トトガノート

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昨年の事業仕分けで話題になった蓮舫さんの言葉「一番になることがそんなに重要なことなのか?」

これに対してはいろいろな意見があると思います。私の耳に聞こえてきたのは「重要に決まってるじゃないか!」という意見だけでした。

そしてオリンピック。「金が取れない!悔しい!」という声。やはり、一番は重要なのか…。

それからトヨタのリコール問題が起きました。アクセルペダル問題とプリウス問題は区別すべきです。アクセルペダルのリコールが遅かったという問題は、国内で販売された車の部品と米国で売られた車の部品が全く違っていたということですから、クロなんだろうと思います。でも、プリウスはシロなんだろうと思います。運転者のABSに対する無理解や、ブレーキとアクセルを間違えたという単純ミスなのではないかと。…私の憶測ですけど。

アクセルペダル問題に便乗して、プリウス問題が米国内で急加速して止まらなくなったのは、「トヨタが大きくなるのは気に入らねえ」という感情が理由なんだろうと思います。…これも、私の憶測ですけど。

私はドイツ車を乗っていたことがありますが、ブレーキのチューニングが日本車と違っていて、とても怖い思いをしたことがあります。ドイツ車に詳しい人に聞いたら、「(そのメーカーの車は)そうなんだよ。」と言われてビックリ。アメ車に乗ってる人からは、「アメ車はもっとひどいよ。燃料のメーターも当てにならないよ。」と言われて2度ビックリ。だから、アメリカで会った技術者は殆ど皆が日本車を乗ってたんだな…と納得したのでした。

だから、安全性において、トヨタがアメ車に負けるなんて信じられない。というか、信じていません。オバマ大統領が鳩山首相に抱いているのと多分同じくらいの不信感を持っています。

要するに「出る杭は打たれる」

そこで、「一番になることがそんなに重要なことなのか?」という言葉を再び思い出したのでした。

蓮舫さんへの反論は、研究開発で一番にならなければいけない、そうしないとその分野で一番になれない、ということでした。それは結局どういうことかと言えば、一番になれないと一番儲けることができない、ということです。

もちろん、銅よりも金、銀よりも金、金メダルは確かに価値があります。でも、それはモチベーション・アップのための方便で留めておかなければいけないと私は思います。一番になることが最終目標になってはいけない。一番を狙うという利己的努力・研鑽の先には、自他不二の境地に立った別の目標がなければならない。

その視点に立てば、国外企業への妬みもなくなるでしょうし、そもそも競争も無くなってしまうわけです。それが一番無駄を省くことにつながるんでしょうけど。

鳩山内閣の存在が重要かどうか、みんな分からなくなっています。事業仕分け第二弾の行方を見守って、内閣を仕分けしたいと思います。
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ブログネタ
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「ザ!世界仰天ニュース」で、高松市議会議員岡野朱里子さんに関する内容(2月24日放送分)を見ました。例によって、よその家で。

拒食症を克服して市議会議員にまでなった岡野さんですが、固く閉じた心を開かせた最初のきっかけはオーストラリアの精神科医の一言でした。

「犯人捜しをするのはやめよう。君が悪いのでもない、お母さんが悪いのでもない、社会が悪いのでもない。今の君にとって最善の未来だけを見つめて生きよう。死ぬ前に…生きているうちに僕の前に現れてくれてありがとう。」

…というような言葉だったと思います。異国の人が異国の言葉で語りかけたのも良かったんでしょうね。日本の街角で突然出会ったオジサンにこんなこと言われたら気持ち悪いね。

結局そうは言いながらも、心を開いた朱里子さんは、幼いころにトラウマとなっていた母への不満をぶちまけるようになります。つまり、お母さんのせいになってしまいました。親を責める娘ほど怖いものは無いと思うのですが、それを真っ向から受け止めて耐え続けた母…すごいですね。

そんなわけで、キーワードのようで全然キーワードではなかったのが前掲の精神科医のセリフです。でも、なぜか、私には感動的に響きました。

犯人捜しをするのはやめよう。誰のせいでもない。もちろん、あなたのせいでもない。

別に悩みがあったわけでも、誰かを責めたり、自分を責めたりしていたわけでもないんですが、このフレーズを頭の中で繰り返すだけで心がグーッと緩んでいくような感じがしました。

現代社会では、問題が起こると、まず責任論から始まります。誰が悪いのか?

トヨタの問題でもそうでした。リコールの決定権はアメリカにあったのか、日本にあったのか。アメリカは、日本のせいであることを強調します。

思えば、竜馬の時代、幕府との交渉で、ペリーは幕府側の責任者が誰なのか不明確だと不満を言ったそうです。江戸幕府という組織では、責任の所在が明らかでなかったようなのです。

これは、未発達の組織であると言えるかもしれません。少なくともペリーはそう思っただろうし、今日の先進国の人々もほとんどがそう思うでしょう。

でも、責任の所在を明確にするということは、「責任者」が他の人に責任転嫁できなくなるということではありますが、「責任者」に責任者以外の人が責任転嫁する行為でもあります。「責任者」のせいにだけしてしまっていいのか?という良心の呵責のようなものが、幕府の組織としての発達を阻んでいたとは言えないでしょうか?

「だれかのせいにする」ということはビジネスの上では重要なのですが、病んだ人を癒すときにはタブーなのです。この「せいくらべ」が得意だったペリーの国と、「せいくらべ」が苦手だった江戸幕府の国とで、どちらが良い国だったかは一概には決められないように思います。

ただ、アメリカと同じアングロサクソンの国の精神科医が、「せいくらべ」をするのはやめようと言ったというのが、新鮮でもあり奇異でもありました。
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