トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:哲学

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「○○としての仏教」という記事を書いてから、7年も経とうとしています。仏教に含まれる内容の幅の広さについて書いた記事です。

例えば「ぶっちゃけ寺」という番組があります。日本史への興味関心から嫌いじゃない内容ではあるのですが、何か違和感を感じてしまって視聴し続けることができません。もちろん、この番組も「仏教」には違いないのでしょうが、私が「仏教」に求めているものとは違う。

また、「葬式仏教」と揶揄する言葉があります。一般の人が仏教と接するのは死者を弔う時に限られるような現状ですから、仕方のないことかもしれません。これも、私が求めている「仏教」ではありません。

私が「仏教」に向き合うことにした理由、それは般若心経の中の「照見五蘊皆空度一切苦厄」だったような気がします。もっと絞れば「度一切苦厄」。生老病死という苦しみから救われる方法、他者を救う方法を見つけることを仏教は目指している!…と発見したのがきっかけです。

そして、今年に入ってから心理学の本を読むようになりましたら、その中に自分が仏教に求めていたものがあることに気づいたのでした。

ケリー・マクゴニガルさんの三部作(勝手に選定:「Yoga for Pain Relief」「Willpower instinct」「upside of stress」)を読むと、「呼吸法」「瞑想」「欲望のコントロール」「一日一善」等々、順不同で思いつくまま羅列しましたが、仏教の修行法とダブるものが多々あります。

仏教は長い歴史の中で、修行者の能力開発法を見つけ、ノウハウを蓄積していったのでしょう。心理学は科学的な実験によってその手法の数々を見つけ出しています。両者を結び付けていくことで、仏教の修行にもエビデンスを付け加えていくことができるような気がしています。

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NHK「爆笑問題のニッポンの教養#86」(10月6日放送分)を見ました。哲学の永井均先生でした。哲学的に「私」を考えるというのはよくあることです。仏教的アプローチのほうが奥深くて、西洋哲学的アプローチはどうも新鮮味に欠ける。

この番組を見て「私」について考えているときに、別の番組(「ザ!世界仰天ニュース」)でひどいアレルギーの体験談をたまたま見ました。アレルギーは、「私」という国境を警備している兵士が、敵でも味方でもない相手に対して猛攻撃をしかける病気です。この医学的「私」のほうが、哲学的「私」よりもずっとずっと示唆に富んでいるように思いました。

番組で紹介されていたのは、餃子やカレーが大好きでいつもたくさん食べていた人(それぞれ別の人です)が、ある日突然アレルギー症状が表れて、大好きな物が食べられなくなったというものでした。大好きな物ですから、そんなこと知らずに大量に食べてしまって、ショック死寸前のところまで行ったそうです。

何らかのきっかけで、免疫系の「敵」を判断する基準が変化することがあるということです。それで気づいたのが白髪染め。注意書きを見てみますと、使用前にパッチテストをするように書いてあります。これ、その商品を初めて使う時だけではないんですね。よく読むと、「使用する際は毎回必ず」と書いてあります。免疫系のこの恐ろしい変化は日々起こる可能性があるということです。

ウィルスや細菌、化学物質など、いろいろなものに私たちの免疫は攪乱され、揺らぎながらも「私」を守り続けています。膠原病などの自己免疫疾患は、そんな危うい運営状況の中で敵味方の区別がつかなくなって起きてしまうのでしょう。

境目の無いところに無理に打ち立てた「私」という独立国。自己同一性は常に揺らいでいます。心の中の「私」も、体の中の「私」も。

《つづく》

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今読んでおります「犀の角たち」では、科学の世界で起きた「神の視点」から「人間の視点」への移行について描かれています。ドキリとする捉え方ですし、ワクワクしながら読んでおります。ただ、「神」についてちょっと気づいたことがあります。

大雑把に言うと、科学史において最初に立てた理論を「神の視点」によるものとし、実験によって変更・矯正されたものを「人間の視点」によるものとしています。前者から後者への移行を堕落と捉えれば、科学は下降していく傾向にあるというものです。

「堕落と捉えれば…」というところに、「最初に立てた理論が崇高なものとは必ずしも言えない」という含みがあるように思います。最初の出発点となる視点、即ち「神」とは、言わば原始的な崇拝対象(ちと言い過ぎかな)でありまして、それが高い位置にあるとは必ずしも言い難い。

「神」には唯一絶対の全知全能な存在という意味もありますが、少なくともこの本ではそういう神を指しているわけではなさそうです。そういう神を想定して理論を打ち立てたら、科学としてどうしてもつじつまが合わなくなってしまったという例を、列挙したのがこの本と言えます。

* * *

私はこれまでこの「堕落」を、合理論から経験論への移行だと捉えてきました。もともと高い位置には居なかったから、「堕落」すなわち「垂直下降」ではなく「水平移動」。昔より物事を精細に見れているという点では、下手すると「垂直上昇」かもしれない。出発点となった「神」は、むしろ低い位置にいる…

合理論は、「人間の理性は神に近いものであり、真実を理解する能力を持っている。ゆえに人間が正しいと感じる物は、正しい。」という感じの考え方だと思います。

でも、人間は誤解を繰り返してきました。「人間は経験から学ばなければ何も分からないんだ。」という感じの考え方が生まれて、それが経験論だと思います。

合理論と経験論が現代哲学においてどう扱われているのかは全然知りませんが、実験によって理論を矯正していくという手法は正に経験論です。最近はコンピュータによるシミュレーションで仮想的な実験を行い、理論を構築したりもしています。人間の理性には限界がある、というよりも、かなり御粗末なものであるということが分かってきました。

* * *

まだ、半分しか読んでません。最後まで読めば気が変わるかもしれません。

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結婚前に妻と話したことについて前にも書いたことがありますが、今でも思い出す言葉があります。

「絶対にバレない嘘ならついても構わない」

「浮気しても、バレなきゃいいってこと?」と聞くと、
「うん、だって同じでしょう?」
…絶対バレない嘘なら本当と同じ、という意味です…

その時は、面白いことを言う人だと思いました。でも、最近、深い言葉と思っています。(どっちかが不倫したということじゃないですよ!念のため)哲学的に深いということです。

客観的観察とはかなり主観的らしい。それは、影絵から元の姿を想像するようなもの。だから、同じものを見ていても、人によっていろんな姿を思い浮かべてしまう

こうなると、嘘が成立しない…

「黒を白と言う」という責めも、「黒は何か。白は何か。」という認識がバラバラな中では成立しません。嘘だとしてもバレることはなさそう。

…形而上学の世界では嘘はバレない?

ならば、相手に信じてもらえること、そして相手を幸せにすること、(つまり、バレてもいい嘘)を「本当」にすればいい。これは仏教的な「方便」を意識して書いているんですが、サンタクロースとか「千の風」とかが分かりやすい例かもしれません。

これは飽くまでも哲学的な話です。バレない嘘をつく野心は毛頭ありません。バレてもいい嘘とか、バレた方がいい嘘だけつくことにしています。女の勘には勝てませんから。

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第17章「新しい「人間の運命」の始まり2」を読みました。

《以下引用》…自然の征服に見られる長足の進歩も、それに呼応する道徳的な発展がなければ、わたしたちが当然望んでいる幸福をもたらすことはないだろう。現代社会において、この道徳的発展は、合理的なもの―科学―と、非合理的なもの―信仰―すなわち予測可能なものと予測不能なものとの統一や調和のうえにのみ成り立つ。それはまた、物質と精神とのさまざまな関係の解明、および自然進化において本能の奴隷となっている動物と、自由にふるまえる人間との役割の区別のみを土台として成り立っている。こうした解明や区別こそが本書の目的であり、そのためにわたしたちは、進化の未来が人間の手中にあること、そしてそれが精神の未来と同一であることを明らかにしてきたのである。
 このような考察は、すでにふれたように、少数の人々にとっては役立つだろうが、無意識のうちに基本的、絶対的、超人的な真理を求めている大多数の人間を満足させるにはいたらない。今後も長いあいだ人間は、平均的に見るならば、日常生活のおこないと、進化において責任ある行動をとるという任務とを調和させることは不可能だろう。
…《引用終わり》


この著者は「このような考察」をしてきたわけですから、「少数の人々」に自分が属すると思っているのでしょうが、「無意識のうちに基本的、絶対的、超人的な真理を求めている大多数の人間」の方に属しているように私には見えます。

道徳というものが大切であることに異論はありませんが、宇宙の中ではとんでもなくちっぽけなローカル・ルールであることは疑いようがありません。人間の歴史という時間軸で見つめても、その時代時代に通用するものをその都度作るべきもので、要するにローカル・ルールであることに変わりはない。

ただ、その中から、普遍的な要素は抽出できると思います。それを土台として、時代に合わせたリフォームを繰り返していかなくてはいけない。だから模索する人間の苦悩は永遠に続くことでしょう。でも、うまく抽出することで、その苦悩を最小限にすることはできるんじゃないかな…と思います。

科学者の割には宇宙的視野が狭いように感じるのですが、考えてみるとこの本はガガーリンの「地球は青かった」よりも昔に書かれているわけだから、仕方がないのかもしれません。まだ天動説を信じているということは無いにしても、ガガーリンの後に、地動説は格段に説得力を増したでしょうから。

《つづく》

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第16章「新しい「人間の運命」の始まり1」を読みました。

《以下引用》…まずはじめに、否定しがたい五つの基本的事実が存在することを確認しよう。それは、
1.ごく単純な有機体によって代表される生命のはじまり
2.しだいに複雑な形態へと向かう生命の進化
3.最終的には人間とその脳へいたる進化の長いプロセス
4.思想と道徳的、精神的観念の誕生
5.地球の各地に見られるこれらの観念の自発的、独立的な発展
の五つである。
…《引用終わり》


まあ、ここまではいいでしょうかね…

《以下引用》…しかしながら生物の進化は、全体として眺めたとき、無生物を対象にする科学とはまったく矛盾している。つまり、偶然の法則にもとづく科学のかなめである熱力学の第二法則と一致しないのだ。したがって、進化の「理由」、そして進化という事実さえも現代科学の領域には入らない。このことは、世界のどんな科学者も否定できないのである。…《引用終わり》

この人は、この辺から間違ってるかな…
熱力学の第二法則は、科学の中に多々ある法則の中のひとつでしかなく、かなめとは言えないと思います。

これを根拠に、物質と生物の間に越え難い境界線を引き、獣と人間の間にも境界線を引いたようです。人間の心の中にも境界線を引き、善と悪とを区別しているようです。

そして生物の中でこの先も進化し得るのは人間であり、人間が進化し続けるためには自分の中にいる獣(=悪)と闘わなければならない。

この区別することで成り立つ哲学は危険だと思います。区別は差別と本質的には変わりがないから、自分の中の悪と闘っているうちはいいのですが、他人に悪のレッテルを貼って闘うことにも成りかねない。この人の考えだと、「動物と闘うことは聖戦」ということにもなりかねない。

だから、著者が言うように、これから進化していくことが人間の責務であるとしても、善悪の区別から全てが始まるような哲学を選んではいけないのではないかなと思います。善悪の区別を超えた哲学が無いのなら仕方ないですけど。

《つづく》

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双面的な意味を持つ言葉「本当」。前述のように、「理想」という意味と「現実」という意味があります。「理想」とは、プラトンのイデアに相当すると思います。このイデアは、どこか遠くの崇高な世界にしまってあるわけではなくて、私たちの頭の中にあるものだと私は考えます。

例えば「馬」というイデアは、「馬」という普通名詞を理解した時点で頭の中にできる。それは、病気や怪我をしたりしていない馬、つまり理想的な馬です。馬の絵を見たり、映像を見たり、実際に動物園や競馬場(!)で見たりして、経験を積むことで更に克明なイメージになっていきます。つまり、帰納的に形成されるものです。

生物学的に個々の馬(つまり「現実」の馬)を規定するものはDNAですが、これは理想的な鋳型(つまりイデア)から作られるものではなくて、オスの半分とメスの半分をくっつける手法で作られます。だから、時間とともに「馬」も変化していくわけですし、クローンでもない限り同じ「馬」は現実には存在しません。まして、永久不変の「理想」的な馬の鋳型なんて有りえないのです。

理想から現実が作られるのではなく、現実から理想が作られる…

理科で言うなら、理論から実験結果が決まるのではなく、実験結果から理論が実証される、ということ。でも、実験では決しない分野(つまり哲学とか宗教とか形而上学的な分野)における「本当(理想)」は、自由に決められるのかもしれない。

だから…何が言いたいかというと…

最大多数(なるべく多くの人)が最大幸福(なるべく幸せ)を感じられるような考え方を、「本当」と決めればいいんじゃないだろうか?

そういう「本当」を探し出すことが、私の本願です。

《最初から読む》

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仏教が伝来したころ、全てのものが「仏教」に包含されていたことでしょう。呪術、哲学、弔い、建築、美術、その他もろもろの生活習慣などなど。当時は、「呪術としての仏教」を最も強く求めていたのではないでしょうか。

新しく興り、急速に広がっていく宗教は、呪術なのだと思います。霊感とカリスマのある人を中心に人が集まり、その人の言葉を大切にし、(比較的短期的な目先の)現世利益を実現していきます。

…尤も、それで本当に羨ましくなるほどの幸運(現世利益)に恵まれている人を、私は見たことがない。「そんなに忙しく信仰しないといけないんだったら、何か仕事してたほうが幸せなんじゃないの?」と思える人ばかりです。

だから、というわけでもないのですが、そういう初期の勢いが無くなった「古典としての仏教」を勉強する、「哲学としての仏教」を修める、ということを今年は頑張ってきました。

真言密教大乗起信論について、初歩の初歩の初歩をかじったところでしょうが、哲学として非常にしっかりした奥の深い内容であることがわかってきました。哲学として仏教は何になるのか?どういう意味があるのか?今の私の考えを書いておきます。

それは「外側から降りかかる災難や、内側から突き上げてくる煩悩に対して、なるべく動じない心を養う」ということではないかと思います。

外側から降りかかってくる災難を取り除くこと、これが「呪術としての仏教」の役割だと思います。でも、それはどうかな?と思っています。災難に遭う確率を下げることなんてできるのかな?と。少なくとも、そんなことを仏教に求めてはいけないと思っているからこそ、「哲学としての仏教」を望むわけなのですが。

内側から突き上げる煩悩も修行をすれば無くなっていく…というのもどうかな?と思っています。欲望を失った人間なんて、結局のところ腑抜けじゃないか。少なくとも現世に生きる以上、煩悩は消せないし、消してもいけないんじゃないか。

じゃあ何も意味がないじゃないか!と思う人もいるでしょうが、内外から襲ってくる艱難辛苦に対して、あたふたと右往左往するか、しっかり受け止めた上で対策をこうじるか、では雲泥の差があります。

「哲学としての仏教」が示す宇宙観・人間観を身につけることで、なるべく動じない心が養われていくように思います。その宇宙観・人間観を思い出し、なるべく自分をその中に置くための作業が読経なのかな、と。108の煩悩を取り除くというよりはしっかり受け止めるつもりで、除夜の鐘を聞きたいと思います。

皆様、良いお年をお迎えください。

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「序.内なる情熱」を読みました。自然科学をやる人は冷めた人が多いと思っていたので、なかなか情熱的な人なんだな〜と感心しました。経歴を見たら、東大の理学部と法学部を出ている。文系とか理系とかにこだわるな!と言うのも分かります。

「知る」ということは結局は脳に帰結する!という指摘は私も同感です。以前、そう思った時に手にした本が養老孟司であり、ペンローズ(茂木健一郎訳)だったのですから。

ちょっと首を傾げる比喩も多々あるのですが、それは私の文章とて同じでしょう。自称「自然哲学者」の文章を楽しんでいきたいと思います。

《つづく》

思考の補助線
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