トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:如来

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「四 如来の身――如来出現の第二相」を読みました。

如来の眼に見える姿をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

第一の比喩
虚空界(空間)は全く果ての無い領域で、形あるものとないもの、物と非物のすべてにわたり、あらゆる方角とその中間に、虚空という要素が浸透しているように…

如来の身もすべてに浸透していて、どこに行くこともなく、どこに去ることもない。なぜなら、如来の身には身体がないからである。ただ、衆生が知覚することができるように、その身体なきものを身として説明するに過ぎない。

第二の比喩
虚空には判断は無く、さまざまに区別して考える戯論(無分別なるものを分別(主客に分けて認識し、判断する)し、それによって種々の誤った見解が生ずること)がないように…

如来の身もあれこれの判断はなく、戯論もない。なぜなら、如来の身はそもそものはじめから、あれこれの多様な戯論の一切を遮断しているからである。

第三の比喩
大地に日が昇るとき、闇を残りなく除いて万物を照らし出し、光の降り注ぐいろいろな土地の種々の場所において全ての衆生を利益するように…

如来も全ての衆生を利益し、善なるはたらきを育て、無知の闇を除去し、般若の知恵を輝かせることによって、一切の安楽を得させる。

第四の比喩
日輪が大地を照らすとき、どこを先に照らそうという判断があるわけではないが、まず高い所を照らし出し、その後に低い所を照らし出すように…

如来たちの知恵の日輪も、何の判断もなく、光線は平等に降り注ぐけれども、衆生たちの善根に差異があり、志に差異があるため、如来の光明も区別があるように表れてくる。

第五の比喩
眼を持たない者は太陽が普く照らすのを見ないけれども、太陽は一切衆生の飢えを無くし身を潔めて軽快にし、眼を持たない者をも利益するように…

信心の無い者は仏という太陽を見ない。しかし、仏は彼らをも利益し、菩提の座に至らしめることもある。

第六の比喩
月が昇るとき、(1)一切の星を凌駕し、(2)増減(満ち欠け?)をよく示し、(3)清澄な水の器にその影を現わし、(4)どんな衆生にも分け隔てがないように…

如来の身も、(1)仏弟子の道に属するあらゆる聖者たちのあらゆる種類の徳性を凌駕する。(2)どのような心の傾け方をする衆生にも、その種々の見解に応じて、さまざまな寿命の量を示しながら、如来の身の月輪自体には増減がない。(3)あらゆる世界において、深い宗教的志(増上意楽)を持つ心が清浄な衆生の前にその姿を現す。(4)教化されるべき衆生に応じて適宜の姿を見せるという方法で如来の身を現わすが、分け隔てはなく、多様な判断もない。

第七の比喩
あたかも梵天がその宮殿から動くことなく、三千大千世界の全てにその身を示現し、神々や人々を支配下に置くが、梵天自らの身を様々にすることはない(?)ように…

如来も身体を変化することなく、あらゆる世界の衆生たちに対して、その志と心の傾け具合に応じて身を現わすが、如来の身には分け隔てもなく多様な判断もない。

第八の比喩
すべての学に通じた医者があり、彼を見た者は病が鎮静するので、彼の寿命が尽きる時に薬を集め身体に塗り込めて、その身を保とうとするように…

無比の医王たる如来も、方便と般若の知恵の全てに通じ、前世の行の差異に応じてその身を現わす。それを見て、衆生の煩悩は鎮静する。

第九の比喩
海の底に宝珠があって、あらゆる種類の光を放ち、それに触れた衆生は宝珠と同じになり、それを見た衆生は眼がきれいになるように…

如来も般若の知恵の光を放ち、だれであれ、それに触れた衆生は仏の色になり、それを見たものは五眼を得、無知の闇を除去し安住に至る。

第十の比喩
その宝珠が全ての願いを支え、だれが何を望もうとその人に全てものを与え、何ら分け隔てがないように…

如来の身もあらゆる願いを満足させる。彼を見て誓願を立てるものはだれであれその願いを成就する。心悪く心劣ったものたちには見えないが、分け隔てて吝(おし)んでいるのではない。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「三 如来出現の原因」を読みました。

この章はまとめがありますので、そこをメモっておきたいと思います。

・行を完成することは無量である。(無料じゃなくて、無限ということですね)
・十方にある一切のものを広く満たし、広大である。
・生滅の基盤を離れていて、執着せず、欲望もない。
・(日常の)心、おもい、認識を離れていて、行くことがない。(不来不去のこと?)
・虚空と同様の本性で、身体がない。(実体がないということ?)
・一切衆生に我(アートマン)はなく、平等である。
・一切衆生のために無尽となる。
・未来のはてまで断絶せず、あともどりしない(不退転)。
・如来の知恵には障害がなく、奪うものもない。
・原因や諸条件によってつくられたもの(有為)と、そうでない絶対的存在(無為)との平等性を覚知し、無二である。
・以前に成熟させた衆生のすぐれた宗教的志(意楽:いぎょう)を満足させ、すべての輪廻の道にあるものたちを利益する。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「一 序章」「二 如来出現の法門―総序」を読みました。この経典は原名「如来の生起・出現の説示」という元来独立の一経です。

世尊と一緒に多くの菩薩たちがいる時、如来性起妙徳(如来の家系に生まれた幸ある人の意)菩薩の頭頂に不思議な光が入った。ついで別の光が普賢(あまねく知れわたった自在なる王の意)菩薩の口に入った。

そして、如来性起妙徳菩薩が、普賢菩薩に対して、如来に関して次のことを説明して下さるようにお願いします。
1.出現の説明
2.身による顕現
3.音声による表現
4.心の威力
5.対象の状態
6.活動領域の説明
7.正しいさとりのありさま
8.転法輪(つまり説法)の完成
9.偉大なる死(般涅槃)の示現
10.如来たちを見、(その教えを聞き、)如来と出会い(供養し)、(それによって)善根を生ずることについて

以下、普賢菩薩による説明が繰り広げられます。如来性起妙徳菩薩は文殊師利と考えられます。「ふげん」と「もんじゅ」が揃いました…

《つづく》
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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの著作」の「1中論」の「第21章」から「第27章」(最後)まで読みました。各章、好きな一文を抜き出します。

第21章.生成と壊滅との考察
9.空なるものには、生成も壊滅もありえない。空ならざるものには、生成も壊滅もありえない。

第22章.如来の考察
16.如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。(真実のブッダとは、われわれの経験している世界にほかならない)

第23章.転倒した見解の考察
2.浄と不浄と転倒とに縁って起こるそれらのものは、それ自体としては存在しない。それ故にもろもろの煩悩は、本体についていえば、存在しない。

第24章.四つのすぐれた真理の考察
40.この縁起を見るものは、すなわち苦、集、滅、および道を見る。

第25章.ニルヴァーナの考察
24.〔ニルヴァーナとは〕一切の認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい〔境地〕である。いかなる教えも、どこにおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。

第26章.〔縁起の〕十二支の考察
12.〔十二因縁のもろもろの項目のうちで〕、それぞれの前のものの滅することによって、それぞれの〔後の〕ものが生じない。このようにして、このたんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する。

第27章.誤った見解の考察
16.もしも人間が神と異なったものであるならば、しからば〔このような見解は〕無常〔を執するもの〕となるであろう。もしも人間が神と異なったものであるならば、個体としての連続はありえない。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「勝鬘経」の「一 序章」と「二 摂受正法章」を読みました。シュリーマンとかマーラーという名前があるのでヨーロッパみたいですが、シュリーマーラー夫人はインドの人です。

品行方正で有名なシュリーマーラー夫人のもとに世尊が現れました。そこで、夫人は世尊に対し10の誓いを立てます。

1.戒め(道徳的きまり)を逸脱するような心をけっして起こしません。
2.不敬の心をけっして起こしません。
3.衆生に対し怒ったり害したりする心をけっして起こしません。
4.他人の幸福や成功などに対し、羨望の念をけっして起こしません。
5.ほんの少しでも吝嗇の心を起こしません。
6.自分自身の享楽のためではなく、貧乏で苦しんだり身寄りのない衆生を成熟させるために、財産を蓄えます。
7.四摂事〔布施、愛語、利行、同時(自他平等の心がけ)〕によって衆生の役に立ちます。無雑念、無倦怠、不退転の心をもって、衆生を温かく包容します。(摂受:ひきつけること。すくい取ること。)
8.身寄りのないもの、牢につながれたもの、捕縛されたもの、病気で苦しむもの、思い悩むもの、貧しきもの、困窮者、大厄にあった衆生を見過ごしません。財産の蓄えをもって彼らを救助してはじめて、私は身を引くでしょう。
9.如来の説かれた教えや掟を蔑にするものたちを折伏(しゃくぶく:こらしめること。摂受の反対語。)します。
10.真実の教えを身につけること(摂受正法)を忘れません。

さらに、三つのお願い(三大願)をしました。

1.衆生たちに利益をもたらす福徳を積み重ね、いつも真実の教えを理解することができますように。
2.真実の教えを理解しえたのちも、怠けたり、おじけたりすることなく、衆生たちに教えを説くことができますように。
3.真実の教えを説くにあたっては、身命を顧みず、財産をなげうってでも、教えを護持し、教えを身につけることを望みます。

さらに、真実の教えを身につけることの意義について語ります。

摂受正法(真実の教えを身につけること)と言いますが、真実の教えそのもの(正法)とその真実の教えを身につけることとは、別々のことではありません。真実の教えをしっかりと身につけること自体が、真実の教えなのです。

そしてそれが六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の実践です。

真実の教えを身につけることと、この真実の教えを身につけたもの(摂受正法者)とは、別々ではありません…ということが再三繰り返されます。

自分が六波羅蜜と同化しているが如く実践に励みなさい、ということでしょうか。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「不増不減経」を読みました。「衆生の世界は「真理の領域」そのもので、満ちることもなく、減ることもない」ということを解説しています。

輪廻を続けることによって衆生界がいっぱいになるのではないか?逆に、さとりによって衆生界が減っていくのではないか?という人々の疑問を、シャーリプトラが代表して世尊に質問しています。世尊は、人々が陥りやすい大邪見(減見と増見)について解説を始めます。

減見涅槃を認めない諸見解・あるものをないという見方)
・断見:死によって完全に減尽し、あとかたもなくなる、という見方。
・滅見:涅槃はものの消滅である、という見方。
・無涅槃見:涅槃は非存在であり実体を離れている(畢竟空寂)、という見方。
・無欲見:涅槃を求めない、という見方。他の教えに従っていたり、不浄なものを浄と考えているからで、世俗主義と解せられる。
・畢竟無涅槃覚:涅槃という理想世界は無い、という見方。

増見(涅槃は求めずしてあるとする諸見解・ないものをあるという見方)
・涅槃は無からはじめて生ずるという見方。
・涅槃は因も縁もなくて突如として出現するという見方。
これらの見方は、価値あるもの(善法)に対して、それを望み願う心や得ようと努力する心を失わせてしまう。根元的無知(無明)や、それに基づく煩悩の根元である。

根元がただひとつであることを知らないから、このような大邪見に陥ってしまう。この、ただひとつの根元とは何か?

《以下引用》…
究極の真理というのは、…衆生の本質(衆生界)の同義語である。衆生の本質というのは、…如来蔵の同義語である。如来蔵というのは、…すなわち、(如来の)法身(すなわち、真理の世界そのものとしての如来の身)の同義語である。
…《引用終わり》


《以下引用》…
この法身は不生・不滅性のものである。それは過去の極限をもたず、未来の極限ももたない。なんとなれば、両極端を離れているからである。…過去の極限をもたないとは、出生の時を超越しているからである。未来の極限をもたないとは、死滅の時を超越しているからである。
…《引用終わり》


《以下引用》…
まさにこの同じ法身が、輪廻生存の苦悩を厭い、あらゆる欲望の対象から解放され、十種の究極・完全なる行(十波羅蜜)にまとめられる…徳目の集成(法蘊)を身につけるべく、修行を実践しつつあるとき、菩薩と呼ばれる。
さらにまた、…この同じ法身が、すべての煩悩の蔽いからすっかり解放され、すべての苦悩をのりこえ、すべての付随的煩悩の汚れを取り除き、…すべてのものに対する自在力を達成したとき、…如来(如来応正遍知)と呼ばれるのである。
それゆえ、…衆生界と法身とは別異のものではない。衆生界こそは法身にほかならず、法身こそは衆生界にほかならない。
…《引用終わり》


《以下引用》…
衆生界にも三つの特質があって、すべて真実にして、真如と異ならず、無差別である。
…《引用終わり》


その三つとは…
1.如来蔵は、清浄なる諸徳性といつはじまったとも知れず共存し、かつ、それと本質的に結合する性質のものである。
2.如来蔵は、煩悩の蔽いという清浄ならざる諸性質といつはじまったとも知れず共存しているが、それと本質的には結合していない性質のものである。
3.如来蔵は、未来永劫に堅固不変な本性はある。

般若心経にも「不増不減」という文言がありますが、かくも深い意味があったんですね…

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「如来蔵経」の後半を読みました。「九つの比喩」の6つ目以降です。

6.樹木の種子
果実や木の実は外皮の蔽いの中に芽となる種子があって、壊れることなく、それが地に落ちると、やがて大樹となる。

煩悩の外皮の中に胎児のような状態で如来の本性を持っているのが、われわれ衆生。煩悩の勢いが鎮静したものは、涅槃に入る。

7.ぼろきれにくるまれ、道に捨てられた仏像
ある貧しい男が、宝石でできた如来像を携えて旅をすることにした。旅先で盗まれないように、異臭のするぼろきれにくるんだ。男は旅先で死んでしまい、如来像はぼろきれにくるまれたまま道端に捨て置かれた。通行人は誰一人それが宝物であることに気づかずに踏みつけて行った。風にあおられると、ぼろきれの包みは異臭を放ち続けた。

8.貧女が転輪王子を懐胎する比喩
身寄りのない女が、顔色も悪く、嫌な臭いがすると人々に嫌われながら、今にも死にそうな状態で救貧院に住んでいた。彼女が懐妊し、転輪聖王となるような素晴らしい胎児を宿した。しかし彼女は「この子はどんな子だろう」などと考えることもなく、気は萎えて、下劣なもの弱小なものと決めつけ、相変わらず救貧院で日を送っていた。

9.鋳型のなかの真金像
馬とか、象とか、人物の像をロウで作り、鋳型の中に置いてから土をかぶせ、火にかけてロウを溶かし、その溶け出した後に金を溶かしこむ。溶かしこんだものが中にいっぱいになってから、次第に冷却すると、外の鋳型は黒くて汚いのに、中のものは金である。工匠が鋳型を槌で壊す瞬間、内なる金でできた像は清浄となる。

***

子を持つ親としては8番の例えが特に気になりました。ある意味、現代的です。子どもには無限(に近い)の可能性があります。それが、親の都合で閉ざされている例が見受けられる昨今…いたたまれない気持ちになります。

如来蔵は、大人にも無限(に近い)の可能性がある!ということです。

《つづく》
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大乗起信論(岩波文庫版)
第三段「解釈分」の第二章「誤った見解の克服(対治邪執)」まで読みました。以下、自分なりにまとめてみます。

誤った見解(邪執)はすべて、ものの実体視(我見)にもとづいている。我見には、人我見(個人存在の実体視)と法我見(客観存在の実体視)がある。人我見は五種類に分類できる。

1.「如来の法身は究極において寂漠としている。それはちょうど、虚空の如くである」という経典中の説明を読んで、おおぞら(虚空)こそが如来の本性だと誤解する人がいる。


これは、実体はないが遍くゆきわたっていることを、大空に例えたものである。

2.「世間の諸存在は畢竟じて実体はない(体空)。ないしは、涅槃とか真如とよばれるものもまた畢竟じて実体はない。それらは、そのはじめからそれ自身実体なく(自空)、あらゆる特質づけ(相)を超越している」という経典中の説明を読んで、涅槃とか真如というのは本来何もないのだと誤解する人がいる。

前項同様、実体視する恐れがあるので、それを避けるためにこのような説明をしている。真如とか法身は無量の徳性を備えており、決して無内容なものではない(自体不空)。

3.「如来蔵は生滅を離れているので本質的に不増不減であるが、しかも、それ自身に如来のもつ一切の徳を具備している」という経典中の説明を読んで、如来蔵には物質と精神の両面にわたって種々の異なった特質が具わっていると誤解する人がいる。

如来蔵とはただ衆生の心の真実のあり方(真如)をさして説いている。そこに物質的・精神的な種々相が現象しているのは、無明にもとづく心の生滅において染汚しているからである。

4.「世間のすべての生死輪廻に伴う汚れの現象は、すべて心の真実のあり方たる如来蔵において有る。それ故、一切の諸現象は真実のあり方(真如)と別に独立して(離)存在するわけではない」という経典中の説明を読んで、如来蔵自体に本来、すべての世間的な生死輪廻にかかわる諸現象が具わっていると誤解する人がいる。

如来蔵は本来、無量の清浄な徳性のみが、真如と離れず断絶せず別異ならざるものとして具わっている(不離不断不異真如)。無量の煩悩の汚れた諸現象は、ただ根元的無知によって仮構された存在で(妄有)、本来あるものではなく、決して如来蔵と本質的に結びついたものではない。

5.「如来蔵にもとづいて生死輪廻もあり、如来蔵にもとづいて涅槃もある」という経典中の説明を読んで、輪廻する衆生は如来蔵の上にあるとき突然現れるという形で始まり、始めがあるから涅槃にも終りがあるだろうと誤解する人がいる。

如来蔵の始めは知られないし、その上にそれを隠すように現れている根元的無知の始めも知られない。

虚妄な執着をどうやって最終的に離れるか…

汚れているとか、清浄であるとか言っても、そういう現象はすべて相対的なもので、その固有の特質と言えるものがあるわけではない。一切の現象は本来、物質でもなく、精神でもなく、直観的な知恵でもなく、分析的な認識でもなく、存在でも非存在でもない。いかなる言葉によっても表現できない様相のものである。

それにもかかわらず言葉で説明するのは、これこそ如来の巧みな方便であり、便宜的に言葉を用いて衆生を導くためである。衆生が虚妄な心のはたらき(念)を離れ、心の真実のあり方に帰一するようにしたいと願うからである。

人がひとたび一切の現象を心に思い浮かべるならば、その時はいつでも心が動き、真実の認識(実智)に入るのを妨げる。

《つづく》
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