トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:大乗仏教

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
実は、このタイトルで、記事一回分、暖めていた構想がありました。

大乗仏教には「お互いの違いを認めた上で一緒に行こう」という雰囲気があるようなので、その方法論とかエッセンスみたいなものを抽出することができれば、世界平和とか、これからの地球の舵取りの大きなヒントになるんじゃないだろうか?というものです。

そんなに簡単ではないだろう、とは自分でも思っていましたが、先週のコメントに書きましたら、「やはり無いだろう」という回答を即座に頂きました(笑)

回答いただいた水波坊さんは、こういった私の突飛な考えをそのままぶつけることができる方であり、きちんと受け止めて膨大な知識に裏打ちされた深遠かつ適切な回答を下さる方です。いつもありがとうございます<m(__)m>

さて、ポシャッたところで、もう一度考えてみました。すぐにコメントしてしまうと一回分ブログに穴があいてしまうので(笑)、ゆっくり考えてみました。

「幾何学に王道なし」ということがこの場合にも言えるということですから、要するに地道に行くしかないのですね。そこで思い起こされるのが「一燈照隅」。「萬燈照国」と続きます。そしていずれは「億燈照星(地球)」へと…。

「隗より始めよ」、まずは己が「お互いの違いを認めた上で一緒に行こう」という精神を持ち続けること、それは少なくとも私の場合は大乗仏典を読んで精進を重ねることであるわけです。そういう自分から発信される言葉や行動は、少しずつ周囲をも照らしていくはずです。

このブログもそのひとつとなればいい…。

「自分の実践しかないのだ!」と気付いたときに、先日紹介した弘法大師の言葉を思い出しました。「それはすなわちお前自身の三密がそれではないか。決して外に求めるべきではない。」という激しい一節。「己の身を惜しんで、近道など考えるなよ!」と一喝された気分でした。

この一節は最澄に送った絶縁状の中の一文ですから、この場に引くのは躊躇したのですが、先にあげた「一燈照隅萬燈照国」は最澄の言葉ですから、それぞれの意見を聞くという意味で、まあいいかな…。

この二人の確執が日本仏教の宗派間の行き来を閉ざすきっかけとなったそうですが、仏道を極めたお二人でさえもそういうことですから、難しいんだな…ということは分かりますね。

尤も、二人の場合は、閉ざすことによって併存(共存)の道を開いたのだと、私は解釈してます。そう解釈すれば「お互いの違いを認めた上で一緒に行こう」の良い模範(つまり一乗のテクニックのひとつ)とも言えますが…苦しいかな…。

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「仏教入門」(東京大学出版会版)
「九章 戒律と教団の組織」を読みました。

教団のことをサンガ(僧伽)と言います。もともとは集団という意味で、同業者の組合とか共和制体の国家にも使われるとのこと。同一の目的をもって集まった人々のつくる共同体で、成員は相互に平等であり、同一の規律に服し、加盟は自由意志、集団の意思決定は成員の合議制による…そういう集団を言うそうです。沙門の組合ということですね。

生まれで所属が厳格に決まってしまうカーストとの対比の意味が含まれているのでしょう。共和制体の国をサンガというのも世襲の王がいないからでしょう。仏教には、そういう民主的な雰囲気が当初からあったということかもしれません。

《以下引用》
…受戒10年以上をへて弟子をとることをゆるされたものを「和尚」といい、また教団中にあって学業の指南役となるものを「阿闍梨」とよぶ。また、教団内で能力に応じて役割が分化するようになると「法師」「禅師」「律師」などの名称も生まれた。禅師は「瑜伽師」と同じで、禅定修行にもっぱらなる人びとである。これに対し、法師は説法師で、民衆教化を主な仕事とする。
《引用終わり》

禅師とは禅宗のお坊さんのことだとばかり思ってました。

教団の戒律があって、殺生・偸盗・婬・大妄語をしでかした場合に最も重い罪となり、教団から追放されたそうです。

でも、大乗仏教ではこういうことは無いんでしょうね…人殺しも盗人も変態も嘘つきも、みんな救いますから。

《最初から読む》

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「仏教入門」(東京大学出版会版)
「四章 一切法」を読みました。

《下記参考文献より引用》
現象のことを仏教では有為とか行とかいう。われわれはこの現象界の中で生滅変化し、苦しみ悩み、喜び楽しみ、迷い悟るなどの生活を続けている。われわれにとっての世界は現象界のみである。この意味における一切の現象界を仏教では一切とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる。
《引用終わり》

一切法は三科(五蘊・十二処・十八界)に分類される。いずれも一切法をさすから、 五蘊=十二処=十八界ということになる。

〔五蘊の色〕
=〔十二処の眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、色処、声処、香処、味処、触処〕
=〔十八界の眼界、耳界、鼻界、舌界、身界、色界、声界、香界、味界、触界〕

〔五蘊の受、想、行〕
=〔十二処の法処〕
=〔十八界の法界〕

〔五蘊の識〕
=〔十二処の意処〕
=〔十八界の意界、眼識界、耳識界、鼻識界、舌識界、身識界、意識界〕

《以下引用》
以上、三科といわれる分類法は阿含以来の伝統、すなわち「仏説」であるのに対し、アビダルマの教学において確立したのが「五位」の分類である。伝統的に中国や日本でもちいるものは『倶舎論』によるもので、元来は有部(説一切有部)の学説である。…

有部の学説は一つの理論によってこの法の体系を完成したのであるが、それは、右のような種々の区分で整理される諸法は、法としての過去・現在・未来の三世にわたって存在する(三世実有、法体恒有)ということであった。…

同じく縁起ということも、ある法が条件によって他の法と関係をもち、その結果として現在化する、その法と法との関係のあり方をさすことになり、それをその種類によって六因・四縁・五果に分類することになった。
《引用終わり》

説一切有部の思想については、今後、大乗を修めるにあたり、必要と感じた時に再び取り組みたいと思います。

《以下引用》
因果関係の分類という意味では、有部において確立したこの六因・四縁・五果の説はそのまま大乗にもうけつがれる。一切法の分類についても同様である。しかし、大乗仏教はこの有部の法理論に対して疑念をもち、それが仏説からほど遠くなっていることに気づいて、その修正を試みた。それがはじめに述べた『般若心経』にみられる「五蘊皆空」の教えなのである。大乗の主張は有部の「法有」に対して「法空」の理論で、それによって、縁起ということを仏説に即して正しく解釈できたと自負した。

有部の説は「無我」ということを、我が五蘊の諸法の因縁による集まりで、名のみの仮のものと見る点では仏説にかなうが、構成要素としての諸法が実有とみることは、法が外教のいう「我」と同様に、固有の性質をもった自己存在(自性)となり、諸法無我の理に反する。そこで、大乗は法もまた自性が無い(自性に欠ける=自性空)と主張し、それが法が縁起するということの正しい意味だといったのである。

『般若経』の「五蘊皆空」はその意味であり、ナーガールジュナとその後継者たち(中観派)がこれを敷衍して、その空性説うちたてた。

そのあと、しかし、諸法は空ではあってもなお現実には有りと見られているのはなぜか、という新たな問題が提起され、それの解明として、瑜伽行派の唯識説が成立した。瑜伽行派は、有部と同じ法の体系を利用しながら、法の存在性を剥奪し、ただその機能性を主体とのかかわりにおいて認めた(法は仮有)。主体とのかかわりとは、われわれにとって法がどんな意味をもつかということで、それは認識の基本構造(唯識)というかたちで解答されたのである。それは、仏説として五蘊や十二処・十八界の分類が立てられた本来の意義でもあった。
《引用終わり》

般若心経の無い無いづくしの歴史的意味がわかったように思います。

参考文献「仏教要語の基礎知識」

《つづく》

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「仏教入門」(東京大学出版会版)
「三章 法」の後半を読みました。

いろはのうたに出てくる「うゐのおくやま」の「うゐ」とは「有為」のことだそうです。
《以下小生要約》
「行」は「いっしょに集めて造るはたらき」というような意味。ものを生み出す力・はたらき、そのようなはたらきを持つもの、結果を生み出すもの、因となるもの。

因たるものが「サンスカーラ(行)」と呼ばれるのに対し、果たるものは同じ動詞の過去分詞形をとって「サンスクリスタ(有為)」と呼ばれる。

「有為」とは、行によって作られたもの、縁によって作られたもの、因によって作られたもの、因縁所生の法、縁起したもの、ということになる。したがって、諸行=諸法=有為法の一切で、それらは無常であり、無我であり、苦(をもたらすもの)である。

同様に、「縁りて生ぜしめるもの」と「縁りて生じた(過去分詞)もの」という言葉もある。この場合、縁りて生じたもの(縁起したもの、縁生したもの)はまた、別の縁によって滅する。つまり、生起したものは必ず滅するということが理解の前提となっている。

無常なるもの、無我なるもの、苦をもたらすものは、この生滅あるものであり、「縁によって生じたもの」である。

一方、「縁によって生起させること」を意味する前者には、因となるもの(サンスカーラ)と同様の意味とならんで、縁起の法則自体をさす場合がある。

これあるとき、かれあり
これ生ずるより、かれ生ず
これなきとき、かれなし
これ滅するより、かれ滅す

という定型句が縁起の法則を示すものとされている。これは、諸行無常・諸法無我と同じことである。

縁起は「諸法に関するきまり」というが、この「きまり(dharmata)」が単独では「法性(ほっしょう)」と訳される。「法性」とは「法の本性」、縁起した諸法に通じる普遍的性質、すなわち縁起することを指す。仏教の教理としては、「無常性(無常であること)」、「無我性(無我であること)」も同じく「法性」である。

まったく同じ縁起の理、無我なることを、大乗仏教では新たに「空性(くうしょう)」と名づけた。「空性」とは「一切皆空」という命題を内容とし、「自性(じしょう)が無い」という意味である。「自性」とは、自己存在で常に同一の性質を保ち、他者を必要としないもの。
《要約終わり》

さらに大乗仏教の真理観についてまとめてあるので、ノートしておきます。
《以下引用》
大乗仏教は、「一切皆空」をものの見方の基本としている点で、いかなるものも実在としては立てないのであるが、そのような真理それ自体を、絶対的価値としていわば一種、宗教的実在とみなすのである。…真理を悟った仏を、真理と一体となった者として「法身」とよび、それとこの「法界」とを同一視する点で、仏に絶対性、究極的実在性を付与することになる。加えて、「法界」には「法という要素」という意味で、意識の対象となるかぎりの全存在をさす(すなわち、法界=一切法)用法があるので、仏の側からすれば、仏が全宇宙にほかならないというかたちでの絶対性を意味し(たとえば『華厳経』の毘盧遮那仏の説明に見られる)、他方、法の側からすれば、全存在は真理の顕現として実有性を認められることになる(華厳宗の法界観に代表される)。ただし、後者はあくまでも仏の目をとおして見た全存在、宇宙、世界、衆生ということであり、決してわれわれが把握しているとおりに現実を肯定したものではない。
《引用終わり》

・第一義諦
悟りの体験は他人には伝ええない。言語表現を超えている(言詮不及、言語道断)。悟りそのものを「最高の真理」という意味で第一義諦(真諦、勝義諦)という。

・世俗諦
教えとしての法は、自内証の体験を言葉によって表現したものであるが、語るべからざるものを語っている点で既に方便であり、仮のものである。言葉に表された法(教説)は二義的なものに過ぎない。これを、「言説諦」「世俗諦」という。

どうあろうとも、言葉は葉っぱ。幹にはなれない…

《つづく》

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「仏教入門」(東京大学出版会版)
「序章 仏教とは何か」を読みました。

きちんと入門書から勉強したいというのが当初からの願いでしたが、書店で見かけるのはどうも物足りなくて読まずにいました。今回やっと、しっかりした入門書を見つけましたので、じっくり取り組んでみたいと思います。もとは駒沢大学の学生用教科書であったものに加筆修正したものだそうです。

《以下引用》
仏教の特質をひとことでいえば、真理と一つになる、絶対との合一ということを目標とする点にあると言えよう。…絶対者との合一を目標とする思想はひろく神秘主義(mysticism)とよばれる。神秘主義はキリスト教やイスラム教の一部にもあるが、主流とはいえない。それに対しインドではヒンドゥー教も「梵我一如」の教えに見られるように絶対者との合一を説く。仏教はむしろ、このインド的伝統に根ざすものと言うべきだろう。なお、わが国の宗教的伝統も神人合一というか、神人未分というべき思想が強い。宗教学の姉崎正治はこの伝統を「神人合一教」と名づけ、キリスト教などの「神人隔絶教」から区別した。
《引用終わり》

この世の全てと一つになるということ。神の視点の下降は、「神人隔絶教」から「神人合一教」への移行と言えるかもしれません。

ここでまた「大乗非仏説」の話が出てきます。高崎先生も「学問的常識として当然」と言いながらも、佐々木先生とはニュアンスが違います。

《以下小生要約》
「阿含」といえども仏説のままではない。それぞれの部派が「阿含」を伝承しているうちに独自の解釈を加えるようになり、ブッダの教えとはだいぶ隔たりを生じてきた。大乗仏教はむしろ、そのような従来の諸教団の学説がブッダの真意をそこねていると考え、ブッダの立場への復元をめざして、その運動を展開した。
《要約終わり》

部派の教学をアビダルマ(abhidharma)と言います。「龍樹」のところで出てきましたが、何だか分かりませんでした。ダルマ(dharma)すなわちブッダの教えに対して(abhi-)これを研究するという意味。

《以下小生要約》
時の流れとともに、仏の教え、すなわち「法」はしだいに理解しがたい点が生じた。また、ブッダの教えは対機説法を旨とし、「八万四千の法門」と言われるほどさまざまに説かれたので、往々にして表現上の差異や矛盾と見える教説もあった。そのため、整理分類する必要が生じて「アビダルマ」の動きが出てきた。西洋でいえば、スコラ哲学に匹敵する。
《要約終わり》

法は教えの基本線という意味で「経」(スートラ)、アビダルマは註釈解説という意味で「論」(シャーストラ)、これに教団の規則「律」を加えて三蔵となる。

《以下引用》
大乗経は…総じて大乗仏教の成立に呼応して、しだいにできたもので、歴史的には教主シャーキヤムニの説法とは何のかかわりもない、後世の産物である。その意味では「大乗非仏説」にちがいないが、ただ大乗経典の作者の自負においては、これこそ仏の教えの真意を伝えるものであるとして、阿含経よりも深遠で究極的な教えである。それを「仏説」と表明したのは、単なる権威づけというよりは、作者の信念の表白と見るべきだろう。事実、大乗仏典はいくたの発展した教義をふくみ、それが仏教を思想的に深め、高めた点で、絶大な価値を有している。
《引用終わり》

こういった経緯を踏まえれば、「偽経」も、内容的に仏教として一貫性があり、すぐれたものであれば経とみなしてかまわないだろう。また、日本の各宗の祖師たちの著作も「お経」と呼んで差し支えないだろう。…ということです。

「仏教としての一貫性」ってなんだろう?とも思いますが、穏便なお人柄にホッとしております。「仏」を学ぶ人は、こうでなくちゃね…。

《つづく》

ブログネタ
哲学 に参加中!
「生きる上での苦しみを軽減する考え方を広めて、多くの悩める人を救うこと」…これが、釈尊が悟りを開いてから行ったことで、仏教の原点であり、至上目的だろうと思います。

ところで、これと同じことをやっている番組のひとつがNHKの「ためしてガッテン」だと思います。もちろんこちらは宗教ではないので、心の苦しみだけではなくて、健康上の悩みから家事の悩みまで幅広いですけど。悩みを軽減する知恵を紹介して、分かりやすく説明し、多くの人を救う活動をしている番組と言えます。

番組では、分かりやすく説明するテクニックとしては「擬人化」、多くの人に実践してもらうためには「簡単化」が行われています。

「擬人化」では、例えばホルモンの働きを説明する時に、顔や手足のついた「インスリンくん」とかが登場します。うまく働いているときは笑顔、働きが悪くなると困った顔、膵臓の中から現れて、糖のボールをいじったりする。

これは真実とは若干違います。世の中の物すべてに手足が付いていて、顔があってニタニタしていたら気持ち悪いです。でも、分かりやすさは抜群です。とにかく分かってもらうこと(ガッテンしてもらうこと)が至上目的なのですから、それでいいのです。

「簡単化」は、私はダイエットでよく見るのですが、簡単だけれどもそれなりの効果がある運動法をいろいろ紹介してくれています。私が心がけているものだけでもスロー筋トレスロージョギングなどがあります。

これは理想的な方法ではありません。最も効果的な方法は別にあります。でも、普通に生活している人が毎日続けられるものでなければ、ガッテンの場合には意味がないのです。簡単でも効果が無いのなら詐欺になりますが、ある程度の効果が期待できるなら、理想的な方法を目指して挫折するよりはずっといい。

大乗仏教では、これらの手法がよく用いられているのだと思います。

例えば、「如来」は抽象的な概念ですから、厳密には手足があるわけでもなく、印を結んで座ってるわけでもないでしょう。「修行」するのであれば、きちんと出家して、一切の生産活動をやめなければいけないのでしょうが、そうしないでも済む簡便な方法が考案されています。

苦しみを軽減する考え方を、少しでも多くの人に分かりやすくイメージしてもらうために。そして最高の実践法ではないにしても、それなりの効果があって、多くの人ができる方法を提案する。

釈尊の遺志を継いで、少しでも多くの人を救おうとした先人たちの努力に、私は敬服します。

《つづく》

ブログネタ
哲学 に参加中!
「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの著作」の「2大乗についての二十詩句篇」と「3大智度論」(第十三巻の五戒に関する部分の抄訳)を読みました。

大乗についての二十詩句篇
これは唯心思想を説いていることで有名だそうなので、その部分をメモっておきましょう。

《以下引用》…
18.この一切のものは心のみ(唯心)より成り、幻のすがたのように出現している。それ(心のみ)にもとづいて善と悪との業が起こり、それにもとづいて善と悪との生存が起こる。
19.人々が世界を妄想しているがごとくには、かれら自身は生起していない。この生起なるものは妄想であり、外界の対象(事物)は存在しない。
…《引用終わり》


大智度論
これは、『摩訶般若波羅蜜経』(『大品般若経』)に対するナーガールジュナの註釈で、仏教の百科全書的存在だそうです。五戒(不殺生・不盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)について記述している箇所だけ取り上げられています。

不殺生
人殺しがいけない理由というのは、説明が簡単なようで意外と難しいです。ナーガールジュナの説明は如何に?と興味あるところです。

不殺生の戒をたもっている人は、われがかれを害することがないから、かれもまたわれを害することがない。ゆえに恐怖がない。

不盗
生命には内的生命と外的生命があり、他人の財物を盗むことは外的生命を奪うことになるという考え方。

不邪淫
自分の妻であっても自由勝手にしてはならない…というところが面白い(?)です。妊娠中(胎児が危険)、授乳の期間中(オッパイが出なくなる)、子育て期間中(母親が淫欲に執著すると子育てをしなくなる)は控えて下さい。また、女性の方で望まないのにやってはいけません。…まったく、ご尤もな話です。

不妄語
《以下引用》…真実を語る人は、その心が正しくまっすぐで、苦しみをまぬがれることが得やすい。たとえば、密林の中から木をひき出す場合に、まっすぐな木材はひき出しやすいようなものである。…《引用終わり》
嘘は上塗りが必要になり、つじつま合わせの嘘がどんどんくっ付いてくると、進むも退くもできなくなりますね。

不飲酒
Q&Aが面白いです。
《以下引用》…
問――酒を飲むと、身体が冷えるのをとどめ、身を益し、心を歓喜させる。どうして飲んではいけないのだ。
答――〔酒を飲んでも〕身を益することははなはだ少なくて、損ずることのほうがはるかに多い。このゆえに、飲んではならない。たとえばおいしい汁の中に毒がまじっているようなものである。
…《引用終わり》

今昔を超えた問答です。昔から酒での失敗は多かったということでしょう。昨今ならば特に公務員の方ご注意下さい。

《つづく》

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「勝鬘経」の「三 一乗章」を読みました。冒頭で、大乗こそが真実の教えであり、声聞や独覚のほか、世間的・超世間的善法はすべて大乗から分かれ出たものである、と宣言されています。

「潜在的無知のあるかぎり完全な涅槃はない」というところの記述が気に入りました。

《以下引用》…
輪廻の最後の生存にある(最後有)菩薩たちでさえ、潜在的無知に蔽われ、遮断され、囲まれて、迷っているため、あれこれの価値あるもの(法)を観察せず、理解できません。

…なんぴとであれ、過誤からの解放という点で残滓があり、すべての過誤から解放されたのではないもの、清浄という点で不十分さが残り、すべてにわたって浄化された性質のものではないもの、不完全な徳性の所有者で、一切の徳性をそなえたのではないもの――

こうした人々は…苦悩(苦)を観察する点でも不十分さが残ります。苦悩のよってくるところ(集)を断ずる点でも不十分さが残ります。苦悩の滅尽(滅)を体得し、実現する点でも不十分さが残ります。苦悩の滅尽を目標とする修行道(道)を実践する点でも不十分さが残ります。

…彼らは…その涅槃が部分的なもの、部分的な涅槃を獲得したものであります。
…《引用終わり》


もがきながら生きるのが人間の宿命…ならば、せめて小さな涅槃を見つけることから始めよう…

《つづく》

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「不増不減経」を読みました。「衆生の世界は「真理の領域」そのもので、満ちることもなく、減ることもない」ということを解説しています。

輪廻を続けることによって衆生界がいっぱいになるのではないか?逆に、さとりによって衆生界が減っていくのではないか?という人々の疑問を、シャーリプトラが代表して世尊に質問しています。世尊は、人々が陥りやすい大邪見(減見と増見)について解説を始めます。

減見涅槃を認めない諸見解・あるものをないという見方)
・断見:死によって完全に減尽し、あとかたもなくなる、という見方。
・滅見:涅槃はものの消滅である、という見方。
・無涅槃見:涅槃は非存在であり実体を離れている(畢竟空寂)、という見方。
・無欲見:涅槃を求めない、という見方。他の教えに従っていたり、不浄なものを浄と考えているからで、世俗主義と解せられる。
・畢竟無涅槃覚:涅槃という理想世界は無い、という見方。

増見(涅槃は求めずしてあるとする諸見解・ないものをあるという見方)
・涅槃は無からはじめて生ずるという見方。
・涅槃は因も縁もなくて突如として出現するという見方。
これらの見方は、価値あるもの(善法)に対して、それを望み願う心や得ようと努力する心を失わせてしまう。根元的無知(無明)や、それに基づく煩悩の根元である。

根元がただひとつであることを知らないから、このような大邪見に陥ってしまう。この、ただひとつの根元とは何か?

《以下引用》…
究極の真理というのは、…衆生の本質(衆生界)の同義語である。衆生の本質というのは、…如来蔵の同義語である。如来蔵というのは、…すなわち、(如来の)法身(すなわち、真理の世界そのものとしての如来の身)の同義語である。
…《引用終わり》


《以下引用》…
この法身は不生・不滅性のものである。それは過去の極限をもたず、未来の極限ももたない。なんとなれば、両極端を離れているからである。…過去の極限をもたないとは、出生の時を超越しているからである。未来の極限をもたないとは、死滅の時を超越しているからである。
…《引用終わり》


《以下引用》…
まさにこの同じ法身が、輪廻生存の苦悩を厭い、あらゆる欲望の対象から解放され、十種の究極・完全なる行(十波羅蜜)にまとめられる…徳目の集成(法蘊)を身につけるべく、修行を実践しつつあるとき、菩薩と呼ばれる。
さらにまた、…この同じ法身が、すべての煩悩の蔽いからすっかり解放され、すべての苦悩をのりこえ、すべての付随的煩悩の汚れを取り除き、…すべてのものに対する自在力を達成したとき、…如来(如来応正遍知)と呼ばれるのである。
それゆえ、…衆生界と法身とは別異のものではない。衆生界こそは法身にほかならず、法身こそは衆生界にほかならない。
…《引用終わり》


《以下引用》…
衆生界にも三つの特質があって、すべて真実にして、真如と異ならず、無差別である。
…《引用終わり》


その三つとは…
1.如来蔵は、清浄なる諸徳性といつはじまったとも知れず共存し、かつ、それと本質的に結合する性質のものである。
2.如来蔵は、煩悩の蔽いという清浄ならざる諸性質といつはじまったとも知れず共存しているが、それと本質的には結合していない性質のものである。
3.如来蔵は、未来永劫に堅固不変な本性はある。

般若心経にも「不増不減」という文言がありますが、かくも深い意味があったんですね…

《つづく》

ブログネタ
哲学 に参加中!
「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの著作」の「1中論」の「第9章」まで読みました。各章、好きな一文を抜き出します。

第一章.原因(縁)の考察
1.もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他のものからも、〔自他の〕二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。

第二章.運動(去ることと来ること)の考察
1.まず、すでに去ったもの(已去)は、去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>(去時)も去らない。

第三章.認識能力の考察
6.<見るはたらき>を離れても、離れなくても、<見る主体>は存在しない。<見る主体>が存在しないから、<見られるもの>も<見るはたらき>も、ともに存在しない。
8.<見られるもの>と<見るはたらき>とが存在しないから、識など4つ(〔識〕のほか、感官と対象との接触〔触〕、感受作用〔受〕、盲目的衝動〔愛〕)は存在しない。故に執著(取)など一体どうして存在するであろうか。
※眼(見ること)のみならず耳・鼻・舌・身・意も同様である。


第四章.集合体(蘊)の考察
4.物質的要素がすでに〔以前から〕存在するのであるならば、<物質的要素の原因>なるものは成立しえない。また物質的要素がすでに〔以前から〕存在しないのであるならば、<物質的要素の原因>なるものは、やはり存在しえない。

第五章.要素(界)の考察
6.有(もの)が存在しないとき、何ものの無が存在するだろうか。有とも異なり、無とも異なる何人があって有無を知るであろうか。

第六章.貪りに汚れることと貪りに汚れた人との考察
10.こういうわけであるから、<貪りに汚れること>が<貪りに汚れている人>と倶に成立することはないし、また両者が倶にならないで〔別々に〕成立することもない。<貪りに汚れること>と同様に、一切のことがらが倶に成立することもないし、また倶にならないで〔別々に〕成立することもない。

第七章.つくられたもの(有為)の考察
34.あたかも幻のごとく、あたかも夢のごとく、あたかも蜃気楼のようなものであると、譬喩をもってそのように生起が説かれ、そのように住が説かれ、そのように消滅が説かれる。

第八章.行為と行為主体との考察
12.行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない。

第九章.過去の存在の考察
7.もし一切の見るはたらき等よりも先なるものが存在しないならば、どうして見るはたらき等の一つ一つよりも先なるものが存在しようか。

《つづく》

↑このページのトップヘ