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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第二章 進化論」の後半を読みました。

「ダーウィンに消された男」という本が有りました。ウォレスのことを取り上げたものです。でも、以下のようなことならば、消されたのではなくて自然淘汰されたのかもしれない。

《以下引用》…
ウォレスは、生物のありとあらゆる形質や機能が、自然淘汰の中で選択されてきたものだと考えた。自然淘汰万能論である。この考えに従うなら、生物の体はどこをとっても、偶然にできたところなどひとつもなく、すべては自然淘汰という厳しいテストをパスしてきた最優良パーツばかりということになる。
…《引用終わり》


この考え方は「人間は最上の存在」という捉え方につながっていきます。現代の我々からすれば、「人間が最も神に近い」という結論に無理に持って行ってるような感じさえしますが、当時としては常識的だったのでしょう。ダーウィンはその視点を放棄しました。

さらに「神の視点」から「人間の視点」への移行を進めたのが、木村資生の中立論(分子進化の中立説or中立進化説)です。
《以下引用》…
「進化の過程で、DNAが変異する場合、生存を一層有利にする変化などというものはない。あったとしてもきわめて小さい確率でしか起こらないので進化の原動力にはならない。DNAの主たる変化は、その生物にとって有害であるか、あるいは有害でも無害でもない中立なものかのどちらかであって、進化というのは、この二通りの変異を通して進んでいくのだ」
…《引用終わり》


変異というのはDNAの中の分子レベルでランダムに発生することなので、その段階において、その個体の生存に有利か不利かということが関与してくるはずがありません。ここにはある意味、容易に行き来できない境界が存在します。つまり、分子レベルと個体レベルというのは、通常は全く関わりあいのない事情でそれぞれ運営されます。

また、DNAというのは蛋白質の合成手順を記したものです。「ここからここまでは顔について書いてます。お目々はパッチリ、お鼻は高めに、…」というように、具体的形質のデザインが一対一対応で書いてあるわけではありません。だから、単に「目をパッチリさせる」という遺伝子操作を行ったときに、体の他の場所(目の周辺とは限らない)に思いもよらぬ奇形が生じる可能性が多々あるはずです。

だから、分子レベルでの進化(変異と言い換えた方がいいかな…)が自然淘汰に対して全く中立(全く無関係に発生する)であることは、DNAを意識すれば当たり前なのですが、これをきちんと学術論文として最初に発表するというのは大変な偉業ですね。

《以下引用》…
木村説に従うなら、自然淘汰というのは、良いものだけを選び出す作用なのではなく、悪いものだけをつみ取る作用だということになる。良いものなどどこにもないのである。ダーウィン進化論が根本的に変わってしまうことが分かるだろうか。
…《引用終わり》


これで一応「神の視点」が無くなることになるのでしょうが、本当にこんな(ある意味)デタラメな仕組みで、かくも複雑にして精巧な生物が生まれてくるのでしょうか?という疑問はあります。

一方、解剖学を紐解けば、途中で取りやめになった道路工事みたいな場所が人間の体の中にもたくさんあるわけで、デタラメであること(人間臭さ?)も間違いはないようです。

《つづく》