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娘から叱られるようになりました。
「パパ、いただきます言いましたかぁ〜?ん?聞こえなかったな〜」
「ありがとう言いましたか?何かしてもらったときは言わないとダメなんだよ。」
「あ〜あ〜、バカって言った!そんなこと言うと頭から角が生えてくるんだよ。」

娘たちは、こういう基本事項習得の現役なので、相手かまわず注意をします。こういうことは卒業したと思い込んでいる我々にしてみたら、こんなを注意されるのは懐かしいというより新鮮ですらある。とはいえ、笑って「ゴメン」と済ませられるのは相手が子供だからでしょうね。大人からこんなことを注意されたら、「バカにすんな!」と怒ってしまうことでしょう。

こういう基本事項に卒業は無いのですが…果敢に注意してくれるのは子供だけ。大人には注意をしなくなる。言っても無駄だ、と疎んじられて遠ざかっていくだけ。まあ、これが大人の流儀というか、大人が大人に注意をするやり方なのかもしれない。だから、周囲の動向にも耳を傾けていなければならない。

「われ以外みなわが師」という言葉は、吉川英治の座右の銘ですね。同名の著書もあったようですが、それは読んでいないので、彼がこの言葉に抱いていた真意はわからない。けれども、ずっと前に耳にして気に入った言葉で、自分の中にはずっと温存されていて、人生のいろんな場面で自分なりの解釈を加えて来ました。

他人というのは、いわゆる「いい人」ばかりではありません。知り合ったばかりの頃は非の打ちどころのないように見える人でも、だんだん付き合っていくうちに一長一短がわかるようになって、結局「いい人」ではないことがわかる。最高に理想的な意味での「いい人」はいないんだと私は思います。「あの人はいい人だよね」というのは褒め言葉ではない場合が多いようです。

だから「わが師」というのも、若いころは「その人の一挙手一投足を見習いたいほど尊敬できる人」というとらえ方をし、そういう人を探していた時期もあります。でも、それは「青い鳥」なのかもしれない…といつか気付く。それ以降「わが師」は反面教師の意味に変わります。

今は、どんな人にもいいところとわるいところが必ずあるから、「いい人」に見える場合には、悪い面がまだ見えていないのだと考えて、むしろ警戒します。「悪い人」に見える場合には、いい面がまだ見えていないのだと考えて、探してみようと心がけます。

殺人を犯してしまったような人でも、その人と同じように生れ、同じように育ち、同じような経験を社会でしたならば、自分もそういう凶行に出るかもしれない。

「人のふり見てわがふり直せ」というように、他人の中に自分を見つけて、自分のいい面は伸ばそうとし、悪い面は抑えていきたい。逆に自分の中に他人を見つけて、優しすぎず厳しすぎず、その人と接していきたい。そのときに家族は良き相談相手であり、解説者であり、批判者であり、指南役であります。

そんなわけで、娘の指摘にも謙虚に耳を傾けて生きたいと思います。