トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

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「釈尊の生涯」(春秋社)
「21.デーヴァダッタの反逆など」を読みました。

デーヴァダッタ(提婆達多)と聞くと、レインボーマンのダイバ・ダッタを思い出します。Wikiで調べてみますと、主人公ヤマトタケシに不思議な力を与えた聖人ということで、悪役ではないみたいです。

でも、釈尊の従弟のデーヴァダッタは本当にひどい人だったようです。釈尊を妬み、暗殺や教団乗っ取りを何度も画策しています。

教団の破壊を目的に、デーヴァダッタが釈尊に突き付けた五カ条の要求というのがあります。
《以下引用》
1.比丘は人里離れた所に住すること。
2.托鉢のみで生活し、供養招待を受けてはならないこと。
3.糞掃衣(芥溜や墓場などから拾い集めた布片で作った衣)のみ着け、信者からの施衣を用いてはならないこと。
4.樹下のみにすわり住し、屋内に入らないこと。
5.魚や鳥獣の肉を食べないこと。
《引用終わり》

これは、外教の人たちは上記のことをきちんと守って修行しているのに仏教はやってないじゃないか!という批判です。

が、今日的な観点で見てみますと、外教では不必要に粗末な暮らしをしていたということが分かります。逆に言うと、釈尊は修行に不必要と思われる慣習は廃していたということです。身心を害するような過剰な苦行は百害あって一利ないとする、合理的な人でした。

デーヴァダッタはマガダ国の王子アジャセをそそのかし、父である国王ビンビサーラから王位を奪わせました。後にアジャセは改心し、熱心な仏教信者となりました。アジャセの弟アバヤも、釈尊を貶めようと議論をふっかけて、逆に仏教信者になりました。

「如来も他人に好ましくない粗暴な言を吐くことがあるのなら、凡夫と区別がないではないか」というアバヤの問いに対する釈尊の回答が示唆に富んでいるので、ノートしておきます。
《以下引用》
1.その語が真実でもなく、利益にもならないものであり、しかも他人に好ましくないものならば、如来は決してこれを語らない。
2.その語が真実ではあるが、利益にならず、しかも他人に好ましくないものならば、これも如来は語らない。しかし
3.その語が真実でもあり、利益にもなり、しかも他人に好ましくないものならば、如来はこれを語るべき時と語るべからざる時とを知るのである。さらにもし
4.その語が真実でもなく、利益にもならないものであれば、他人には好ましいものであっても、如来は決してこれを語らない。
5.その語が真実ではあるが、利益にならないならば、他人に好ましいものであっても、如来はこれも語らない。
6.その語が真実であり、利益にもなり、また他人にも好ましいものであれば、如来はこれを説くに時をもってするのである。
《引用終わり》

要するに、黙っていた方が無難なようですが…。

《つづく》


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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「智光明荘厳経」の「三 如来の本質――みずからさとり、他をしてさとらせる」の後半と「四 如来の讃嘆」を読みました。

菩薩行(さとりへの道)

どうすれば菩薩としての実践(菩薩行)を行じることになるか?以下のようにすればよい。

もろもろの現象を滅尽するために慢心を起こさないのでもなく、滅尽しないためにでもなく、生ずるためにでもなく、究極的に滅尽しているものを滅尽するためにでもなく、また、究極的に生じないものを壊すために、慢心を起こさないのでもない。

過去心をすでに滅尽したものとして修習せず、未来心をまだ得ないものとして修習せず、現在心を現にあるものとして修習しないで、過去・未来・現在の心に執着しない。

六波羅蜜(布施・戒・忍耐・精進努力・禅定・般若の知恵)・菩提・衆生・如来を、無二で、二分できないと見る。

形あるもの・感受作用・表象作用・その他の心作用・主体的認識作用は、空とも修習せず、空ではないとも修習しない。

滅尽とは究極的に尽きているもの(畢竟尽)、それは尽くさるべきものではないから無尽である。この如実に尽きているものには、ほんの少しも尽きるものがない。それは無為、即ち生・住・滅という諸条件によってできた現象の特質を離れた絶対そのものである。それは不生・不滅だからである。ゆえに「如来がこの世に出現しても、あるいは出現しなくても、この、ものの本質(法性)、真理の確立性(法住)、ものの根元(法界)はまったく確立している」と言われる。ものの根元に安住すれば、その知は進みはたらくこともなく、あともどりすることもない。漏れ出る汚れは生ずることもなく、滅することもない。

さとりは滅尽(心の汚れを滅尽すること)と言われるけれども、それは言語表現、音声、文字、ことばの上のとりきめにすぎず、そこにはなんら生滅するものはない。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「智光明荘厳経」の「三 如来の本質――みずからさとり、他をしてさとらせる」の後半を読みました。

さとりの特質――十六種

文殊師利:如来はどのようにして菩提を得られたのですか?
世尊:如来は根もなく(無根)、よりどころもなくて(無住)、菩提を得たのです。

文殊師利:根とは何ですか?
世尊:身体が実在するという見方(有身見)が根である。誤った判断(虚妄分別)が拠り所である。如来は、菩提の平等性によって全ての現象の平等性を知る。それゆえ、如来は根もなく、拠り所もなくして、菩提を正しく完全にさとられた…

1.
菩提は寂静(内的感官)であり、外的感官は付随的寂静である。
眼は、我・わがもののいずれとしても空(無実体)であり、それが本性であるから寂静と言われる。人は空であることを知り、眼の対象たる諸々の物を追いかけない。以下、耳・鼻・舌・身・意について同様の記述。

2.
菩提は本性なるもので、汚れがなく、虚空と等しい。ゆえに、本性として光り輝いている(自性明浄)。

3.
菩提は何ものも取らず(不取)、何ものも捨てない(不捨)。不取性とは、すべての現象に対し執着しないこと。不捨性とは、すべての現象をひとつも捨棄しないこと。

4.
菩提には認識の根拠もなく(無因相)、対象もない(無所縁)。根拠なしとは、眼識(眼という感官によって知るはたらき)・耳識・鼻識・舌識・身識・意識が知覚されないこと。対象なしとは、対象の形を見ないこと、音声を聞かないこと、香りを嗅がないこと、味わわないこと、触れないこと、現象一般(法)を認識しないこと。

5.
菩提は過去を思惟せず、未来に対して慢心を起こさず、現在に対して多様で個別的な誤った考え方をしない。

6.
菩提は無身(眼・耳・鼻・舌・身・意の感官によって認識されない)であり、無為(諸条件によって条件づけられたのでない絶対:心・意・認識によって認識不可能なもの:生起も存続も消滅もない)である。

7.
菩提は無差別なよりどころである。以下、無差別とよりどころの組み合わせを列挙。
・名もないこと、真如
・一箇所にとどまらないこと、法界(すべての現象の根元あるいは本質)
・差異がないこと、真実なるものの極限
・無知覚(不可得)、不動
・空性(実体のないこと)、無相(根拠となる特質をもたないこと)
・無分別、無願(願い求むべきもののないこと)
・完成するもののないこと、衆生のないこと
・衆生の固有の性質のないこと、虚空
・無知覚、衆生
・無滅、無為
・所行のないこと、さとり
・寂静、涅槃
・形成のないこと、生起のないこと

8.
菩提は身体によっても心によっても明らかにさとれるものではない。身体は無情の物質で、不動で、精神がないからである。心は幻のごとくであって、無核、無実(空っぽ)で、実在せず、作られないからである。

9.
菩提はどんなものによっても表現することはできない。菩提には、それによって語句や会話が成立するようなよりどころが一つも存在しないからである。

10.
菩提は無取性(感覚的に把握するものがないこと)のもの、無所依性(感覚のはたらく場所・対象がないこと)のものである。(眼・耳・鼻・舌・身・意それぞれについて繰り返してあります。)

11.
菩提は空性の同義語である。菩提は空性はない(空性に関して空である)が、その同じ空性はすべての現象にもまたない。

12.
菩提は虚空と等しい。いづれも、平等でもなく不平等でもない。

13.
菩提とは如実の根拠である。菩提がそうであるように、すべては真如の外に超え出ない。

14.
菩提は形相(行相)にはいることによって、無形相としてとどまる。
・形相とはいっさいの善法を作り出すこと。一箇所に固定しない心の状態。すべての現象について、考え、量り、数え、分けること。もろもろの有為の現象に対する個別的認識。
・無形相とはいっさいのものが知覚されないということ。「すべての存在は根拠となる特質をもたない」と観ずる三昧(無相三昧)。なんらの認識作用もなく「量ることを完全に超越する」。諸条件によってつくられたのでない絶対の法。

15.
菩提は無漏(煩悩がこぼれることなく)、無取(執着をもっていない)。
・無漏とは、欲漏(欲望を伴う生存にかかわる汚れ)、有漏(輪廻生存一般にかかわる汚れ)、無明漏(真理に対する無知という汚れ)、見漏(ものの見方にかかわる汚れ)の四漏を離れること。
・無取とは、欲取(欲望に対する執着)、見取(仏教以外のまちがったものの見方に対する執着)、戒禁取(異教徒の戒律や禁制に対する執着)、我語取(我ありという執着)の四取を離れること。

16.
菩提は清浄、無垢、無汚点である。
・清浄とは、実体のないこと(空性)。本性。無戯論。真如。天空。内をよく知ること。など。
・無垢とは、根拠となる特質のないこと(無相)。完全清浄。離戯論。法界(ものの根元)。中空。外に活動しないこと。など。
・無汚点とは、願い求めるもののないこと(無願)。明浄(光り輝くこと)。戯論寂滅。実際(真実の極限)。低空。内外を知覚しないこと。など。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「智光明荘厳経」の「三 如来の本質――みずからさとり、他をしてさとらせる」の前半を読みました。

一切の現象をあらしめる本質――さとりの意義

如来は全ての現象の平等性の極限、無二性の極限、出生することのないものの極限であって、常にいたるところで平等であり、分け隔てせず、差別しない。すべての現象もまた同様である。なぜなら、すべての現象は知覚されない(不可得)からである。それは平等性であり、安定性であり、不動性であり、何ものにも依存しないということである。

すべての現象に依存しない心には固定した住処はなく、不生となる。そのような心は転倒せず、ものごとをありのままに理解し、誤って行動することもない。ものの本質(法性)と矛盾せず、すべてのものに随順し、ものの本性(自性)から乖離しない。ものの本性を得たものは少しも拡散しない。なぜなら、すべてのものは原因(因)と諸条件(縁)とによって生ずるからである。

原因や諸条件によって生ずるものは究極的に不生である。そのような人はさとりへの決定を得、すべての現象を思惟することと同一の基盤には立たない。そのときには、依存すべき何ものもなく、何も出現せず、消滅することもない。そのとき、人はものの本性に基づきつつ真理を体得する。はじめて道理に従って(如理)、真理に安住する。この人にとっては、どんな現象といえども仏の徳性ならざるものは何一つとしてない。すべてのものが実体をもたないこと(空性)をさとること、それが菩提にほかならない。

その人が、すべてのものが実体をもたないこと、根拠となる特質をもたないこと(無相)、願い求むべきものをもたないこと(無願)、形成さるべきものをもたないこと(無行)、依拠すべきところのないこと、出現のないこと、取りつくもののないこと、よりどころをもたないこと、をさとるゆえに菩提であって、菩提とは道理に従って修行することである。

それは、すべての現象が上昇することもなく、安定することもなく、所作もなく浄化もないと見て修行すること。束縛もなく、解放もないと見て修行すること。一でもなく、多でもないと見て修行すること。くることがないと見て修行すること。

如実に修行するものには、修行すべきこともなく、断ずべきものもなく、修行の果の達成もない。なぜなら、心は本来、光り輝いているからである。一時的に付着した煩悩(客塵)によって汚染されているけれども、本性としては汚染されたものではない。したがって煩悩を断つべき対治者も必要ではない。本性として清浄であり、浄化する必要もなく、無生であり、非難されないものであり、欲望を断じたものである。そこではすべての根元的執着(渇愛)が消滅し、それが煩悩の不生であり、不生なるものが菩提である。

菩提なるものは平等性であり、ありのままなること(真如)である。このことにおいて、もろもろの縁によって生じた生・住・滅を特質とする有為の諸現象のすべてと、生・住・滅を超越した無為の諸存在のすべてとが、ともに成り立つ。有為と無為はありのままなることにおいて成り立つから、ありのままなること(自体)には有為も無為もなく、両者を仮設することもない。それが、ありのままなることである。

ありのままなることは、それ以外のあり方ではないという意味で真如である。変化しない、くることがない、去ることがない、あるがままなる真如である。それは一つとして真如ならざるものはないということであり、汚れもせず、浄められもしない。生ずることも滅することもなく、涅槃と平等である。生死輪廻もせず、完全な涅槃に入らないもの、それは過去のものでもなく、未来のものでもなく、現在のものでもない。下でも中でも上でもないもの、それがありのままなること、即ち真如であり、真実の意義の同義語である。

ありのままの真実(真如真実)こそが真如であり、如来たるわれと無二である。われと真如を分ちえないこと、それが菩提であり、真実の意義をさとることである。真実の意義とは、すべての如来の所説の教えにおいて、すべての存在には実体のないこと、根拠となる特質のないこと、願い求むべきもののないこと、の三つの解脱に至る門に入ることを知ることである。すべての現象が三世にわたって平等であること、無差別であることを悟入することである。音声なく、言語表現なく、ことばなく、ことばを断じたものである。

知るとは、以上のように意義をさとる知と、意義内容という対象を知る知り手としての認識主体をさとる知とである。それこそがもの(法)の本質を知ることにほかならない。意義をさとる知と、認識主体をさとる知と、究極完全なる意義(了義)を覚知する知、この3つによってさとるものがものの本質である。これが真理の確立性(法住)であり、真理の決定性(法位)であり、ものにおいてはたらかない。ものにおいてはたらかないことと、意義とそれを表現する語句の平等性ということとは、無二という意義によって平等である。
それが無二の門にはいることによる平等性の知である。

教えの究極・完全なる意義と不完全なる意義(未了義)とは、平等なることにおいて意義が等しいこと、それが空性(即ち現象の無実体性)である。空性においては、意義の平等性、人の平等性、法の平等性、解脱の平等性が平等である。解脱の平等性をさとることこそが菩提にほかならない。

さとりの因――汚れと浄め

×対象の色かたち(色)への執着。
○色かたちと、それを見る眼との固有の性質(自性)を知る。

×固定した見方に執着。
○すべての見方はそれ自体が本来無実体であることを知る。

×道理にかなわない心のはたらかせ方(非如理作意)に執着する。
○道理にかなった心のはたらかせ方(如理作意)にもとづいて観察し、その固有の性質は本来存在しない(自性空)と知る。

×疑惑の垢に対する執着。
○疑惑をもたずに素直に心を傾け、信頼する。

×懈怠の垢に執着。
○法をありのままに証得する。

本来は清浄であるすべての現象は、因と縁との集積から生起する。菩薩は、心を汚す現象(迷いの世界)の原因たるものと、心を浄める現象(さとりの世界)の原因たるものとを見分けるべきである。しかも、汚れの因も浄めの因も本来は清浄なのだから、どちらにもとどこおるべきではない。

×我(アートマン)の観念を生起せしめ、固定した見方をする。
○すべての現象は、それを個物たらしめる固定的な実体をもたない(無我)とさとる。

×自分には固定的な実体があると固執すること(我慢)。自己の本体はかくありと固定的に見ること(我見)。
○内に向かっては心を鎮め(内寂静)。外に向かっては心をはたらかせない(外不行)。

×愛欲や怒りの心や害心や理論的考察(覚)。
○人が通常愛着を抱くすべての現象は不浄で嫌悪すべきものと観ずること(不浄観)。すべてのものに対し量り知れないほどの慈しみ、共感、喜びを抱き、特定のものに対する関心を捨てること。縁の法に悟入すること。

×無常を常と思い、苦を楽と思い、無我を我(アートマン)と思い、不浄なのに好ましいと思う四転倒(転は常用外の字を使うのが本当)。
○この身体は不浄、感覚は苦、心は無常、すべての現象には固定した実体がないと考える4種の憶念すべき基盤(四念処)。

×愛欲、怒り、睡眠、心のたかぶりや後悔、疑惑という5種の心を蔽う妨げ(五蓋)。
○信ずること、努力精進すること、教えを憶念すること、心を安定集中させること、正しき知恵という5種の能力(五根)。

×眼・耳・鼻・舌・身・意という6つの認識の入口(六入)。
○仏・その法・その法を実践する教団・おきて・世間的欲望の放棄・神格についての憶念という六随念。

×七種の正しからざる法
○教えを憶念すること、正しい法を選ぶこと、努力精進、歓喜、心の平安、心の安定集中、特定のものへの関心を捨てることという7種の覚りの条件(七覚支)

×八不正事(邪見・邪思・邪語などの八法?)
○八正法(おそらく八正道:八見・八思惟・八語・八業・八命・八精進・八念・八定)

×九悩事:私に不利益なことを行った、行うであろう、現に行っている。私の愛するもの好むものに対して不利益なことを行った、行うであろう、現に行っている。私の愛さざるもの好ましからざるものに対して利益を行った、行うであろう、現に行っている。
○九種の禅定の段階

×十種の不善の行為(殺生、盗み、など)
○十種の善行(不殺生など)

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「十二 如来の見聞供養によって善根を生むこと――如来出現の第十相」「十三 結び」を読みました。

・如来たちを見聞し善根を生むことをどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

ひとりの人が金剛石を食べたとしても、それは消化されずにそのまま現われてくる。それと同様に如来を見聞供養する金剛のごとき知恵は、煩悩を残らず絶滅させる。

草や枯れ葉を山のように積んでも、芥子粒ほどの火によって燃えてしまう。それと同様に如来の供養を少しでも果たせば、一切の煩悩を燃やし尽くして涅槃に入る原因となる。

雪山に「善現」なる薬樹があって、見聞すればどんな病でも治癒する。それと同様に如来を見聞すれば、一切の徳性を身につけて仏の知恵を得るに至る。

・結び
世間にある全ての比喩は何であれ、皆この仏の事跡から離れている。しかも世間を利益するために衆生に教示しようとして、如来は比喩を絶したものに道理を尽くして比喩を与える。これらの如来の秘密は凡夫には知覚できない。努力精進して知恵を備えてよく教化された者たちのみ、このような如来の秘密を聞くことができる。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「十 如来の転法輪――如来出現の第八相」「十一 如来の偉大なる死――如来出現の第九相」を読みました。

・如来たちの転法輪(法の車輪を前進させること)をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

無比なる転法輪は知覚されない。退転することもなく、一切の時間を超越している。すべての文字を語ってもそのために文字が尽きることがないように、転法輪も辺際がない。

すべての文字は言及されたものに普くゆきわたるがどこにも定着しないように、転法輪も諸音声に普く存するがどこにも定着しない。

諸文字は内にあるのでもなく、外から生ずるのでもない。それらは尽きることなく、なんらの集積もない。

・如来たちの偉大なる死(大般涅槃)をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

「如来がこの世に出現する」ということは、衆生たちが喜ぶことばである。「如来が涅槃にはいる、即ち死ぬ」ということは、衆生たちの愁いを生むことばである。しかし真実には、如来たちは真理の領域に住んでいるから、この世に出現することもなく、涅槃にはいることもない。衆生の願いをかなえてやるために、この世に出現しもするし、涅槃にはいることを示しもする。

如来の日輪は一切の限りない世界の真理の領域を普く照らす。一切の濁りなき世界の濁りなき心をもつ衆生という水の器すべてに、その影をあらわす。しかし、濁った心をもつ衆生の壊れた器には、如来の日輪は見られない。心が濁り、業と煩悩に蔽われた衆生の前で、如来たちが涅槃にはいることを示現したとしても、それを如来たちの欠陥と捉えるのは間違いである。

偉大なる死によって教化すべき衆生に対しては、如来たちは偉大なる死を示現する。しかし、如来たちはこの世に出現することもなく、この世から消えさること(即ち涅槃にはいること)もない。たとえば、火がこの世の全ての物を焼き尽くして鎮火したとしても、この世から火が無くなったわけではない。如来たちの偉大なる死とは、そのようなものである。

技術の習練を完了した幻術つかいがいて、まじないの力によって、世界じゅうのいたるところに長期にわたって幻術を示現したとする。やがて、その中のひとつの国では目的を達成したので、幻術つかいは姿を現さなくなった。しかし、一切の世界から、すべての幻術が失われてしまうわけではない。

如来たちは、偉大なる死を示現するときに、『不動』という三昧に入る。無数の如来たちの身のひとつひとつから無量・無辺の光明が現われ…そこには一切衆生と同じ数だけの如来の身が、仏の徳性のあらゆる飾り飾られて鎮座している。それらの如来の身は、どこかの場所にあるのでもなく、特定の方位にあるのでもなく、有でもなく、無でもない。如来の教えの偉大なる本願によって、衆生たちの能力が成熟した暁には、それらの如来の身もまた、完全な涅槃に入る。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「八 如来の活動領域――如来出現の第六相」「九 如来の明らかなさとり――如来出現の第七相」を読みました。

・如来たちの活動領域をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

真実ありのままなる絶対はまったく不生・不滅である。それはなんら限定された領域にとどまらず、あらわれない。世間のために利益をなす如来たちの活動領域も同じく無量で、その本性は真実ありのままなる絶対に等しく時間を超越している。

・如来たちの明らかなさとり(現等覚)をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

一切の現象の証悟(さとり)は二とか無二とかの分別を離れ、正しく無対象である。それは虚空に等しく、我(アートマン)のあるなしにかかわりがない。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「七 仏の知恵の対象――如来出現の第五相」を読みました。

仏の対象領域をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

比喩
大海は水と宝の集積をもって無量であり、衆生たちと餓鬼たちの住処に関しても無量であり、一味にして無雑である。そこに生まれた衆生たちは他の水のなかでは活動しないように…

仏の対象領域も知恵をもって無量であり、三宝(仏法僧)の依拠するところとして、宝の集積という点でも無量である。衆生たちや餓鬼たちをもっても無量である。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「六 如来の心の生起――如来出現の第四相」を読みました。

如来の心の生起をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

第一の比喩
すべての所作は虚空に依存して配置されるが、虚空にはよりどころがないように…

如来の知恵に依存して、世間的・超世間的のすべての知識が配置されるが、如来の知恵にはよりどころがない。

第二の比喩
真理の領域において、一切の仏弟子の道を行ずるものたちでさえ解脱し、一切の独力で覚る道を行ずるものたちでさえ解脱し、一切の菩薩もまた出現するが、真理の領域には増減がないように…

如来の知恵に依存して、世間的・超世間的なすべての知識が確立し、一切の業と修行もまた確立するが、如来の知恵には増減がない。

第三の比喩
四大州と付属する小島は、大海と相接しているので、どこであれ水が湧き出ているが、大海にはどこに水を出そうなどという分別はないように…

如来の知恵の大海は、考えたり、構想したりせず、順序を決めて働くわけではないのに、衆生たちの心や行為の差異によって、如来の知恵の光明の差異が出現するのである。

第四の比喩
大海中の四種の宝珠の威力で大海に宝が出現するが、この宝珠は龍王の庫蔵に収まっているため大衆には見えないように…

如来の知恵も、如来の法の庫蔵(如来蔵)に安置されているから、薄幸の衆生たちには見えない。菩薩のような生活と、菩薩の知恵の光明によってのみ手に入れることができる。

第五の比喩
大海中の四種の宝珠の大力と大威光が大海の増減を防いでいるように…

如来の知恵も、菩薩たちが目的を追求すれば、法の力を断つ大波を完全に除滅し、広大な般若の知恵は普く照らし出し、如来との平等性を獲得する。もしそれがないと言うなら、誰も覚るものはいなくなり、理に合わないことである。

第六の比喩
底なる基盤からはじめて輪廻生存の最高の位置にいたるまでの欲・色・無色の三界のすべては、無我なる虚空の世界に完全に依存して存在する。しかし虚空にはなんら高低はないように…

声聞の知恵も、独覚の知恵も、菩薩の知恵も、有為において働く知恵も、無為において働く知恵も、あるかぎりのすべてはこれ、如来の知恵という虚空に依存し、そこから生ずる。如来の知恵の虚空によって全ては浸透されており、如来の知恵には禍も楽ならざるものもないが、種々さまざまの知恵が成就している。

第七の比喩
雪山の頂には大威光をもつ最勝の薬樹「根がまだ完成していない」があって、その威光と力によりジャンブ大陸の全ての優れた樹が生ずるように…

如来の知恵の大薬王「根がまだ完成していない」も、前世における深い宗教心と大悲心によって、堅固な根をもって生まれる。行によって菩提が生じ、菩提が行を生む。心や意(おもい)の平等をそなえるものには仏の知恵が生ずる。

第八の比喩
火によって世界が破壊される劫が到来したとき、激しい劫火が生じて燃える。ある人が草の束を積んだとしても燃えないはずがないように…

その火の塊の中で、草の残滓は少しは燃えないで残ることも有り得る。如来の知恵によれば、三世の衆生たちは、心冷たきもの、きわめて冷たきもの、法がすっかり凍りついてしまったものですら、だれでも如来の心に入れられないものはない。如来たちは差別なき知恵を心に抱いている。

第九の比喩
世界の壊れる劫のとき「解放」の風が起こり、それは鉄囲山もスメール山も吹き散らす。吹き散らしたものを戻す他の大風がなければ、無量の諸国土は全て壊滅するように…

如来たちの大風は、菩薩の煩悩を吹き払う。さらに「巧みな方便によって正しく保持する」という如来たちの知恵の大風の力によって、その位から超え出て、如来の位に上がる。

第十の比喩
たとえば、三千大千世界と同じ大きさの大画布(経巻)があって、三千大千世界が順序どおり完全に描かれているとしよう。この大画布が極小なる一原子の粒子の中に収められる。同様に、全ての極小なる原子の粒子の中に、残りなく、一つ一つ、同様の大画布が一枚ずつ入っている。そのとき、ひとりの知恵優れた男が、大画布が原子の中に収まっていても、衆生の誰の役にも立たないことに気づく。そして、微細な金剛杵をもって原子の粒子を打ち砕き、大画布を取り出すように…

如来の知恵も、全ての衆生の意識の流れの中に普く浸透している。しかし価値観の転倒した愚者たちはそれに気づかない。如来は聖道を説いて、彼らの想念の作り出した一切の束縛を除去し、利益する。

密教教理の基本が華厳と近いと言われる理由が、少し分かってきたような気がします。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「五 如来の音声――如来出現の第三相」を読みました。

如来の音声をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

第一の比喩
四禅(原始仏教以来説かれる基本的な禅定。色界(欲望のない、肉体を存する領域)に対応)について説明しています。
・初禅では、尋・伺・喜・楽・定の5つの心作用が働く。欲と怒りがないから、極めて安楽で、欲界(欲に満ちた領域)から完全に超え出る原因となる。
・第二禅は、無想無行・無覚無観・無尋無伺(心を対象にひきとめることなく、対象を探求することもない)。
・第三禅は、歓喜から離れる。
・第四禅は、寂静。楽の感覚が無くなる。

以上が、世界が壊れるとき(?)に聞こえる四種の大音声で、これと同じように如来の四種の大音声は…

・第一の大音声は、「八種の難点(八難処)を捨てよ!」と説く。八難処とは、八種の不運な生まれ(1)地獄(2)畜生(3)餓鬼の世界に生まれること(4)長寿天と(5)辺地に生まれること(楽にふけって仏法を求めないから)(6)感官に欠陥があるもの(仏の教えを聞いてもわからないから)(7)邪見をもつもの(8)如来の出世しない時代に生まれること。
・第二の大音声は、「有為(諸条件によって作られたもの)は甚だ苦であり無常であるが、無為(絶対・究極の価値)は寂静で苦痛なく、もろもろの捨てるべきものを離れている」と説く。衆生は音声認(音声によって真理を受け入れること)を得る。声聞のこと?
・第三の大音声は、「この他者の音声に従う道(仏弟子の道)はきわめて小さい。これよりも大きな道、師を入用としない自ら真理を覚る道がある」と説く。大信ある衆生は独力で覚る者の菩提に入る。独覚のこと?
・第四の大音声は、「仏弟子の道や独力で覚る者の道を超えた大乗がある。これは菩薩行に結びつき、六波羅蜜と菩提行の流れを断たず、菩提心を捨てず、福徳と知恵の無量の集積にまとめられる。菩提への乗のうち、最勝・最上にして、すべての衆生を利益する乗である」と説く。善根を生じた衆生たちは、この如来の言葉が自分たちの善業の集積からあらわれたのだと理解する。

第二の比喩
山・岩・岩山にある音声は、人のこだまを受けて全ての岩が語るものである。種々のよりどころにもとづいているかに音声は起こり、あれこれの判断がないように…

如来の音声も分け隔てはなく、他者の修行と感官の成熟に応じて生ずる。多くの衆生を教化し喜ばせても、高慢心も救護心もない。

第三の比喩
太鼓が正義を伝える音声を持ち、神々が欲にとらわれ放逸であるとき、虚空から正義の音声を示現するように…

如来の音声を出す太鼓は、十方に普き衆生に正しく伝わる。感官の壊れた者にはとらえられない。その音声を聞いて衆生は菩提を得る。

第四の比喩
神々の王ヴァシャヴァルティンが天の宝を楽しむとき、天女の口から出る一息ごとに多くの性質があり、一息の一音から種々の音声が生ずるが、そこには分け隔てがないように…

如来の一語が響き渡ると、衆生の得られる限りの音声の諸性質が一時に生ずる。衆生はその願いに応じて如来の音声を聞き、聞き終わって煩悩を断ずるが、音声には分け隔てはない。

第五の比喩
梵天はその座から動かずに、一音声を発すれば梵天の大衆を喜ばす。しかも会衆の外には出ないで、会衆をして理解せしむるように…

如来は仏の座に坐して、一音で真理の領域を残りなく満たして鳴り響く。しかし会衆の円輪を超え出ることはなく、さりとて物惜しみの心もない。ただ信心のない衆生にはその音声は聞こえない。

第六の比喩
水の流れはすべて本性同一で、味も一様で分け隔てなく清浄で八つの徳性をもつ。地表の器が異なるに応じて、水の種類もさまざまであるように…

如来の音声も、味は一味で分け隔てなく仏の菩提を本性とするが、衆生の行為の種別によって種々となる。

第七の比喩
アナヴァタプタ龍王(四大河の源となる池の主)は大ジャンブ大陸を普く満たし、四大州を満たすように雨の流れを放ち出す。秋の収穫や森・林・水流などを次第に生み出すが、水の流れは龍王の身からも心からも生じないように…

如来も真理の領域を満たし、衆生の心を満足させるように法の大雨をふらす。百の善につとめて衆生の煩悩を鎮める。しかし、その音声は外にも内にもなんらあることはない。

第八の比喩
龍王マナスヴィンは、7日間この虚空界に雲を集めながらも、目的を果たすまでは雨を放たないように…

如来も、大悲心の雲を集めて、法の大雨を降り注ごうと決意したとき、般若の知恵と巧みな方便をもって、衆生たちを成熟させる。しかし衆生たちの機根がまだ成熟しない間は、甘露の雨を前もって降り注ごうとはしない。粗細すべてに通暁して、知らねばならぬ法を説き、衆生たちが怖畏・嫌悪しないように、次第を追って、法の無上の味をもって満たす。

第九の比喩
「荘厳」という名の大海龍王は、十種ないし百千の雲の飾りを集めて、同じ一味の雨から種々さまざまな雨を降らすように…

如来も法の雨を降り注ごうとするときは望みに合わせて、一つの法を飾りとする荘厳をもって法を説いたり、百千の法を飾りとする荘厳をもって法を説いたりする。如来の法の大雲の教説には何ら判断は無く、どの家系においても、衆生たちの能力を満たしてやるべきかに従って、無量の種類の教説が生まれる。

第十の比喩
サーガラ龍王は、四大州を雲の網で普く蔽い、各所に普く種々の雨を降らすが、愛憎に二分すべきものは無いように…

如来も、大いなる憐みの力で身の雲を広大に広げ、菩提への道を歩むものに法の雨を降らせて、分け隔てなく世間の衆生の全てにあれこれと説く。

《つづく》

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