トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:利他

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地球環境問題についてと、社会保障費の問題について。それぞれシリーズとして、何回か書きましたが、どちらも根はひとつ。本質は同じ問題です。即ち、利他心の欠落

地球環境も社会保障システムも、自分の都合・利益をみんなが諦めなければ破綻します。それに気づいて、みんなが利他的行動をとれば大丈夫かもしれない。あくまでもまだ間に合えばの話だけど…

大きくとらえれば、大きなひとつの惑星に住む大半の生物たちと共存共栄の仕組みを構築できるかどうか?何千年というスケールの大きな問いかけ。正念場です。

あるいは福祉国家としての壮大なシステムを構築できるかどうか?これは何百年というくらいのスケールでしょうか。やはり、正念場です。

地球環境問題と生活習慣病の類似性については先に述べました。社会保障費に関しても、生活習慣病にならないようにひとりひとりが摂生を心がければ改善するでしょう。

そう考えると、何百年とか何千年とかの壮大な問いかけ・正念場というのも、今晩のお酒を我慢できるか?とか、目の前にあるおいしそうなケーキを我慢できるか?とか、日常的なレベルの意志の強さに懸かっていると言えます。

かすかな正念場は、常に訪れています。
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左右の体のバランスとか、背骨が曲っていないかとか、骨盤が歪んでいないかとか…気にしている人はとても多いです。「あなた曲ってますよ。」なんて言われたら、確かに気になるのは当然かもしれない。

この仕事をするようになってから思うのですが、顔でさえ左右対称の人はいないのだから、背骨だって骨盤だって左右対称ということは無いんじゃないかな?という疑問。

だから、背骨や骨盤の矯正を至上命題としている治療法が多々ありますが、もともと左右対称でないものを無理矢理左右対称にして、大丈夫なの?という疑問です。

ちなみに私は背骨の矯正をすると、手が振るえたり汗が出たりという自律神経の症状が出るので、絶対に避けています。体もその都度、たわみながらバランスを保っているのではないかと思う。そのときそのときで、多少は右や左に振れるのがいいんじゃないかと。

物事は何でも中庸がいいと言われますが、中庸というのはまっすぐな姿勢を保つようなもので非常に難しい。ちょうどいい真ん中にいつもじっと固定しているなんて無理なんだと思う。時として右に振れたり左に振れたりしながら、動いているのがいいんだと思う。

私が子供のころは日本人は皆同じで個性が無い!という批判もあって、個性重視ということになり、「自分を発見して自己実現しよう!自己主張もしっかりしよう!」と言われましたが、今となっては自己主張を奨励するなど言語道断なほどジコチュウが増えている。子どもに付ける名前を見ても、利他的な生き方など望んでいないことが伺えます。

考えてみると、「自分を発見して自己実現しよう!自己主張もしっかりしよう!」というのはずいぶん偏ったメッセージです。「自分のことがしっかりできたら、周りの人を助けてあげよう!」という部分が欠けている。

利己だけではいけない。利他だけでもいけない。強い利己主義と強い利他主義を両方もった生き方がいいのだと思う。そうすれば、そのときそのときで、利己的行動も利他的行動も使い分けることができる。

体のバランスを気にする人は多いけれど、生き方のバランスを気にする人は少ない。

《つづく》
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偈文をおぼえよう!というのをやってます。今のところ、計画どおり百字偈が終わりまして、四誓偈に移りました。百字偈の意味を追ってみますと…

勝れた智慧ある行者たちは
生死を超えて
人々の救いのために働き
涅槃(安らかな世界)に入ろうとしません。


取りあえずは自分の利益として勉強し知恵を身につけた人は、独り安楽な道に進むこともできるのですが、敢えてせずに人々の救済に努めている…という自利と利他がセットであることが大事ですね。

真実の智慧(般若)と手立て(方便)をもって
如来と自身との相互作用(加持)で
この世のもろもろの存在と生きとし生けるものを
清いものとします。


全てのものはもともとは清いものであるから、本来の姿を取り戻させよう!という考え方が示されています。

欲望の本来持っている力で世間の人々を調整して
罪悪を除き清めることができるでしょう。
天国から地獄までのあらゆる生きとし生けるものの
罪を伏せ調え(調伏)します。


欲望さえも肯定し、それらを調整することでうまくいくはずだ!という考え方。少なくとも昔の日本には有りました。

蓮の花は泥沼に咲きながらも汚れに染まらず
また他を汚すこともないように
人間のもろもろの欲の本性もこれと同じで
他の多くのものを汚すことはないし、利するだけなのです。


人間の欲望をも肯定し、それが本来の姿で発揮されれば、皆を利するだけなのだ!ということですね。

清浄な大きな欲望は
安らかで楽なものであり大きな富をもたらします。
この迷いの世界が思うままになり
生きとし生けるものの救いを堅固にします。


理趣経が一番好きなお経になりそうだな…と思っています。大きな富がもたらされることを信じて、毎日唱えたいと思います。

《つづく》

真言宗のお経真言宗のお経
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昔の人の名前には、〇助さんというのが多かったようです。佐助さんの場合は、「佐」という字にも「助ける」という意味がありますから、「人の助けになって欲しい」という願いが二重に込められています。

輔とか介は、最近もよく人名に使われているようですが、「助ける」という意味があることは余り自覚されていないのではないでしょうか?

明治期に書かれた文章だったと思いますが、「客体的」という言葉を見つけて「おやっ」と思いました。とても新鮮な感じでした。

私たちは、お客様のようにしていることは消極的で悪いことと教えられ、主体的に生きることを勧められました。

主体的と利己的は同義語ではありませんが、ひとつの生き方の表と裏の捉え方のような気がします。

客体的な生き方を時代が指向しなくなり、利他的な生き方も望まれなくなり、助さんもいなくなったのではないか?そんなふうに思いました。

「うろん語」第二巻目次(その1)を見る
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