トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:唯識三十頌

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「三.個体の存続と輪廻転生」を読みました。

世親の『唯識三十頌』の第十八偈と第十九偈です。

識はじつに一切の種子を有するものである。その転変は更互の力から、あのよう、このように行われる。それによって、あれこれの妄分別が起こる。(第十八偈)

業の諸習気は、二取の習気に伴なって、まえの異熟が尽きたときに、他の異熟たるそれを生ずる。(第十九偈)

《以下要約》
われわれが自身と考えている存在、つまり生れてから死ぬまで自己同一を保っているとみなされている個体は、刹那ごとに生滅を繰り返す識の継起したものにすぎない。

それが自己同一を持つように見えるのは、アーラヤ識が自体や感官となる諸要素をまとめ、統べているからである。

身体とか感官といわれているものは、過去において仮構して、物質と考えたことの習気であり、それがアーラヤ識の実質を構成している。

アーラヤ識は刹那ごとに、習気(種子)を顕勢化するはたらきと、顕勢化した対象意識の習気を受けるはたらきを繰り返しつつ、次の刹那の識をつくりあげては変化しつつ継起する。

顕勢的な識の継起は、汚れたマナスという自我意識と、対象分別としての六識との、各刹那における顕現にほかならないが、そこに連続性があるごとくに見られるのは、アーラヤ識のはたらきであって、決してマナスや六識のはたらきではない。

刹那ごとに次の刹那に影響を与える力は、潜勢力(行)と呼ばれ、業とも言われる。各刹那の識の性格は、この業によって決まる。

業の影響力が刹那ごとに顕勢化することなく、一定の量に達した時、刹那ごとの変化とは異なったドラスティックな大変化が起きる。それが死である。

そのような潜在力もアーラヤ識のなかに種子として貯えられ続け、飽和状態になったときにアーラヤ識のまとめる力を超え、個体としての統一性は失われる。

こうしてひとたび分裂しても、識としてのはたらきはつづき、習気の条件しだいで、次の生に転生する。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「二.識の機能」を読みました。

世親の『唯識三十頌』の第三偈です。

そして、それ(アーラヤ識)は感知できない執受と住処との了別を有し、つねに触と作意と受と想と思(という五つの心作用)に伴われている。(第三偈)

《以下要約》
アーラヤ識も識であるかぎりは、所縁があり行相があるはずですが、潜在的に機能しているので、通常の六識のように顕著なものはありません。それを「感知できない」と言っています。行相は「了別」作用、「執受」と「処」が所縁となります。

例えば、眼識ならば、眼根を所依として、色を所縁としてはたらく作用です。行相は「見る」。

「執受」とは、アーラヤ識によって了別された形(つまり、所縁としての形)でいうと、個体存在としてまとまったいるもの。すなわち、各種の感官(根)とその土台(所依)となる身体(「有根身」と『成唯識論』では訳される)と、その個体に付属しているとみなされる各種の精神作用(「名」と呼ばれる)の二つです。

アーラヤ識は、有根身と名を合せたものを、まだ「我」だと意識するわけではないのですが、ひとつのまとまりある個体であると認識します。

しかし、唯識の理論では感官を具えた身体は外界に実在しないと考えるので、それは我および、その個体にかかわるかぎりの諸法を分別(=了別)する機能(これは汚れたマナスと六識の作用)が引き起こした習気にほかならない、と捉えます。

アーラヤ識はかつて自ら現わし出した像の習気を素材として次の認識活動行っています。言わば識の自己生殖であり、これが「識の転変」です。

もうひとつの「感知できない所縁」である「処」(住処)は、自己自身以外の外界と通常われわれが考えている存在です。そのうち他人の個体を「有情世間」それ以外を「器世間」と言います。

これも色などとして妄分別した習気として、アーラヤ識の中に貯えられたものです。

執受と処は内か外かの違いで、両者を合わせれば一切の「名色」となります。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「マナスの役割」まで読みました。

前節に、転変という概念は、識と対象の相互関係と、時間的前後関係の全てを同一語で説明できるところが素晴らしいと書いてあるので、メモっておきます。

さて、世親の『唯識三十頌』の第五偈です。第二種の転変としての「思量」のはたらきについてです。

意(マナス)と名づける識が、それ(アーラヤ識)に依止し、それ(アーラヤ識)を所縁として起こる。(これは)思量を性とするものである。(第五偈)

《以下要約》
この「マナスと呼ばれる識」が独自の認識作用を起こす拠り所はアーラヤ識(にある習気)になるのですが、マナスの認識機能はアーラヤ識を認識の対象としています。

つまり、マナスは、アーラヤ識を「我」アートマンだと誤認するはたらきをしているということです。このマナスこそ自我意識にほかなりません。

『中辺分別論』では「我としての顕現」と表現していました。
《以上要約…詳しくは本書参照》

(このマナスは)四種の有覆無記性の煩悩につねに伴われている。(四種の煩悩とは)我見と我癡と我慢と我愛である。(第六偈)

《以下要約》
・我見(がけん):有身見ともいい、我があるとする見方。
・我癡(がち):我に関する無知。
・我慢(がまん):「私はなになにです」と思うこと、およびそれによって心が高ぶること(慢)。
・我愛(があい):我が身可愛やという思い。

この四つは修行の妨げとなる煩悩ですから、これを伴っているマナスは「汚れたマナス」と呼ばれます。そのことが「有覆」(覆われた)という言葉で示されます。しかし、善悪とは直接には規定できないので「無記」です。

アーラヤ識は煩悩の心作用は伴われていないので、「無覆無記」と規定されます。

「汚れたマナス」は、さとりにおいても出世間の修行道においても(無漏ですから)機能しません。無意識の状態でも、汚れているかいないかに関わらず機能しないはずですから、「滅尽定」においても機能しません。しかし、定に入る前後の意識の連続性はアーラヤ識によって保たれることになります。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「アーラヤ識の役割」まで読みました。

世親の『唯識三十頌』の第二偈です。

(三種の転変とは)異熟と、思量と称せられるものと、境の了別とである。そのなかで、異熟とはアーラヤとよばれる識のことで、一切の種子を有するものである。(第二偈)

《以下要約》
安慧の注釈によれば「転変は因の場合と、果の場合に分けられる。因転変は、異熟の習気と等流の習気がアーラヤ識のなかに成長すること。果転変とは
異熟習気がはたらきを得るので、前世の業の牽引が成満したとき、アーラヤ識が他の個体(衆同分)として生ずること、
等流の習気がはたらきを得るので、各種の転識(六種の対象を了別する識)と、染汚の意(すなわち思量のはたらき)がアーラヤ識から生ずること、
である。」とされています。

異熟とは、因と果の性質が異なる関係。善因楽果、悪因苦果というような道徳上の因(善悪)と果(無記)の関係。

等流とは、因と果が同じ性質の場合。刹那刹那の識と識との関係。アーラヤ識⇔思量・了別の作用との間ではたらくもの。その性質は善悪とは無関係の無記なるもの。

了別の機能をもつ六識には等流の習気と異熟の習気の両方が有り得るが、思量のはたらきはただ等流の習気だけを残す。異熟か等流かは識に伴う心作用によって決まることで、識自体は無記。

習気とは、ある作用があったとき、その残す力のこと。次刹那の作用を引き起こす力を持っているので、植物の種子に例えて「種子(しゅうじ:ビージャ)」と呼ばれる。

アーラヤ識はこうした種々の習気の貯え場所(アーラヤは蔵、倉庫)。種子の集合体。アーラヤ識は、顕勢となっていない状態で刹那ごとの相続を続けるので、潜在意識とか深層意識と言っていいだろう。

アーラヤ識は、善悪どんな性質の顕勢態の識の習気を受けても、それ自体は無記であるので異熟だということになる。

アーラヤ識は、輪廻転生におけるある種の連続性(結生相続)を説明すべく仮定された原理、と言える。つまり、過去世の善悪の業の習気の担い手。

また、アーラヤ識は、生まれてから死の瞬間まで、自体を一つにまとめ維持して、個体としての同一性(衆同分)を存続させる役を担っている。この、身体をまとめ維持して個体の存続を成り立たせる機能をアーダーナ(執持)と呼ぶので、アーラヤ識はアーダーナ識とも呼ばれる(『解深密経』)。
《以上要約…詳しくは本書参照》


《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「三種の転変」まで読みました。

この章は、虚妄分別が依他起であるメカニズムについて、世親の『唯識三十頌』から読み取っていきます。

どんな種類の我や法の想定(仮説)が行われるとしても、じつに、それは識の転変においてである。そして、その転変は三種である。(第一偈)

《以下要約》
「転変」とは、安慧(ステイラマテイ)の注釈によれば「因の刹那が滅するのと同時に、果が因の刹那とは異なって生ずること」とされています。言わんとしていることは、まず、我法を想定する識と我および法という想定されるものとの間の同時成立と相互影響ということ。もうひとつは、刹那生滅の識の刹那ごとの連続(相続:サンタティ)。このふたつを転変という一つの言葉で表現することで、「縁起」を説明しようとしています。

『倶舎論』では、すべての法は刹那滅で断絶しつつ接続しますから、色法(たとえば身体を構成する諸法)は色法でそれぞれ転変しますが、唯識の理論ではこれが認められていないので、諸法の成立を識との関係でだけ説明しています。(本書に図示)

識の転変の三種とは…
(1)異熟としての転変:主体はアーラヤ識:因としてのアーラヤ識のはたらき。
(2)思量としての転変:主体はマナス:その識の顕現としてのマナス。即ち自我意識。
(3)対象の了別としての転変:主体は六識:「了別」と呼ばれていた六識。

(2)は「我」の観念をつくりだす。(3)は六境に分類される法およびその観念成立の入口たる六根(正式には意根を除く五種)なる法を認識し、判断するはたらき。そして(2)(3)は共に(1)のアーラヤ識からの転変。

識の転変は、アーラヤ識と、思量および了別という二種の転識(現に機能している識)との間の相互関係であり、識の内部での相互作用ということになります。が、刹那ごとの識の連続性(同じ性質が刹那を超えて持続すること)はもっぱらアーラヤ識に託されていると言えます。
《以上要約…詳しくは本書参照》

マナスの連続性とは「自己同一性」のことかもしれません。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ