トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:十善戒

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「飾り立ててありもしないことを口にするな」という解説が付いていました。山形の人間には余り関係ないかな…。ダニエル・カールさんが数年前から盛んに言ってくださっています。「山形の人は宣伝が下手だ。」と。「山形のおいしいものは?」「山形のいいところは?」と質問しても大抵の人が答えます。「何も無いべ〜」(これは村山地方の言葉)。彼のおかげか、最近は少し違ってきたような気がしますけど。

この戒めが大切だと思うのは、商売をするときですね。ネットワークビジネス(マルチまがい)の人は素人がゲリラ的に商売をするから余計ひどいです。健康食品ならば、何にでも即効性があるようなことを言います。私はこういう商売なので、お客さんに売ってください!と勧められることは多いのです。

皆、健康番組を見て勉強していますから「いまどきこんなセールストークを信じる人いないよ。やめときな。」と思いながらも、一生懸命まくし立てるものだから聞かざるを得ない。可愛そうになって断れなくなる人がいるんだろうな〜でも俺はそんなお人好しじゃないからな〜鍼灸師にこんなお粗末な説明するなんて随分見くびられたもんだぜ〜さて、何ていじめてやろうかな〜なんて思いながら。

同窓会に出たときもそうでした。会が終わって一週間くらいした頃、電話がかかってきました。「この前は名刺もらっただけでゆっくり話せなかったから、会って話したい」と言われました。もちろん男です。会ってみたら案の定、ネットワークビジネスでした。

その人は県内でも有数の企業に勤めており、その会社の名刺を出してから、「実はこういうのもやってるんだ」とネットワークの名刺を出したのです。私はひととおり説明を聞いた後、「商品に自信があるのならドラッグストアに頼んだり、インターネットでダイレクト販売するはずで、ネットワークビジネスの形態を選ぶのは商品に自信がないからだと思う。」と言いました。「その商品の有効成分は私が今飲んでいるファンケルのサプリメントにも含まれていて、ファンケルなら10分の1の値段だ。」とも言って断りました。

その後も彼は執拗に電話をかけてきたので、「君が勤めているような立派な会社なら就業規則で副業は禁止していると思う。君が今みたいなやり方でサイドビジネスを続けるなら、僕が言わなくても誰かが君の会社に密告すると思う。懲戒免職になってもこのビジネスにかける覚悟ができたら、もう一度電話して欲しい。」と言いました。それ以来、電話は来ません。お詫びのメールは来ましたけど。もう、同窓会にも行かないです。

山形の人はネットワークビジネスを極端に嫌うように感じます。それは、こんなふうな嫌な思いを引きずっているからじゃないかとも思います。こういう友人を持てば、こんな商売の仕方は本当に恥ずかしいものだということを知ることができます。そういう意味でも持つべきものは友???

《つづく》
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これは「正しいエッチをしましょう」という意味だと思います。ただ、「正しい」とはどういうことなのか?で議論は分かれます。たとえ夫婦同士でも余り頻繁にはするな!という解釈もあるようです。まあ、私の場合はそんな戒めが必要な年齢ではないですけど。

私は何となくストーカーのことが頭に浮かびました。もちろんストーカーはエッチまでいかないと思うので、ここには該当しないかもしれないのですが、自分の感情を常識的な範囲内におさめることができないというところが不倫と似ているような気がするのです。

人は誰しも好きになってはいけない人を好きになることがあると思います。それぞれの幸せを考えれば、自分の思いを抑えるのが一番いい場合…篤姫の幼なじみのように、相手の出世を考えて身を引かなければいけないという場合もあります。

自分の強い思い、純粋な思いをなぜ貫いてはいけないのか?なんとかして理屈をつけて納得しなければいけない。相手に特定の人がいなくて、自分が身を引かなければいけないような事情もなくて、ただ相手が自分の方を向いてくれない…という場合は、納得するのも難しいですね。「嫌よ嫌よも好きのうち」とか「押し押して押しまくれ」とか無責任なアドバイスをくれる人がいるとなおさら抑えるのが難しくなります。

プラトニックとか「忍ぶ恋」の美を解するセンスが必要なのかもしれません。相手のため、自分のため、身を引いたほうがいい場合に、愛するがゆえに身を引くというジレンマ。成就しないことによってその純粋さが証明され、純愛が成立する…つらいなあ!こんな文章がスラスラ出てくるところをみると、俺にも悩んだ時期あったんだろうなあ…こういう悩みも強烈な情熱があればこそです。昔が懐かしい…

自分のような男で手を打ってくれて、体をはって二人も娘を産んでくれた人に、とにかく今は感謝感謝であります。

《つづく》
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泥棒はするな!ということです。真言宗の十善戒に沿って話をしているのですが、他の宗派やモーセの十戒にもこれは含まれています。不殺生と同様当たり前のことなので、何をわざわざという感じもしますが、人間は魔がさすということがあるということでしょう。会計の仕事をしていた人がつい手をつけてしまったという話はよくあることです。

そもそも所有するという概念、私有財産という概念の発生とともに泥棒という職業(?)も生まれたのでしょう。宗教的な方向性として、我彼の別なく皆一緒という境地を目指すのが修行のひとつと考えているので、私有財産を前提としたこの戒めはちょっとどうかな?と思うこともないではないです。

山間の小村では、昔、物が思うように手が入りませんでした。だから、物の貸し借りは当たり前だったようです。「お醤油貸して!」とか「お味噌貸して!」とか、主婦の間では日常的なことだったようです。貸し借りを気にしない共同体意識も悪くないような気もします。

ところが、そういうところ出身の人は貸し借りに抵抗がなく、所有権というのも厳格ではないようだ!と主張する人がいました。というのは、その人は自分のアパートに帰ってみたら、知り合ったばかりの隣の部屋の人が勝手に部屋に入っていて、冷蔵庫の物を食べていたという経験があるからです。その隣人は山奥の小さな村から仙台に来たばかりの人だったそうです。

世の中いろんなことがあります。が、一般論として「泥棒はダメ」というのは基本中の基本ですね。

《つづく》
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先日、あることを考えていて、人間は他の生き物を食べない限り生きていけないということに気づきました。だとすると、「殺生するべからず」という戒めを守ったら生きてはいけない。

宗教などでもそうだと思うのですが、人間と他の生き物の間にはっきりと線を引くのが一般的です。人間は知能を持ち意識を持っているから、他の生き物とは違うのだと。この考え方は殺生戒を合理化するためにあるんじゃないでしょうか?人間の命と他の生き物の命では重さが違う。だから、なるべく殺さないように心がける程度で良く、最小限の食事のためにはやむを得ない、と納得するために。

科学の解明が進んで、生き物はDNAとかRNAとかで遺伝情報を代々伝えていく存在であることがわかりました。人間と他の哺乳類のDNAの配列もそんなに違わないことがわかってきた。そうなってくると、人間と他の生き物との間の境目がぼやけてきました。本当に私たちは大きな口を開けて食事をしていいんでしょうか?

さらに、人間が生きるために家畜を殺してもいいのであれば、自分の利益のためにアイツを殺していいんじゃないか?という理屈も出てくるでしょう。命の重さというのは、一枚の絵の値段のようなものかもしれない。考え方しだいで重くもなれば軽くもなる。

命の価値が下落すれば、人を殺したくらいで死刑になるのはかわいそうだろうという意見も出るかもしれない。逆に、悪いことした人なんか簡単に死刑にしてもいいってことでしょうという意見も出るでしょう。

でもこういう議論は本当に殺生な話。まさにこういう殺生(な議論)はするべからず!が殺生戒の本意ではないかとさえ思えてきます。この議論、当面結論は出ないでしょうから、さしあたって食事の際は、命を捧げてくれた生き物たちと手をかけて調理してくださった方々に深く深く感謝をして「いただきます」と言いましょう。

《つづく》
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