トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:夢

余りにも使い古されたダジャレですが、クリスマスは苦しみます。サンタクロースというのが、本当に悩みの種。

欲しいものが何なのか分からないので、おもちゃやさんに連れて行ったりするわけですが、目移りしてなかなか決まらない。「これがいい」とすんなり決まったとしても、サンタ名義のプレゼントだと子どもの前で買うわけにもいかない。

今回は、妻が子どもたちの目をそらしている隙に私が離脱して、サンタ名義のプレゼントを買い、車に隠してから、何食わぬ顔で合流するという方法を取りました。

「パパ、どこに行ってたの?迷子になったらダメでしょう!」とか、言われながら…

人に見られないように行動するというのは、何か悪いことをしているみたいで、そのスリルは多少快感ではありますが、何かと忙しい年末には面倒くさいくなります。本当のことを言った方が楽なんだけど…

熟睡したところ見計らって、枕元に置く。これでサンタの任務終了…

2011/12/24 23:45:54
サンタクロース作戦完了(^-^)v おやすみなさい…


翌朝は、娘に起こされました。「パパ、サンタさん来たみたい…」嬉しそうに言いました。

「中身、見たの?」と私。「まだ見てない」と娘。

中身を見る前に私を起こしたところが、何だか嬉しかった。やっぱり、まだバラさないでおこう。
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「空海の夢」(春秋社)
「1.空海の夢」を読みました。

この本の初版は1984年です。発刊後すぐに松岡正剛さんが新聞に取り上げられまして、大きなテーマを広く深く取り扱う人という感じで紹介されていました。何となく興味を持ちまして、買ったのがこの本です。

いつか読もうと思って、書棚に飾っておりました。その間、空海に関して現在のような特別な関心はありませんでした。2度の引っ越しを経て、ブックオフしてしまいました。その直後、空海という人に関心を持ちました。半生を一緒に過ごしながら全く関心を持たず、手放した瞬間に関心を持った…と書くと大袈裟ですが、他愛のない話です。

先日、第3版を書店で見つけたので、思わず買いました。帯にある引用文を引きます。
《以下引用》
…『空海の夢』という書名の意図には、当時の空海自身が見たはずの夢も含まれる。しかしここでいう夢とは、空海その人の夢のことだけをさしているわけではない。そこには、その空海自身の夢を後世の明恵や、高野山に入った西行や、空海の遺誡でめざめた叡尊や、まさに母国語の研究に熱中した高野山の契沖や、さらにはずっと後の空海研究者や現在の私や、また本書を読む読者が、ときに互いが互いの夢を見あいながら何かを織りなしあっているという、いわば空海を媒介にした相互作用の構造が立ち上がっているはずなのである。
…《引用終わり》

このブログを介して、私もその相互作用の中に加わっていけたら…と思います。

《続きを読む》
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理不尽を満載した漂流船の中で、彼を救ったものは信仰という虚構…

近代的合理主義のもとに構築されているはずの今日の社会なのですが、空海の時代にも増して理不尽な気がする。

しかし、理不尽の「理」とは飽くまでも人間の「理」。他の動物・植物・無生物の一切合財を含めた総合的な「理」は、人間の「理」とは程遠いということなのでしょう。つまり、人間が人間の「理」にこだわるうちは、理不尽の苦しみから逃れることはできない。

総合的な「理」とは、仏教で言うところの「法」にあたるでしょうか。法を人は完全には理解しえない。その法に立脚して現実という現象が起きている以上、現実が理不尽に見えないのはむしろおかしい。また、人が理不尽の無い社会を創ろうとすることなど、思い上がりもはなはだしい。

とすれば、尽きること無き理不尽といかに付き合うか…方策があるとすれば、それは、やはり、虚構ではないか?

この世の「理」と人間の「理」との間の乖離構造、これが理不尽を生み出すならば、この乖離を「あそび」と捉え、そのすきまで許される自由を存分に生かして、自分だけのストーリーを描いてみる。

夢を抱き、その実現を自分が担う必然性を作り、実現を願い続ける。人生の出来事、良い事も悪い事も、その夢の実現のための糧であると敢えて誤解し、ストーリーを膨らませていく。

そうすれば、日常の何でもない小さな出来事にも、いろいろな意味づけができてくると思う。喜怒哀楽の振幅も大きなものになっていくだろう。

それが、理不尽の荒波を超える力となるのではないだろうか…漂流から長安までの空海の生き方を見て、そんなことを感じた。
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漂流する船の中で人々が絶望に包まれる中、空海は自分の目標を捨てず、「自分が大きな使命を負っている以上、自分が助からないわけがない」という確信を持っていた。「自分が助かる以上、この船に乗っている人たちも助かる」

これは事実かもしれないし、司馬遼太郎の虚構かもしれません。でも虚構なら虚構で、それが司馬遼太郎のものであるならば、検討する値打ちがあります。

山などで遭難しても助かる人というのは、「ここで死ぬわけにはいかない」という強い意志があって、何とか生き延びる方法を考え出すわけです。それに救助が間に合えば…という「運」の部分もありますが、これは足し算ではなく掛け算のような気がします。つまり、いくら運が良くても、意志がゼロならば助からないのではないかと。

強い意志をもたらすものも「虚構」…僧侶であるならば「信仰」という言葉になるかもしれません。でも僧侶に限らず、一般化できる話です。

遣唐使船のように漂流する現代社会において、力強く生きていくにはこのような「虚構」が必要なのではないでしょうか?たとえ何も立たないような地面でも、たとえ何も手にしているものが無くても、「虚構」ならば立てることができるし、創りだすこともできる。


どんな小さなことでもいいから自分の夢を決めて

それが頼りなくて消え去りそうなら

言葉にして呪文のように唱えてみればいい

何度も何度も…毎日毎日…

その夢に夢中になるまで続ければいい

何もないところに取りあえずこじつけで決めたような夢でも

いつしか自分を支える強い柱になるはずだ

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