トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:妄念

ブログネタ
こころの中…ひとり言 に参加中!
思い浮かべてごらん…

ここは「思い込み」の世界…

だから、みんな「思い込み」を持っていないといけない。


「本当」は何も無いのに、あるかのように分け隔てて…

「本当」は何も無いのに、名前をつけて…

「本当」は何も無いのに、意味を持たせて…

「本当」は何も無いのに、値打ちを付けて…

差をつけている…


お金は、値打ちを測るだけのもの。

お金は、物を交換するときに便利だっただけ。ただそれだけ。

でも、それが全てを測る物差しになってきている。


ただ便利なだけで、何の根拠も無かったのに、

お金で測れないものは少なくなっている。

そして、お金で買えないものが少なくなっている。


お金で測れないものが「本当」は大切なのに…

お金で買えないものが「本当」は大切なのに…

お金以外の測り方がいくらでもあるというのに…

お金が一番大切なように、みんな、思い込み始めている。

《最初から読む》

ブログネタ
こころの旅 に参加中!
思い浮かべてごらん…

ここは「思い込み」の世界…

だから、みんな「思い込み」を持っていないといけない。


よりマシな「思い込み」を覚えておくために、

より多くの「思い込み」を覚えておくために、

人々は文字を使って書き残している。


石に刻んだり、木に彫り込んだり、紙に書いたり…

石や木や紙が残っている限り、文字は残る。

だから、文字は時間を越えることができる。


文字は山を越え、谷を越え、海さえも越えて…

いろいろな人に読まれる。

だから、文字は空間を越えることができる。


文字とは、言葉を記号化したもの。

言葉とは、「思い込み」につけた名前。

だから、文字として時空を越えるのは、実は「思い込み」。


文字が時空を越えるのは、

それが「良い思い込み」ならば良いこと。

それが「悪い思い込み」ならば悪いこと。

そして、「良い」とか「悪い」とかいうのも「思い込み」。

《最初から読む》

ブログネタ
気づき に参加中!
思い浮かべてごらん…

ここは「思い込み」の世界…

だから、みんな「思い込み」を持っていないといけない。


よりマシな「思い込み」を持つために、

より多くの「思い込み」を持つために、

人々は言葉を使って情報交換している。


「思い込み」とは、

分け隔てのないものを分け隔てること。

境い目のないものに境い目をつけること。

そして言葉とは、その境い目につけた名前。


だから言葉は、

「思い込み」をうまく伝えることができる。

「思い込み」をうまく言い表すことができる。


でも、どんなに言葉を費やしてみても、

「本当」を言い表すことはできない。


いや、言葉を積み上げれば積み上げるほど、

「本当」からはどんどん遠ざかってしまう。

《つづく》

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悟りへの道 に参加中!
思い浮かべてごらん…

ここは「思い込み」の世界…

だから、みんな「思い込み」を持っていないといけない。


強い「思い込み」を持たないと強くなれない。

大きい「思い込み」を持たないと大きくなれない。

賢い「思い込み」を持たないと賢くなれない。


「思い込み」さえ持てば、そうなれるとは限らないけれど、

少なくとも、何か「思い込み」を持たないとここには居られない。


それが「思い込み」の世界の掟…

《つづく》

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「意識の形而上学」
第三部「実存意識機能の内的メカニズム」の「13.「覚」と「不覚」」「14.「不覚」の構造」の前半を読みました。覚と不覚について書いてあります。

《以下引用》…「アラヤ識」のこの新しい局面を具体的に分析するために、ここで『起信論』は「覚」と「不覚」という一対のキータームを導入し、さらに「覚」を二分して「始覚」と「本覚」というキータームの一対を作り出す。…これら4つのキータームが、たがいに接近し、離反し、対立し、相剋し、ついに融和する力動的な意識の場、それが個的実存意識のメカニズムとして現象する「アラヤ識」の姿なのである。《引用終わり》

「覚」について。
《以下引用》…「覚」の実存的現成のためには、何よりも先ず個的実存意識が、MからAの方向に進んで、道の極限に達し、絶対無分節的「自性清浄心」そのものとの合一を体験すること(「離念」)が必要である。それが「覚」現成の第一段。だが、それだけでは「覚」はまだ完成しない。「自性清浄心」との合一を体験した実存意識は、そのままひるがえってBの方向に向かい、A・Bの両方を無差別的に、全一的に、綜観する境地に達さなければならない。と言うよりも、むしろ、Aの道の究極に達することが、同時にそのままBへの道を極め、Bの真相を覚知することになるのでなければならない。そのような意識状態が実存的に現成したとき、それを「覚」というのである。《引用終わり》

「不覚」について。
《以下引用》…このような「法界一相」的世界観は、我々平凡人の普通の現実観ではない。…普通の人は現に「不覚」の状態にあるはずだ…「不覚」とは文字どおり「覚」の否定、つまり、人がA←Mの道に行くかわりに、ひたすらM→Bの道に行き、ただ現象的現実の中に跼蹐(きょくせき:ひどく恐れかしこんで身のおきどころも無い状態)して生きることである。…理論的、いや、理念的に言えば、人は誰でも(=「一切衆生」)「自性清浄心」をもっている。それが、いわゆる現実界の紛々たる乱動のうちに見失われている。いかにすれば、本性の「清浄」性に復帰することができるか。これが『起信論』の宗教倫理思想の中心課題として提起される。《引用終わり》

さらに「不覚」を、「根本不覚」:根源的・第一次的「不覚」(無明)と、「枝末不覚」:派生的・第二次的「不覚」と、二段階に分けています。

「根本不覚」とは、真理(「真如」=「心」の真相)を、全一的意識野において覚照する能力がないこと。

「枝末不覚」とは、「真如」についての根本的無知ゆえに、「真如」の覚知の中に認識論的主・客(自・他)の区別・対立を混入し、現象的事象を心の外に実在する客観的世界と考え、それを心的主体が客観的対象として認識する、という形に構造化して把握する意識のあり方。

「根本不覚」の全体的支配の下で、人が「妄念」の所産である外的世界を、真実在の世界と誤認して、その結果、限りない迷い(=煩悩)の渦に巻き込まれていく実存のあり方が「枝末不覚」。

《つづく》

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