トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:即身成仏

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「唯識入門」(春秋社)
「第六章.唯識の修行論」の「一.修行の階梯」の「さとりへの道のり」を読みました。

《以下要約》
瑜伽行派は、唯識説の完成をめざす実践の体系を『華厳経』の説く菩薩の十地説の上に位置づけ、五位の体系(資糧位・加行位・見道位・修道位・究竟道位)を仕上げました。

加行位(勝解行地とも、四種通達分とも、賢位の四善根位とも呼ばれる)の最終段階において唯識観を修した直後に唯識性に悟入し、菩薩の初地見道位を得るとされています。

このとき、無分別智が獲得され、識の機能が智のはたらきに転化します。これを転識得智とか「転依」とか「転依の転換(あるいは変貌)」とか言います。その後も修行は続いて、最後の究竟道に達して仏地に入ります。

この修行の完成までには無限の年数(3かける10の62乗)かかるとされています。これは「即身成仏」を説く密教と対蹠的見方と捉えることもできますが、菩薩は大悲心によって衆生済度のために永遠に成仏しない意と解することもできます。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》

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「空海の夢」(春秋社)
「23.マントラ・アート」を読みました。

この章は、AとBの対話形式。空海の言語思想について自由に語っているということになっています。

《以下引用》
B:一番の核心は、空海にはインドのマントラの発想と中国の文字の構想と日本のコトダマ観が混然一体となっているということだとおもう。こんな言語思想はむろんインドや中国にはなかったし、日本でもまたはじめてだった。…

A:なぜこんなことが考えられるかというと、ひとつはきっと空海が梵語も漢語も理解できたということにあるとおもう。梵語のマントラやダラニは漢訳仏典ではそのまま音写することが多い。ということはインド的マントラは中国に入って漢字の中にひそむ新しい性質をひっぱり出したということだ。古代日本の万葉仮名時代の最晩期に育った空海には、その「声から文字をつくる」というプロセスがよく見えたのだとおもう。…

B:そうはいっても、本来は果分不可説の宗教世界に果分可説の言語宗教をもちこむのはよほどのことだ。大半の仏教者が現象世界は言語にもなるが、絶対世界のサトリは言語にならないのだから大悟してもらうしかないと言っているのに、むしろ絶対世界のほうが伝えやすいと逆襲しているようなものだ。よほど真言に純粋な伝達力を認めていたのだろうか。

A:真言(マントラ)を自立させて考えていたのではないと思う。むしろ真言の一律性を最大に拡大して、身体領域から世界領域にまでおよぼした。『般若心経秘鍵』には「秘蔵真言分」の一節があるけれど、そこでは「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み、即身に法如を証す」という考え方を出して、有名なギャティ・ギャティ・ハラギャティ・ハラソウギャティ・ボウジソワカという般若心経の真言ダラニを解釈している。つまりギャティ・ギャティの音に意味をつけてしまったわけだ。空海は真言を純粋培養するというよりも、そこに徹底して意味の世界を入れるということを選んだのだとおもう。…



A:はたして空海がそのように“真言の広布”を考えていたかどうか、疑問だとおもう。一を無数にふやすというより、無数を一にするようなところを感じる。…「一は一にあらずして一なり、無数を一となす。如は如にあらずして常なり、同同相似せり」同じものをクローン的にふやすというのじゃなくて、むしろ相違のあるものを丹念に同じうさせてみるという点に、空海の意図があったようにおもう。…空海が確信していたことは真言か念仏かなどということではなくて、仮にどこかに一人の真言者がいるとするなら、その一人の世界をのぞきこめばそこは無限の真言がはじまりうるということだったんじゃないかとおもう。…
《引用終わり》

このホロニクスのような考え方は華厳経で見つけたものでしょう。畳込み積分として数式でも表現できるし、ホログラムは実際に手にすることができます。特筆すべきは、ホロニクスという概念が広まるずっと昔に華厳経があったということ、そして空海がそこに着目したということでしょう。

声や文字には、発語者が意図しているか否かに関わらず、無限の要素が含まれているということでしょうか。そう考えれば、果分可説も即身成仏も、当然の帰結として導かれてくるような気がします。

《つづく》

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「空海の夢」(春秋社)
「19.即身成仏義体験」を読みました。

《以下引用》
…では、最も大事なことを書いておきたい。『即身成仏義』において最も注目すべき個所は「重重帝網を即身と名づく」という一行であろうということだ。

重重帝網の「帝網」とは帝釈天が世界に投じた網のことである。その帝網が重なりあい、さらに重なっている。その網目のすべてには光り輝く宝珠がついている。互いの宝珠は互いに鏡映しあっている。そのさまこそが「即身」というものだと、そう空海は言ってのけたのだ。

ここで帝網とはホロニックなネットワークをイメージすればいい。どんな部分も全体を反映しているホロンのネットワークである。空海は、そのホロニック・ネットワークの一点ずつがそのままそれ自体として「即身」ととらえたのである。

この思想的直観は、本書の最後にのべるように、世界哲学史上においてもとくに傑出するものだ。そこには現代科学の最先端のフィジカル・イメージさえ先取りされている。このイメージはのちに〈華厳から密教に出る〉の章に詳説するように、もともと華厳世界観にあったものだった。華厳世界観の前にはウパニシャッドにも芽生えていた。空海はそれをのがさなかったのである。「帝網のイメージ」は密教的生命を得ることによって現代につながったのだ。

空海はそれだけで満足したわけではない。その「帝網のイメージ」が身体のコズミック・リズムと同調していることに気がつく。身体重視思想なら密教の独壇場である。空海は「帝網のイメージ」に「身体のイメージ」をぴったりと重ねあわせた。それこそは沙門空海が若くして四国の大滝や室戸岬で感得した不二の感性の理論的再生というものであったろう。
《引用終わり》

宇宙と自己存在を語る上でいろいろな比喩がありますが、網の喩えは知りませんでした。「ネット」という点でも、現代を先取りしていると言えそうです…。

《つづく》

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第五章「成仏論」の第四節「成仏への階梯」の後半と第五節「即身成仏」を読みました。

第四節後半は、十地について。三句で言うと究竟、十住心で言うと第十住心に配されていて、十の波羅蜜に対応しています。この十地も十住心と同じように階梯としてステップアップするという捉え方(顕教と密教の両方)と、高低深浅の差はないという捉え方(密教独自)があります。

第五節では、即身成仏の考え方として、理具成仏,加持成仏,顕得成仏の3つが説明されています。

現世成仏を説く聖道教と未来往生を説く浄土教の区別が興味深かったです。この本を読み始めたときに10%のところで「浄土宗は現世を諦めているような気がする」と書いたのですが、第五節で浄土教は捨此往彼と表現されているのを見つけまして我が意を得た思いです。

私が、仏教に惹かれながらも浄土宗だけでは満足できなかったところがまさにこの点です。例えば、結婚相手を自分で選べないような時代であれば、此の世を捨てる生き方も必要かもしれません。しかし、現代は違います。

興味深いところをノートに書きとめながら読み進みましたが、この本は本文はもちろんのこと註の内容も奥深く、まだまだ読み残した部分や理解できていない部分があります。何度も読み返したいと思います。

《最初から読む》

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