トトガノート

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Tag:大悲

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仏の心と言えば、慈悲の心。どうして「悲」なのだろう?という素朴な疑問がありました。悲嘆にくれても仕方が無いじゃないか…という疑問。

「大悲とは、仏が常に衆生の苦難を救済しようとする大慈悲の心をもっていること。」ということですが、「救済しよう」という積極的な気持ちと「悲」という感情とが自分の中ではなかなか結びつかないでおりました。

それが、ある日、納得できるようになりました。「命のノート」を読んで、ボロボロ泣いているときに、「なるほど!これか!」と思いました。

何も悪いことをしてないのに、純粋無垢な小さな命が病気に負けて消えていかなければいけない。救う術は何もない。医者も最大限の努力をし、実の親のように悲しんでいるのだから、責めることはできない。このいたたまれない気持ち。何ともできない歯がゆさ。自分が何かできることはないのだろうか?何かをしてあげたい!という強い衝動。積極的であります。

積極的であるけれども、これは「怒」ではなくて、「悲」です。

このような「悲」は、自分と他者の区別が(涙で?)ぼやけてきます。「悲」は、利己的な気持ちを弱めます(自他の区別が薄らぐのですから)。そして「悲」は、他者を責める気持ちをも弱めます。

老・病・死という苦が無くならない現実は、誰の責任でもありません。そして、根絶することは絶対にできません。であれば、これを現実として「受け止める」必要があります。そして、この苦しみが少しでも減るように(量的改善)、少しでも緩和されるように(質的改善)、即ち救済を願い続けるしかありません。

痛み続ける胸に、両手を合わせてグッと押しつける…つまり、祈るしかありません。「非」の字のような手が、「心」の上にある。これを以って「悲」となす。

そんなことを考えながら、お盆を迎えようとしています。我が家は明日、墓参りです。

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大乗起信論(岩波文庫版)
第四段「信心の修行(修行信心分)」まで読みました。五門の中の止観門の方法について、以下、自分なりにまとめてみます。

止(心の安定)の方法
・静かなところで、正しい姿勢で坐り(結跏趺坐)、心を正す。
・一切の見たり、聞いたり、感じたり、認識したりするところに気をとめてはならない。
・あらゆる想いが生ずるごと(随念)に除き去り、除き去っているのだと想うこと(除想)も捨てる。
・「一切の現象は心のみであって、外界の対象は存在しない。そして、そのように思う心自体もまた、固有の相ではなく、刹那ごとに生滅し、知覚できない」と知る。
・坐禅していないときでもこれを心がけて習熟すると、真如三昧(真実のあり方をのみひたすら念ずる禅定)に入ることができるようになる。
・真如三昧に入ると法界一相(諸々の現象の根元は全て同一の相)をさとり、法身(一切諸仏の本性)と衆生の身とは根元において平等・不二であること(一行三昧)を知る。
・真如三昧は、あらゆる三昧の根本である。

以上の禅定だけでは、心が沈んだり怠惰になったりして、他者のために尽くそうという大悲から遠ざかるおそれがあるので、これを避けるために正観の修習が必要である。

正観の修習
1.法相観
すべての諸現象はその状態を持続することができず、たちまち変化して壊れる。一切の心のはたらきも刹那ごとに生滅する。ゆえに、それらの現象はすべて苦である。…と観ずる。

2.大悲観
一切衆生は無始よりこのかた根元的無知のはたらきに浸透されているので、今生においても未来世においてもその苦は限りなく、それを取り除くことは難しい。そしてそれに気づいていないとは何と憐れむべきか…と観ずる。

3.大願観
願わくは、わが心をして、主客・自他等の分別を離れ、一切の善行・徳行を実践し、十方世界へそして未来へあらゆる方便をつくして、すべての苦悩する衆生を救済し、涅槃の安楽を得させたい…と観ずる。

4.精進観
大願を立て、いついかなる処でもあらゆる善行をできる限り修習し、決して怠らない。

止観双修
禅定(止)を修習すれば、凡夫のもつ世間に対する執着を克服できる。正観を修習すれば、大悲心を起こさないという狭い了見を克服し、善根を修習しないという心も遠ざけることができる。共に具えていなければ、さとりへの道に入ることはできない。


《つづく》

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