トトガノート

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Tag:仏陀

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「釈尊の生涯」(春秋社)
「1.釈尊および釈尊伝について」を読みました。

「仏教入門」とかぶるところがあるかと思いますが、この本で釈尊の生涯を丁寧に見ていきたいと思います。

《以下引用》
それが大乗仏教になると、仏陀に関する哲学的考察がなされるようになって、仏陀には、仏陀の本質としての原理的仏陀の面(法身)と、修養努力によって完全の域に達した理想的仏陀の面(報身)と、教化し救済する相手に応じて、最も都合のよい姿をなし、特定の時代や地域に現われる具体的仏陀の面(応身または化身)との、三つに区別して論ぜられるようになった。この見方からすれば、前にあげた毘盧舎那仏(大日如来)は法身であり、阿弥陀仏は報身であり、釈迦仏や弥勒仏などは応身であるとせられる。
〔注〕
この見方からすれば、観世音菩薩も、その名は菩薩という仏陀以前の仏陀候補者にすぎないけれども、実はすでに仏陀となっているので、ただ衆生救済のために菩薩の姿をなし、相手に応じてそれぞれ三十三身等の身を現じて活動をするという。したがって観世音菩薩も応身の仏である。
《引用終わり》

仏陀とは、という最初のところで、釈尊と仏陀の違い(定義の違いというか、概念的な違いですね。釈尊=仏陀は紛れもないことです)と説明する中で、法身・報身・応身という三身説について説明しています。

この説明は他の本でも何度もお目にかかっておりまして、この本の説明が特別優れているということでもないと思いますが、自分としてしっくり来たのでノートしておきます。

《つづく》
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十無記…ブッダが回答しなかったこと。

いずれも科学的には証明できない、将来的にもできそうもない事柄です。それらにコメントしなかったということは、仏陀は科学的センスをも備えていたと言えます。

儒教も「怪力乱神を語らず」と言い、孔子も分からないことは分からないとはっきり言う人だったようです。

西洋文明が科学的センスを身につけたのがカントの辺りだったとすると、随分時間の隔たりを感じます。一様に比較はできないでしょうけれども…。

科学が当たり前になった今日、私たちはこういった問題の答えを宗教に求めがちですが、少なくとも仏教では取り扱っていないのです。

逆に言うと、こういった問題を専ら取り扱っているような宗教とか団体とかお店とかは、怪しいと考えるべきです。

さて、日常の些細なことでも、証明できないことってあります。散らかしっぱなしにしたのは誰か、みんなが使うものをどこかに置きっぱなしにしたのは誰か、相手を傷つけるような言葉を最初に使ったのはどっちだったか…

こんなことをするのはいつもアナタだ!という先入観も手伝って、防犯カメラや録音も無いとなれば、この機会にいつもの不満をぶちまけてやろう!と思うことがあります。

こっちは証明できないから付け込んでいるわけですが、相手からも付け込まれかねない弱点でもあります。だから、ついつい、語勢で押し切ろうとする…。

向きになってしまう。

無記とすべきことほど、言いたい放題だから、つい向きになって強く言ってしまいがち。これも無明スパイラルの一端のような気がします。

向きにならずに、無記でいきましょう!
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「仏陀が自分の言葉を鵜呑みにする弟子を戒めた。つまり、仏陀の教えさえも道理に基づいて考察し、各自実践し、検証すべきだ!と仏陀自身が説いた。」という逸話は知らなかったので、なるほどと思いました。仏教にふところの広さを感じるのですが、仏陀のそういう精神が反映しているのでしょう。そしてそれはダライ・ラマが指摘しているように科学にも共通しています。

デヴィッド・ボームの「全体性と内蔵秩序」は十数年前に買って一度読みました。難解で、わかったようなわからないような印象でした。ただ、量子力学と仏教の共通点に驚いたことは覚えています。でも、ダライ・ラマと交友関係があったということですから、その影響が大きかったということなのかもしれませんね…。

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