トトガノート

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Tag:十牛図

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

もう一つの道、神に与ることによって神のようになる道、すなわち自己認識への道はどういうプロセスを辿るのか。

例えば、学問は、主客に分かれて、知るもの(主)が知られるもの(客)に関する知識や情報を集める作業であるが、これは単に物知り(情報通)になるだけであって、知る主体である自分自身については知ることができない。それらは人間が知るべき究極の真理にはならない。

《以下引用》
そこで、自己認識への道は何よりも知るもの(主)が知られるもの(客)にならねばならないが、知る対象が転換され、自己を知ろうとしても、あなたが知るのは自分の内側で何の脈絡もなく行き交う思考と絶え間なく続くおしゃべりでしかないだろう。…だからそこには何もないと性急に結論を出し、外に向かえば、結局、過ぎ行く「世の富」を手にするだけで、イエスが言ったように、再び空のままこの地上を去ることになる。それゆえ、もう少しわれわれは内側に留まって、とりとめのない思考や感情の流れを、何の判断も下すことなく、ただ見ている必要があるのだ。すると、やがて妄りに起こるお喋り(言葉)と感情の乱れ収まり、あなたは一つに纏まって、沈黙の中へ入っていくだろう。

…この沈黙の中で、あなたがこれまで自分と見なしてきた自己の輪郭は曖昧になり、その深淵の中へと自己が失われてしまうような恐怖を覚えるであろう。というのも、あなたの個性を形成してきたものはあなたがこれまで良くも悪くも経験した心象(記憶)の集まり(蘊)であり、それが一滴の雫が大海に溶け合うようにプレーローマ(充溢)の中に消え去ろうとしているのだ。…

彼らの最後は再び彼らの始めのようになるであろう。つまり、存在していなかったものから出てきたように、やがて存在しなくなるものへと、再び戻ってゆくだろう。(『三部の教え』)
《引用終わり》

波が大海に消えていくようでもあります。

かつて、子ども手当の使い道に関する反論に使った論法にも似ています。

思い浮かべてごらん…「本当」の世界を、というのを書いたこともあります。

瞑想(止観双修)のプロセスですね。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

禅語の「父母未生以前の面目」(劉一明は「未生身以前の面目」と言う)については「瞑想の心理学」にもありました自分の肉体をいくらかき分けてみても、そこに「自分」はいない…

《以下引用》
…人間の本性が神(仏)であるにもかかわらず、父母(男女)から得た肉体にかかわり続けるばかりで、一向に「自己の本性」が見えてこない。一体、自らの本性を蔑ろにして、何になろうとも、足のサイズに合わない靴をはいているように、どこかしっくりこないであろう。誤解があっては困るが、人間は自らの本性を明らかにし、神(仏)に成るしか他になるべきものなど本当は何もないのだ。

私は端的に神に、神は私にならなければならない。もっとはっきり言うならば、神は端的に私に、私は端的に神にならなければならない。(エックハルト『ドイツ語説教』)
《引用終わり》

これは華厳経にも似たイメージです。

《以下引用》
しかし、アウグスチヌスが「私たちは神に与(あずか)ることによって神のようになるべきであるのに、神から離れることによって自分自身が神のようになろうとした」(『神の国』)と言ったように、神に成るには二つの道がある。一つは神から離れ、欠乏と貧困に我慢ならず、劣等感の裏返しに過ぎない権力志向と自己顕示欲に取りつかれた人間が、これまた彼に取り入る愚かな大衆に祭り上げられて、やがて神の如く振る舞う危険な暴君へと変貌する。もう一つは神に与る自己認識への道を通して神と成る。前者こそ、この地上のすべてを支配せんと、歴史の至るところでホロコーストを引き起こし、その代償は誇大妄想が招いた狂気の末に自ら果てた者たちだ。…

彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。(『ピリピ人への手紙』)
《引用終わり》

「神を恐れぬ振る舞い」などとも言いますね…

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
伝統的なキリスト教が混乱し、躓きの石とも言うべき処女性という概念は、女から生まれた命(肉体)が死すべきものに定められているのに対して、イエスだけではなく、われわれの中にも、女から生まれたものではない何かが存在することを分からせようとして編み出されたレトリックなのだ。素直さはときに愚直となるだけではなく、危険でもある。なぜなら、真実を見ることよりも、人を一生過誤の中に閉ざす堅牢なバリアーともなるからだ。もちろん、性を介し、女から生まれた血肉のからだは神の国を継ぐことはできないが、この朽ちるものの中に朽ちないものが隠れ住まうのだから、ことさら性、あるいは性を通して生まれてくるものを貶めることもなければ、逆に、出自を捻じ曲げて、敢えて言挙げする必要もない。そうでなければ、われわれをして終生間違った信仰に閉じ込めることになろう。「真珠は泥の中に投げ込まれても、価値を失いはしない」と言った『ピリポの福音書』の言葉を思い出してほしい。
《引用終わり》

「性」に関する箇所にやっと辿り着いたようです。

これはとても興味深い指摘です。このようなレトリックを使っているがゆえに、キリスト教の神は常に「父」と呼ばれるのでしょうか。

「朽ちるもの」の中に「朽ちないもの」が存するという形で生き物が成り立っていると説明するのであれば、肉体と魂という捉え方でいいと思います。「物」と「心」という区別でもいいかもしれない。「朽ちるもの」である肉体は、性の営みによって発生する。「朽ちないもの」はそれとは全く無関係に存在すると。

「女」という言葉を使った説明が、却って真理を見えなくしてしまったということでしょうか。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
命は尊いなどと、いかにも人間について知っているかのように大人たちは言うが(くれぐれも断っておくが、私はそれに異を唱えているのではない)、果たして後れて来る者たちに納得のいく説明ができるとも思えないし、包み隠さず言えば、あなたという存在がただ男女の成り行き、あるいは計画ミスであることも充分に考えられることだ。そして、経過はどうあれ、父母から得た身体(色身)はいずれ朽ち果てる。われわれはそれをもって自分と考えているわけだが、その始まりから他人に委ねられている自分を、果たして「私」とするだけでいいのかということだ。
《引用終わり》

「一人の人間の命は地球よりも重い」などという迷言もこんなところからきているのでしょう。

色身については本書に説明がありますが、真身の対義語です。「色」は身体のみならず物質をも指しますから、エロい意味は無いと思います。

《以下引用》
こういう自らの出自を曖昧にしているから、ときに存在の虚しさを感じ、また、逆境に晒されることにでもなれば、自己の無力を痛感し、生きる意味が分からなくなるとしても何ら不思議はない。…もしかしたら、われわれはその虚しさを覆い隠すために、人、物、趣味、地位に執着し、真に手にすべきは何かを知らず、興味の赴くまま、死ぬまでいろんなことにチャレンジしているのかもしれない。しかし、独り自分と向き合う勇気だけは持ち合わせていない。このように、われわれ人間の始まりを「男女和合の一念」と考えるのに対して、プレーローマ(本源)まで遡るところに、グノーシスの宗教(だけではないが)と、いわゆる人の道(人倫)の違いがある。その違いを鋭くついているのがイエスの次の言葉である。

イエスが言った、「もしあなたがたが女から産まれなかった者を見たら、平伏しなさい。そして彼を拝みなさい。彼はあなたがたの父である」。(『トマスの福音書』15)
《引用終わり》

「自分はカスなんじゃないか?」という絶望感。人間はこれに直面しないようではダメなんじゃないかと、最近、私は考えます。そう感じないような鈍感ではダメなんじゃないかと。…なんて書いたこともあります。今も、そう考えますけど。

女から産まれなかった者というとイエスの処女降誕が思い浮かびますが、文脈から違うということです。これについては次回も触れたいと思います。

「女の股から生まれたものはマクベスを倒せない」という言葉も思い出します。「女が産んだ者」という表現が新約聖書にあるようで、これを踏まえていることは明らかです。「女が産んだ」には自然分娩のニュアンスがあるそうで、「女から産まれなかった者」を帝王切開と解釈して、マクベスでは落ちとしています。

私も、わが娘二人も、女の股から産まれてはいません。が、「女から産まれなかった者」という言葉には、もっと深い意味があるということなのですね。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
主が言われた、「生まれた時より前に存在するものは幸いである。なぜなら、存在しているものはかつて存在したのであり、また、存在するであろうから」(『ピリポの福音書』)

…われわれが知っている自分とは、生まれてから死ぬまでの自己であり、生まれる前に存在した自己などわれわれの想像を超える。しかし、イエスはわれわれの内側には、生まれることもなければ死ぬこともない誰か、あるいは何かが存在すると見ているのだ。それはわれわれが生まれる前にも存在していたし、今も存在し、これからも変わることなく存在するものなのだ。宗教とはこの始め(生)もなければ終り(死)もない永遠なる生(まことのいのち)にかかわるものであり、多くの人がそうであるように、生まれた時より後に存在し、やがて死でもって終る生を如何に楽しく、どううまく生き延びるかなどを問題にしているのではない。
《引用終わり》

宗教とは、「生まれた時より後、死ぬよりも前のこと」に関して思い悩むことをしなくなる境地へと導くものと言えるかもしれません。しかし、その教えを広めるべく設置された施設に人々は集まり、無病息災・家内安全・交通安全・学業成就・商売繁盛を神仏に祈る…そういった事柄に全く価値を見出さない存在であるはずの神仏に対して。

何かの冗談かと思えるほどに、奇妙なことです。

悟りを得られない人、現世への執着を断ち切れない人が大多数であります。そういう人をも救わねばならない。悟ることこそが真の救いなわけですが、そこまで行けない形での救いは無いものか…そういう強い要請があり、苦悩の末に、大きな矛盾を内包した形で今の宗教は出来上がっているんでしょうね。

例えば、司馬遼太郎が「絶対的な虚構」と呼んだものがそれだと思います。そう言えば私も、「虚々実々」というタイトルで、似たようなことを書いていました。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
このように自己を認識するものは、自分がどこから来て、どこへ行くかを知っている。彼は酔いしれており、酔いから醒めた者のように自己を知るのである。彼はおのれに帰って、自分のものを整えたのである。(『真理の福音』)

…この真の自己に目覚める時、夢から覚めれば、夢はすべて消え去るように、これまであなたが見ていた幻影の世界はそこにはなく、あなたは視力を回復したかのように世界を新たに見ることになる。つまり、真の自己に目覚めることと真の知識(真理)に目覚めることは同時なのだ。私が真の自己を知ることが宗教であると言うのもそのためであるが、今日、いかがわしいものの代名詞のごとく思われている宗教という言葉を持ち出すことに、私自身あまり気が進まないが、ともあれ、宗教を自己認識への道とするならば、そこに東洋と西洋の区別もないことだけは言っておかねばならない。しかし、宗教を快く思わない能天気な人はそんな世界などありはしないと言うだろうが、違うのだ。今のあなたである限り、決して見えてこない世界であるからこそ、宗教は自己認識への道、分かり易く言えば、今のあなた(仮我)から真のあなた(真我)に至る道を説くのであり、そのためには外に向かうのではなく、自己自身に帰り、自己の内なる真実を整える必要があるのだ。
《引用終わり》

ここの文章は真我に目覚めることに関する記述なわけですが、「宗教を自己認識への道とするならば、そこに東洋と西洋の区別もない」という指摘がいいですね。

真理に宗教の別も無いはずだし、宗派の別もないはずだし…。真理を言葉に翻訳する過程での違いはどうしても生じるでしょうから、それを由来と見なせる範囲での相違は許容されるでしょうけど。

この辺りの視点を、可藤さんからしっかり吸収したいと思っています。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第五章 真知の覚(グノーシス)」を読みました。

《以下引用》
仏教に少し慣れ親しんだ人なら「真知の覚」が無著の『摂大乗論』で説かれるキー・タームであることを知っているだろう。なぜ私が敢えてこの言葉を『トマスの福音書』の副題として選んだかを言えば、グノーシスとは本来、真の知識に目覚めること、すなわち「真知の覚」という意味であるからだ。
《引用終わり》

唯識や『摂大乗論』については少し勉強しましたが、「真知の覚」という言葉は知りませんでした。まだまだ勉強不足ですね。

《以下引用》
…真知に目覚め、本源(プレーローマ)へと帰り着いたものは、世界は変わらないのに、盲人(人間)が視力を回復したかのように世界を新たに見ることになる。…

欠乏が起こったのは一者(父)が知られなかったためである。だから父が知られれば、その瞬間から欠乏はもはや存在しないだろう。ある人の無知は、闇は光が現れれば消え去るように、その人が認識すれば直ちに消え去る。そのように、欠乏も完全の中に消え去るのだ。この瞬間から姿形が見えなくなり、一者との融合の中に消え去るであろう。今は彼らの業が同じく残されているのだ。しかし、やがて一者が場所を満たすであろう。一者の内にそれぞれが自己を受け取るであろう。知識の内に彼は自己を多様性から一者へと浄化するであろう。彼は物質を炎のように呑み込むであろう。そして闇を光によって、死を命によって呑み込むであろう。(『真理の福音』)
《引用終わり》

「真知の覚」について無著はどう書いているか、見てみましょう。

《以下引用》
もし覚時において、一切の時処に、みな夢等の如くただ識(こころ)のみありとせば、夢より覚むればすなわち夢中にはみなただ識のみありと覚するが如く、覚時には何故にかくの如く転ぜざるや。
真知に覚めたる時は、またかくの如く転ず。夢中にありてはこの覚は転ぜず、夢より覚めたる時、この覚すなわち転ずるが如く、かくの如くいまだ真智の覚を得ざる時は、この覚に転ぜず。真智の覚を得れば、この覚すなわち転ず。(無著『摂大乗論』)

夢から覚めるように、どうして虚妄の世界(現実)から目覚め、真実の世界を知ることができないのでしょうかという問に対して、あなたが真の認識に達していないから、と無著も答えている。…

このように、真知の覚とは、われわれが真の認識に達するとき、いわば現実という虚妄の世界が消え去るとともに、その後から真実の世界は立ち顕れてくる、そんな体験をいうのだ。それを宗教的に覚醒の体験というが、荘子が「大覚」と言ったことはその意味をよく表している。しかし、何よりも銘記しておかねばならないことは、われわれが確かなものとして捉えているこの現実が、虚妄(仏教)、幻影(グノーシス)、大夢(タオ)であるからこそ、真実の世界に目覚めるということがあるのだ。
《引用終わり》

要は「悟り」ということでしょうが、いろいろな宗教や思想で共通点があるということは興味深いです。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第五章 真知の覚(グノーシス)」を読みました。

《以下引用》
真珠は泥の中へ投げ込まれても、価値を失いはしない。…神の子たちについてもちょうどそれと同じである。彼らがどこに居ることになろうとも、それでも、彼らは彼らの父にとっては常に変わらない価値を持っている。(『ピリポの福音書』)
《引用終わり》

これと似た例えは『如来蔵経』にたくさんありました。

《以下引用》
イエスが言った、「私は彼らのすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」。(『トマスの福音書』77)

神は至るところに存在する。人間だけではなく自然の中にも神は存在するが、それはひとえにわれわれの「見る」能力に関係している。尊いのは人間だけではなく、見るものすべてが神なるもの(神性)を顕しているから尊いのだ。人も物も利用価値があるかどうかという価値基準で動いているところに現代社会の病巣の一つがある。…

ともあれ、宗教を考える場合、尊大になるのでも、また不当に自分を蔑むのではなく、「真珠は泥の中に投げ込まれても、価値を失いはしない」と言ったイエスの言葉だけは心に留めておいて良いだろう。
《引用終わり》

目ある者が見れば、この世は全て光り輝いている…

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第四章 永遠の故郷」を読みました。

《以下引用》
宗教とは本来、外側を探し求めた末に、一つとして真に安らげる場所もなければ、移ろう時間の中に真実はないと知った者が、内側へと目を転じたところから始まる。その旅を歩み始めた者がたとえどれだけいたとしても、本質的にその旅は全く独りの旅であるだろう。なぜなら、少なくともプレーローマへと辿る旅の初めは自分自身と向き合うことになるからだ。…
《引用終わり》

「旅人は自分の家の戸口に辿りつくまでに、他人の戸口を一つひとつ叩かなければならない。…」というタゴールの言葉は「瞑想の心理学」でも引用しました。やはり、目に止まるのは同じフレーズです。

《以下引用》
…このタゴールが言う「内奥の神秘」こそ宗教が説こうとしているものであり、宗教はそれを「隠れた宝」(共観福音書、スーフィズム)、「自家の宝蔵」(禅)、「一つの真珠」(グノーシス)、「摩尼宝珠」(仏教)など、さまざまに呼んだのだ。

まことに、神は造りたもうてのち立ち去ったのではなく、これらのものは神からでながら神のうちにある。一体、真理はいずこにましますか。いずこにおいて味わわれ得るか。心の最も奥深いところにおいてだ。しかるに心は、そこからさまよい出てしまった。道をはずしたものたちよ、心に立ち帰れ。(アウグスチヌス『告白』)
《引用終わり》

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第四章 永遠の故郷」を読みました。

われわれはどこから来て、どこへ行くのか…この「どこ」は同じ場所らしい。

《以下引用》
弟子たちにイエスが言った、「私たちの終わりがどのようになるかを、私たちに言って下さい」。イエスが言った、「あなたがたは一体、終わりを求めるために、始めを見出したのか。なぜなら、始めのあるところに、そこに終わりがあるのであろうから。始めに立つであろう者は幸いである。そうすれば、彼は終わりを知るであろう。そして死を味わうことがないだろう」。(『トマスの福音書』18)

…弟子たちは…人間の究極的な安息と充溢の場をわれわれはどこに探し求めたらいいのでしょうかと問うているのだ。それに対する彼の答は、未来の何処かではなく、全く反対に、「始めに立つであろう者は幸いである」と答える。要するに、われわれが流出してきた一者(神)の充溢(プレーローマ)の中にこそ、われわれ人間が求めている究極の真理と安息があり、そこに辿りついて初めてわれわれの生は完成されるということだ。…
《引用終わり》

これは十牛図の「第九 返本還源」と同じですね。

エックハルトも同様のことを言っています。「瞑想の心理学」でも引用されていますが、このブログでは引用しなかったのでここで引用します。

《以下引用》
すべての草もまた原初の純粋性においては一である。そこではすべてのものは一である。原初の始めは最後の終りのためにある。生が一つの存在であるような生の明白な原因の内に連れ戻されない限り、生は決して完全なものとはならない。(エックハルト『ドイツ語説教』)
《引用終わり》

イスラム神秘主義(スーフィズム)の思想家モッラー・サドラー(1571-1640)は、この場所を「始源」と呼んでいます。これも「瞑想の心理学」で引用されていました

《以下引用》
存在について無知なものにあっては、魂がいかにして究極の始源に帰り行き、その旅路の最終点に到達するかについても、全く知らない。(モッラー・サドラ―『存在認識の道』)
《引用終わり》

《つづく》
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