トトガノート

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Tag:大乗仏教

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「如来蔵経」の後半を読みました。「九つの比喩」の6つ目以降です。

6.樹木の種子
果実や木の実は外皮の蔽いの中に芽となる種子があって、壊れることなく、それが地に落ちると、やがて大樹となる。

煩悩の外皮の中に胎児のような状態で如来の本性を持っているのが、われわれ衆生。煩悩の勢いが鎮静したものは、涅槃に入る。

7.ぼろきれにくるまれ、道に捨てられた仏像
ある貧しい男が、宝石でできた如来像を携えて旅をすることにした。旅先で盗まれないように、異臭のするぼろきれにくるんだ。男は旅先で死んでしまい、如来像はぼろきれにくるまれたまま道端に捨て置かれた。通行人は誰一人それが宝物であることに気づかずに踏みつけて行った。風にあおられると、ぼろきれの包みは異臭を放ち続けた。

8.貧女が転輪王子を懐胎する比喩
身寄りのない女が、顔色も悪く、嫌な臭いがすると人々に嫌われながら、今にも死にそうな状態で救貧院に住んでいた。彼女が懐妊し、転輪聖王となるような素晴らしい胎児を宿した。しかし彼女は「この子はどんな子だろう」などと考えることもなく、気は萎えて、下劣なもの弱小なものと決めつけ、相変わらず救貧院で日を送っていた。

9.鋳型のなかの真金像
馬とか、象とか、人物の像をロウで作り、鋳型の中に置いてから土をかぶせ、火にかけてロウを溶かし、その溶け出した後に金を溶かしこむ。溶かしこんだものが中にいっぱいになってから、次第に冷却すると、外の鋳型は黒くて汚いのに、中のものは金である。工匠が鋳型を槌で壊す瞬間、内なる金でできた像は清浄となる。

***

子を持つ親としては8番の例えが特に気になりました。ある意味、現代的です。子どもには無限(に近い)の可能性があります。それが、親の都合で閉ざされている例が見受けられる昨今…いたたまれない気持ちになります。

如来蔵は、大人にも無限(に近い)の可能性がある!ということです。

《つづく》
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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの思想」の「8否定の論理の実践」の「2ブッダ」「3縁起を見る」を読みました。

《以下引用》…
ナーガールジュナが『中論』において述べているブッダ論は、異色のあるものである。一般の仏教徒にとっては恐ろしくショッキングなものである。
…《引用終わり》


ということですが…

《以下引用》…
われわれの経験するこの現象世界がそのままブッダなのである。これも、一切の事物と如来とは別なものではなく、究極において一致しているという『般若経』の説を受けついだものであろう。如来の本性が世間の本性であり、如来の本性は甲であり非甲ではないと限定することはできない。如来はあらゆる対立を超越している。したがって本質が無い(無自性である)といわれる。仏教徒は如来を独立な存在と考えて思弁に陥りやすいが、ブッダとは「名のみ」のものであるから、しばしば、夢、幻、鏡の中の像などに譬えられている。
…《引用終わり》


これは、ショッキングではなくて、「なるほど」ですね…私の場合。

《以下引用》…
『中論』の説くこのような如来は、諸註釈からみると法身(仏の真実の身体)を意味している。…『般若経』によれば、この如来の法身とは、真如、実際、空などと同じ意味であるという。そうしてこれらの諸語はすでに述べたように縁起と同一の意味であるから、さらにつきつめて考えれば如来の法身とは縁起の理法そのものを意味するに違いない。
…《引用終わり》


この考えを最も強く引き継いでいるのが真言宗ではないかと思います

さて、「縁起を見る者」が「さとりを開いたもの(覚者)」と言われ、「法(苦集滅道)を見る者」であり、「仏を見る者」である(p304〜p305に詳述)。

《以下引用》…
縁起説の意味する実践とは、われわれの現実生存の如実相である縁起を見ることによって迷っている凡夫が転じて覚者となるというのである。故に、何人であろうとも縁起を正しく覚る人は必ず等正覚者(ブッダ)となるであろうという趣旨のもとに、無上等正覚を成ぜんがためにこの縁起説が説かれたのであると説かれている(『稲幹経』)。したがって大乗の『大乗涅槃経』においては、ついに、十二因縁は仏性であると説かれるに至った。
…《引用終わり》


縁起の如実相を見る智慧が「般若(明らかな智慧)」になります。般若によって縁起を見れば無明が断ぜられる。そして、十二因縁の各項がことごとく滅し、たんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する…

《以下引用》…
ブッダは無明を断じたから、老死も無くなったはずである。しかるに人間としてのブッダは老い、かつ死んだ。この矛盾…の解答は(『中論』には)与えられていない。しかしながら、われわれが自然的存在の領域と法の領域とを区別するならば、縁起の逆観の説明も相当に理解しうるように思われる。自然的存在の領域は必然性によって動いているから、覚者たるブッダといえども全然自由にはならない。ブッダも飢渇をまぬがれず、老死をまぬがれなかった。ブッダも風邪をひいたことがある。しかしながら法の領域においては諸法は相関関係において成立しているものであり、その統一関係が縁起とよばれる。その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現れる。
 したがって覚者の立場から見た諸事象は、凡夫の立場に映じている諸事象のすがたの否定である。したがって自然的存在としての覚者には何らの変化が起こらなかったとしても、十二因縁の各項がことごとく滅するという表現が可能であったのだろう。
…《引用終わり》


ここんとこ、すごくいいので、長いけどメモらせていただきました。

《以下引用》…
この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観はすでに最初期の仏教において説かれている。ナーガールジュナはこれを受けて、その可能であることを非常な努力をもって論証したのであるから、この点においてもナーガールジュナの仏教は、意外なことには、或る意味では最初期の仏教の正統な発展であると解してもさしつかえないであろう。
…《引用終わり》


《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「如来蔵経」の前半を読みました。「九つの比喩」の5つ目までです。

《以下引用》…
『如来蔵経』(「如来を内部に宿すものについての経典」)は、大乗中期の経典で、その成立はナーガールジュナ(龍樹、150〜250)よりのち、三世紀中葉と推定される。
…《引用終わり》

サンスクリット本は散逸してしまいましたが、漢訳二種とチベット訳が残っているそうです。漢訳のひとつが不空訳です。

お話は、世尊がさとりをひらかれてから十年目のある暑い日に、弟子やそれ以外の人達が集まる前で、金剛慧菩薩の質問に答える場面です。世尊は「九つの比喩」の話をします。

1.蓮華のなかの諸仏のたとえ
色あせ、悪臭を放ち、しぼんで、少しも好ましくない蓮華と、それらの蓮華の萼に坐禅をくんで坐りながら光明を放っている美しい如来を、私たち見て、礼拝している。

《以下引用》…
それと同様に、…正しく完全なさとりをひらいた…如来もまた、自身のもつ超越的な般若の叡知と、(それにもとづく)知識と、如来の眼をもって、貪り(貪)、怒り(瞋)、無知(痴)をはじめとする、根元的執着(渇愛)と根元的無知(無明)(にもとづく)…数知れぬ煩悩の蔽いに纏われたすべての命ある衆生たちの内部に、(その如来と)同じ知恵をもち、眼をもった如来があって、坐禅をくんで不動でいるのを見る。
…《引用終わり》


私たちの煩悩をしぼんだ蓮華に例え、その蓮華の中に美しい如来が隠れているように、私たちの中にも美しい如来が隠れているのだ、ということです。

2.群蜂に囲まれた蜂蜜
中にたっぷりの蜂蜜がしまってある蜜蜂の巣と、それを蔽い隠している蜜蜂の群れ。蜜蜂の群れが煩悩で、蜂蜜が如来です。こぐまのプーさんの絵が似合います。

経文には書かれていませんが、蜂蜜を集めたのは他ならぬ蜜蜂たちですから、別な解釈もできそうな気がします。

3.皮殻に蔽われた穀物
米、大麦、稗その他の穀類の実は皮殻に蔽われていて、これを取り除かなければ食べられない。皮殻が煩悩で、おいしいところが如来です。

そば好きの私は蕎麦の実を思い浮かべました。蕎麦の実を挽くと、最初に中心の白い部分が粉になって出てきます。更科用ですね。それが無くなると、殻の方が挽かれてきます。黒い粉になってきます。これがたっぷり混じっているのが田舎そば用ですね。私は、この煩悩がたっぷり入ってる田舎そばが好きですが…これも経文には関係ありません。

4.不浄所に落ちた真金
ゴミ捨て場の腐敗物の中に金塊を落とした場合。金塊ならば、いくらひどい所に落ちてしまっても拾おうとしますね。しかも、金塊は何十年経っても腐敗物の影響を受けません。私たちの中にも、それと同じ如来の不壊なる本性が内在しているのですよ!ということです。

家内がトイレに落としたケータイ、洗って乾かしてからは正常に動作しています。これも不壊なる本性かな?

5.貧家の地下にある宝蔵
貧乏人の家の地中深くに宝物がざっくり埋まってたとしても、宝物が「掘って下さ〜い」などと声を上げたりはしない。みんなの心の奥底に徳性が埋まっていることを、如来は世間にあらわれて指し示す…

「ここ掘れ、ワンワン」と裏の畑で鳴くポチを思い浮かべてしまいました。

***

…思いつくままに一言ずつ書きましたら、ふざけた感じになってしまいましたが…

今、生きる意味を探しています。個人個人それぞれ「意味」を設定していいわけですが、みんなに共通するような最大公約数的な「意味」が無いかな…と。

如来蔵思想の中にヒントがありそうな気がしています。だから、実はかなり真剣に、この本を手にしています。

《つづく》
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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの思想」の「8否定の論理の実践」の「1ニルヴァーナ」を読みました。

ニルヴァーナ(涅槃)とは、仏教が最終目標とする境地と言っていいかと思います。
《以下引用》…
『中論』をみると、「もしも〔五蘊(個人存在を構成する五種の要素)を〕取って、あるいは〔因縁に〕縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる」(第25章・第9詩)と説くから、相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷するのを凡夫の立場からみた場合に、生死往来する状態または輪廻と名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナである。人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場に立つときがニルヴァーナである。
 輪廻というのは人が束縛されている状態であり、解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。
 故に輪廻とニルヴァーナとは別のものではなく、「等しきもの」であり、両者は本来同一本質(一味)である。…
 この思想は独り中観派のみならず、大乗仏教一般の実践思想の根底となっているものである。
 人間の現実と理想との関係はこのような性質のものであるから、ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えてはならない。ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の迷妄である。故に『般若経』においてはニルヴァーナは「夢のごとく」「幻のごとし」と譬えている。それと同時に輪廻というものも実在するものではない。
…《引用終わり》


これは昨年の大晦日に私が仏教について抱いている考えをまとめたものと合致すると思います。

《以下引用》…
これは実に大胆な立言である。われわれ人間は迷いながらも生きている。そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、憧れる。しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。
…《引用終わり》


すべては気の持ちよう…ということになりそうですが、結局そうなんでしょうね。すべては妄念の所産というところから仏教は始まるわけですから、妄念から自分を解放することが最終目標ということにもなるでしょう。

《つづく》
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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの思想」の「4空の論理」を読みました。「中論」の第二章(第一〜第十七詩)に書かれている「運動の否定の論理」というのが「中論」の論法の基礎なのだそうです。

【運動の否定の論理】(三時門破または三世門破の論法)
「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない」

【その理由】
もしも「去りつつあるものが去る」ならば、主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「去」と、新たに述語として附加される「去」と二つの<去るはたらき>が付随することとなる。

去る主体を離れて去るはたらきはありえないから、二つの去るはたらきが付随するということは、二つの<去る主体>が付随することになる。

これはおかしいから、「去りつつあるものが去る」ということはいえない。

Q.E.D.(証明終わり)

以上、わかったようなわからないような…です。これが、前回の有部の「法有」という考え方を否定したことになるそうです。後でまた取り上げるみたいなので、それを待ちましょう。

前回、有部の「かた」の考え方はイデアみたいだと書いたのですが、著者もプラトーンの対話篇を持ち出しておりまして嬉しいです。

運動の否定の論理に関しては、ギリシアのゼーノーンの論証を比較しています。「アキレスは亀に追いつけない」というパラドクスですね。

《つづく》
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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの思想」の「3論争の相手」を読みました。ナーガールジュナの主著「中論」は攻撃的な口調で書かれていて、論敵がいることが明らかなのだそうです。その論敵と目されるのが「説一切有部」。小乗仏教の一派で、最大の社会的勢力を持っていたそうです。敵を知ることで、ナーガールジュナの思想も際立ってくるだろうというわけです。

有部の思想は、「一切の実有なる法体が三世において恒有である(三世実有、法体恒有)」ということだそうですが、4つに分けて考察しています。

1.「法」および「法体」を有部はいかに解したか。
2.「実有」とはいかなる意味か。
3.「一切」とはいかなる意味か。
4.「三世において恒有である」とはいかなる意味か。

1.「法」および「法体」を有部はいかに解したか。

《以下引用》…法とは「きまり」「軌範」「理法」というのが原義であるといわれている。そうしてこれはインド一般に通ずる用例であり、これがもととなってさらに種々の意義がこの語に附加されている。…法の原義は「きまり」「法則」「軌範」であるのに、何故後世、伝統的に「もの」と解釈されるに至ったのであろうか。…《引用終わり》

これは私も不思議に思っていました。

《以下引用》…法とは一切の存在の軌範となって、存在をその特殊性において、成立せしめるところの「かた」であり、法そのものは超時間的に存在する。この解釈は「理法」「軌範」という語源的な解釈とも一致する。法は自然的存在の「かた」であるから自然的事物と同一視することはできない。…《引用終わり》

イデアみたいなものでしょうか…

《以下引用》…個々の存在はたえず変化し生滅するが、それの「ありかた」としての「感受されてあること一般」は変化しないものではなかろうか。すなわち法としての「受」はより高次の領域において有るはずである。存在はつねに時間的に存するが、法は、「それ自身の本質(自相)を持つ」ものとしてより高次の領域において有るから、超時間的に妥当する。かくして法は有る、すなわち実在する、とされた。…《引用終わり》

2.「実有」とはいかなる意味か。

・実有とは、時間的空間的規定を受けている自然的存在を可能ならしめる「かた」としての法に関してのみいわれうる。この点で、「仮有」(男、女、瓶、衣、軍、林、などの自然的存在)、「名有」(自然的存在の中に対象を見出しえないもの亀の毛や兎の角のようなもの)、「和合有」(プドガラ:実有なる五蘊の仮の和合に名付けたもの。相待有を特に空間的に限定したもの)と区別される。

・法は自然的存在の「ありかた」であるから、他に依存せず、独立している。故に「相待有」(長と短、これとかれのように相関関係において存する有。例えば、より短いものと比べれば長となるが、より長いものと比べれば短となってしまう)と区別される。

3.「一切」とはいかなる意味か。

・「一切有」とは「一切の方が実有」という意味。法ならざるもの、つまり名有、和合有、仮有は、「一切」の中に含まれない。

4.「三世において恒有である」とはいかなる意味か。

・「かた」としての純粋の法が先になくて後からできたり、先にあって後になくなるということはありえない。自然的存在は過去未来において存在しないが、「法」は三世において存する。

《つづく》
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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?.ナーガールジュナの思想」の「1.大乗仏教の思想」「2.空観はニヒリズムか」を読みました。大乗仏教と旧来の仏教との比較(当時の情勢)が書いてあります。

《以下引用》…まず第一に、旧来の諸派は、たとえ変容されていたとしても、歴史的人物としてのゴーダマの直接の教示に近い聖典を伝えて、伝統的な教理をほぼ忠実に保存している。これに反して大乗仏教は全然あらたに経典を創作した。そこに現れる釈尊は、歴史的人物というよりもむしろ理想的存在として描かれている。…《引用終わり》

ここでお釈迦さまが超人化したんですね…

《以下引用》…第二に旧来の仏教諸派は国王・藩候・富豪などの政治的・経済的援助を受け、広大な荘園を所有し、その社会的基盤の上に存立していた。ところがこれに反して大乗仏教は、少なくとも初期の間は、民衆の間からもり上がった宗教運動であり、荘園を所有していなかった。…富者が寺塔を建立し莫大な富を布施することは非常に功徳の多いことであるが、しかし経典を読誦・書写し信受することのほうが、比較にならぬほどはるかに功徳が多いといって、経典の読誦を勧めている。…《引用終わり》

法華経とか大乗起信論などでも、「この本を読むことが他の本を読むよりもずっとずっと功徳がある」という自画自賛的な表現があって、私はこれが嫌なんですけど、歴史的背景に由来するようですね。

《以下引用》…大乗仏教においては、三世十方にわたって無数に多くの諸仏の出世および存在を明かすに至った。諸仏の中でも阿閦仏・阿弥陀仏・薬師如来などがとくに熱烈な信仰を受けた。また、菩薩も超人化されて、その救済力が強調された。弥勒菩薩・観世音菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩などはとくにその著しいものである。かれらは衆生を救うためには種々なる身を現じてこの世に生まれてくる。そうして衆生に対する慈悲ゆえに自らはニルヴァーナ(さとりの境地)の入ることもない。…《引用終わり》

平泉が表現している浄土は薬師如来の浄土だと聞いたことがありますが、阿弥陀仏の極楽の他に、阿閦仏の妙喜国、弥勒菩薩の兜卒天などもあるようです。

《以下引用》…大乗経典は、それ以前に民衆の間で愛好されていた仏教説話に準拠し、あるいは仏伝から取材し、戯曲的構想をとりながら、その奥に深い哲学的意義を寓せしめ、しかも一般民衆の好みに合うように作製された宗教的文芸作品である。…《引用終わり》

その最も典型的なものが法華経のようです。以下の引用を見るとわかります。

《以下引用》…大乗仏教徒は、小乗仏教徒を極力攻撃しているけれども、思想史的現実に即していうならば、仏教の内の種々の教説はいずれもその存在意義を有するものであるといわねばならない。この道理を戯曲的構想と文芸的形式をかりて明瞭に表現した経典が『法華経』である。…従来これらの三乗(声聞乗(釈尊の教えを聞いて忠実に実践すること)・縁覚乗(ひとりでさとりを開く実践)・菩薩乗(自利利他をめざす大乗の実践))は、一般に別々の教えとみなされていたが、それは皮相の見解であって、いずれも仏が衆生を導くための方便として説いたものであり、真実には一乗法あるのみである、という。…法華経の宥和的態度はさらに発展して、『大薩遮尼乾子所説教』や『大般涅槃経』においては、仏教外の異端説にもその存在意義を認めるに至った。…《引用終わり》

ほう…、涅槃経というのにもちょっと興味が出てきました。

《つづく》
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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナ(龍樹)の生涯」の「2プトンの伝えるナーガールジュナの生涯」「3ターラナータの伝えるナーガールジュナの伝記」「4結語」を読みました。

龍樹の生涯についての2つの史料が紹介されています。でも伝説の巨人ですから、そのまま鵜呑みにはできない荒唐無稽な内容です。「結語」にまとめてある2つの史料の共通点を抜粋します。

1.かれは南インドと関係があった。
2.かれはバラモンの生まれであった。
3.かれは博学で、特にバラモンの種々の学問を修めた。だから、かれの哲学思想にバラモン教の哲学思想の影響があったことは充分に考えられる。
4.かれは一種の錬金術を体得していた。

著作も多数あります。以下は龍樹の持つ「顔」ですが、同一人かどうかは分かりません。

1.『中論』などの空思想を展開させた著者
2.仏教百科事典と呼ぶべき『大智度論』の著者
3.『華厳経』十地品の注釈書である『十住毘婆沙論』の著者
4.現実的な問題を扱った『宝行王正論』などの著者
5.真言密教の学者としての龍樹
6.化学(錬金術)の学者としての龍樹

怪人二十面相みたいですね。明智小五郎にお願いしましょうか…

《つづく》
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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「まえがき」と、「?ナーガールジュナ(龍樹)の生涯」の「はじめに」と「1『龍樹菩薩伝』」を読みました。

《以下引用》…大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論によって、空(sunyata)の観念を基礎づけた。空(sunya)とは、その語源は「膨れあがった」「うつろな」という意味である。膨れあがったものは中がうつろ(空)である。われわれが今日数学においてゼロと呼んでいる小さな楕円形の記号は、サンスクリット語ではシューニャ(空sunya)と呼ばれる。それが漢訳仏典では「空」と訳されているのである。ゼロはもともとインド人の発見したものであるが、それが西紀1150年ころにアラビア人を通じて西洋に導き入れられたのである(アラビア数字はその起源に関するかぎり、インド数字なのであって、アラビア数字ではない)。…《引用終わり》

「はじめに」の一節です。インドは現代においても数学を重視し、
数学教育に力を入れているようです。

数学も自然数だけを扱っているうちは高級感が無いのですが、ゼロという概念が入ってくるとアカデミックな感じがしてきます。仏教においても「空」の概念は非常に大きなもののような気がします。量子力学との類似も興味あるところです。

考えてみると、私は般若心経(色即是空空即是色)以上のことは何もわかっていないのかもしれない。だから、どうしても龍樹さんについては勉強しなければ、と思っておりました。

龍樹さんは小さい時から大天才で、わからないことは何もないと言われていたようです。若い頃は悪いこともし、才能ゆえに高慢にもなったようですが、龍から教えを受けて(?)…。と、どこまで本当かわかりませんが、昔の話ですから仕方がないでしょう。でも、「私も若い頃は手がつけられないワルだったんですよ。」と言うような人が、発心について説いたら説得力はありますね。

「八宗の祖師」と呼ばれる人ですから、宗派に関係なく、大乗仏教を知るためには避けては通れません。難しそうな本ですが、頑張ります。

《つづく》
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大乗起信論(岩波文庫版)
第五段「修行の勧めと修行の効果」まで読みました。一応、読了ということになります。

紀元前後(ということは奇しくもキリスト生誕前後ということか…)にインドで起こった仏教の宗教改革と位置づけられるのが大乗仏教だそうです。それをうまくまとめたのがこの「大乗起信論」。5〜6世紀ころの成立とされています。

日本の仏教は殆どが大乗仏教ですから、どの宗派を勉強するにも「大乗起信論」は共通の大前提になるのだろうと思います。

最近、大乗非仏説という考え方があることを知りました。「お釈迦様が亡くなって数百年も経ってから成立したものは、仏様が説いたものとは言えないのではないか?」という主張です。まあ、一理ありますね。

でも、「仏」はお釈迦様だけとは限りません。この問題は、大乗仏教をつくった人たちを「仏」と認めるかどうか、に帰着するのではないかと思います。

私の場合は、「古き良き日本人の原点は何か?」ということが出発点 です。しかも思想の部分(哲学としての仏教)に特に興味がある。だから、仏説か否かは全く気にしてません。

仏教は、トヨタとかホンダのように創業者の名前を掲げていません。素直な言い方をすれば、キリスト教とかマホメット教とは違います。だから、釈尊にばかりこだわるのはどうかな?とも思います。そう考えていくと大釈別体説の真言密教が一番スッキリしていると感じます。

仏教に取り組んだ多くの人たちが、考え、悩み、議論して、蓄積していったのが大乗仏教だと思います。その発端をつくったお釈迦様の功績も絶大ですが、その後に続いた人たちの功績も素晴らしい。

そして何よりも、その英知の蓄積を文庫本の形で簡単に読める時代に生まれた我々は本当に幸せだな、と思います。尤も、そういう恵まれた環境にありながら、いっこうに不安とか争いとかが無くならないのはどういうことなんだ?とも思いますけど…

後日、もう少し詳しい本で、「大乗起信論」を読み直したいと思います。

《最初から読む》
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