本人ですが、強く安定を求める傾向があるのは、戦争という大きな波を経験した世代の残り香でしょうか。もっとも今の若い世代には見られないかもしれませんが。

 世の中には「安定」というものは偶然続くことはあるにせよ、基本的には存在しないのだと私は思います。安定していると思えるのが見せかけならば、そんな不安定な安定は捨てて、不安定な日常に敢えて身をおき、耐力をつけたいものだと思いました。

 ゴールデンウィークに泊まったビジネスホテルは、民宿のような雰囲気で、ご主人と少し話をする機会がありました。「うちは後継ぎがいないんだよ。息子は、ずっとこんな商売見てきたから、安定した公務員になりたいと言ってねぇ…」
「うちの両親は公社に勤めていましたから、その息子(私)は安定を嫌って自営業ですよ。全く逆ですね(笑)」

 これも無常ということでしょうか。

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