トトガノート

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Tag:大日経

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「空海の夢」(春秋社)
「7.密教の独立」を読みました。

《以下引用》
…私は密教の特質はエントレインメント(entrainment)にあると考えている。この言葉は従来の科学では「飛沫同伴」などと訳されていて、沸騰によって生じた飛沫状液滴が蒸気にともなわれて出現する現象などに狭くつかわれているのだが、のちにものべるようにもっと生命論的現象や文化論的現象に広くつかわれてよい概念である。異なるリズムが同期する、あるいは、多様なリズムが協調振動をおこすといった意味である。

そこで密教潮流にもエントレインメントをつかうとすると、密教は密教正史のようなものをもったというのではなく、むしろ多様な随伴現象や協調振動によって形成されたとみるべきだということになる。それぞれが「引きこみあい」をおこしたのだ。これをオリジナリティが乏しいというふうに解釈してはいけない。いくつかの密教意識の流れがあるとして、それぞれの水が引きこみあいをおこすのである。そしてそのたびに密教的性格が深秘されていく。そういうことなのだ。一連のエントレインメントが投了すると、そこからは密教の独壇場となる。
…《引用終わり》

一応、理学部卒ですが、エントレインメントという言葉は知りませんでした。広く使われるべき概念だというのは賛成です。

そして、三世紀からの仏教の歴史が書いてありますが、これは本書を見てのお楽しみ。

《以下引用》…
六世紀に入ると密教擡頭の足音はかなり強くなってくる。ヨーガの道場もふえてくる。いわば最後の雑密時代であろうか。

体制のほうは、西ローマ帝国滅亡の余波によるインド経済の破綻と匈奴系エフタルの連続的侵入によってグプタ王朝の中央集権制が崩壊し、群小王朝期に突入する。社会文化の黄金期が衰退した混乱の時代、いいかえれば異民族異文化の脅威のほうが強くなりはじめた時期に密教の擡頭があるということは、インド密教のみならず中国や日本の密教、さらには今後の密教文化の動向を考える上にもひとつの符牒をかざすものである。

とくにインドでは、異民族エフタルの王トーラマーナが中央インドにどっかりと腰を降ろしてそこを占領してしまったように、六世紀以降はめまぐるしく外患内憂の政治状態がずっと続いた。その混乱の中で、造壇の結印の技巧がしだいに錬磨され、本尊を短い梵字で表示する種字のアイデアや本尊を持ち物によって代行させる三昧耶形(サマーヤ)のアイデアが用意されていた。

こうして七世紀の「密教の独立」が成就する。先にものべたように七世紀は『大日経』と『金剛頂経』が成立する時期であった。
《引用終わり》

空海は久米寺の東塔で『大日経』を読み衝撃を受け、松岡氏も図書館で『大日経』を見ていっぺんでその衝撃の意味が分かったようなのですが…私も早く仲間に入りたいな。

《以下引用》…
八世紀以降、インド密教は、いやインド仏教の全体が金剛乗の怒涛の過流の中に巻きこまれていく。「密教の独立」がそのままの様式を詳細に発展させるのは、むしろ中国や日本においてであった。空海が密教の法燈を継いだと言われるゆえんである。

なぜにまたインドにおいて密教が成就できなかったのかということは、なぜにまた日本において密教が成就してしまったのかという謎につながる。それはまた空海の思想の謎にほかならない。
《引用終わり》

その謎がこれから解き明かされていく…?

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の六」を読みました。

まずは華厳経についての記述。私が探し求めている「古き良き日本」の根源、武士道なのか仏教なのかと彷徨っていましたが、華厳経の中に見つかりそうな気配がします。

《以下引用》
…中国および日本の思想にこの経ほどつよい影響をあたえたものもないのではないかとおもえる。一個の塵に全宇宙が宿るというふしぎな世界把握はこの経からはじまったであろう。一すなわち一切であり、一切はすなわち一であり、ということも、西田幾多郎による絶対矛盾的自己同一ということの祖型であり、また禅がしきりにとなえて日本の武道に影響をあたえた静中動あり・動中静ありといったたぐいの思考法も、この経から出た。この経においては、万物は相互にその自己のなかに一切の他者を含み、摂りつくし、相互に無限に関係しあい、円融無碍に旋回しあっていると説かれている。しかもこのように宇宙のすべての存在とそのうごきは毘盧遮那仏の悟りの表現であり内容であるとしているもので、あと一歩すすめれば純粋密教における大日如来の存在とそれによる宇宙把握になる。さらにもう一歩すすめた場合、単に華厳的世界像を香り高い華のむれのようにうつくしいと讃仰するだけでなく、宇宙の密なる内面から方法さえ会得すれば無限の利益をひきだすことが可能だという密教的実践へ転換させることができるのである。…空海はのちに真言密教を完成してから、顕教を批判したその著『十住心論』のなかで華厳をもっとも重くあつかい、顕教のなかでは第一等であるとしたが、このことはインドでの純密形成の経過を考えあわせると、奇しいばかりに暗合している。…
《引用終わり》

つづいて大日経について。

《以下引用》
…毘盧遮那仏は釈迦のような歴史的存在ではなく、あくまでも法身という、宇宙の真理といったぐあいの、思想上の存在である。…この思想を、空海ははげしく好んでいただけでなく、さらに「それだからどうか」ということに懊悩していたはずであり、その空海の遣り場のなかった問いに対し、『華厳経』は答えなかったが、『大日経』はほぼ答え得てくれているのである。大日経にあっては毘盧遮那仏は華厳のそれと本質はおなじながらさらにより一層宇宙に遍在しきってゆく雄渾な機能として登場している。というだけでなく、人間に対し単に宇宙の塵であることから脱して法によって即身成仏する可能性もひらかれると説く。同時に、人間が大日如来の応身としての諸仏、諸菩薩と交感するとき、かれらのもつ力を借用しうるとまで力強く説いているのである。…
《引用終わり》

空海の足跡の中での謎の七年間、私度僧として、社会的に肩身は狭いながらも自由な立場で、むしろそれを存分に利用して、大安寺や久米寺に出入りし、多くの経典に触れたようです。

《以下引用》
…かれは釈迦の肉声からより遠い華厳経を見ることによってやや救われた。死のみが貴くはなく、生命もまた宇宙の実在である以上、正当に位置づけられるべきではないかと思うようになったはずである。生命が正当に位置づけられれば、生命の当然の属性である煩悩も宇宙の実在として、つまり宇宙にあまねく存在する毘盧遮那仏の一表現ではないか、とまで思いつめたであろう。この思いつめが、後年、「煩悩も菩薩の位であり、性欲も菩薩の位である」とする『理趣経』の理解によって完成するのだが、その理解の原形はすでにこの久米寺の時期前後にあったであろう。…
《引用終わり》

私度僧になるということは、通常は「脱落」になります。でも、空海の場合はこの時期に思想の原形が出来上がったようです。

善無畏三蔵が725年に翻訳を終えた『大日経』が5年後には日本に伝わっていました。多くの経典の中に埋没していたものを私度僧空海が発見します。そして諸仏・諸菩薩との交感の方法を身につけるために、唐を目指します。

純粋密教は、中国でもインドでも消滅し、チベットでは変質してしまっているので、空海が確立したもの以外は残っていないそうです。

これほど有意義な「脱落」は世界史的にも稀でしょう。

《つづく》
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「?.大日経の相承」の「二.一行禅師」を読みました。
今回は一行禅師さまです。

683年に唐で生まれました。小さい時から記憶力が抜群で、しかも勉強熱心なため、いろんなことに通じていたようです。特に当時盛んだった道教を有名な道士に付いて勉強しました。ところが21歳の時に両親を失い、禅師について出家しました。ここでも才能を発揮し、奥義に達する。その後、律や天台についても学ぶ。

34歳のころ、名声を聞きつけた玄宗皇帝からの勅命で長安に入る。やはり卜占の能力を買われたらしい。この長安で密教と出会います。一行と比べると、善無畏はその1年前に入京、金剛智は2年後に入京しています。まず金剛智より金剛頂経系の密教を学び、その後に善無畏と大日経を翻訳したようです。

道教,易学,数学も得意で、開元大衍暦を作成した天文学者としての顔も持っています。当時の唐で使われていた暦では日食がたびたび食い違うということで、新しい暦の作成を一行に命じています。それが38歳のころ。44歳のころに完成しますが、発表する前に亡くなっています。

善無畏が亡くなるのはその8年後、金剛智が亡くなるのは14年後です。道教と呪術に興味を持っていた玄宗の治世下に、異人の金剛智と善無畏が新来の密教を、唐の朝廷内に急速に浸透させることができたのは、道士の中で厚い信頼を得ていた一行の存在が大きかったようです。

自然科学者としての顔を持つという点で、私としても興味のある方です。44年の人生で、これだけの功績。私の44年は何だったのだろう…

《つづく》
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「?.大日経の相承」の「一.善無畏三蔵」を読みました。

637年に東インドの王子として生まれました。カリスマ性のある人だったようで、末子ながら王である父に認められ、10歳で軍隊を指揮し、13歳で王位を継ぐ。それを妬んだ兄が挙兵したので応戦。反乱軍を鎮圧できたにもかかわらず、王位を兄に譲り出家。各地を放浪して仏教を学び、当時の仏教の中心地ナーランダで達磨掬多に師事。大日経系の密教を学びます。そして唐に向かいます。

長安に入ったときには80歳という高齢。前出の金剛智が長安に入ったのはその3年後。玄宗皇帝が金剛智には冷たかったのに対し、善無畏は手厚く迎えられたようです。長安で虚空蔵求聞持法などを翻訳。88歳のとき、帝に従って洛陽に入り、大日経の翻訳を行い、99歳で亡くなります。金剛智はその6年後に亡くなっている。
道教に傾いていたと言われる玄宗がとても信頼をおいたのは、呪術の力が強かったからのようです。

いずれ合流する金剛頂経系の金剛智と大日経系の善無畏が、玄宗皇帝の前に同時期に仕えていたわけです。高校の世界史では有名な玄宗皇帝ですが、仏教の側から見つめ直すのも面白いですね。

《つづく》
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第四章第四節の「両部曼荼羅」を読みました。

金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅について説明してあります。前者は金剛頂経、後者は大日経の内容を図示したものということです。お経の内容と照らし合わせていくのも一興だと思いますが、今のところは図の構成を追うのがやっとです。

仏教芸術ということになるのでしょうが、LSI(電子回路)設計のときに描いたブロック図を思い出しました。設計仕様をもれなく盛り込むために、全てを一望できる図としてまとめるものです。全ての内容をイメージとして頭の中にしまいこむには、こういう方法が有効です。大切なお経の内容を頭の中に取り込もうという執念のようなものを感じます。

金剛界曼荼羅には、向上門(成仏の流れ)と向下門(仏が化他に出る流れ)があって、俗な言い方をすると双六のようでもある。エンジニアとして見れば、これはフローチャートですね。

現代のことにも応用できるテクニックが密教の中に含まれているように思いました。真言密教はいろいろな意味で盛り沢山な内容です。

《つづく》
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