トトガノート

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Tag:デカルト

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第一章 物理学」の後半を読みました。

相対論の説明を読んで、著者の切り口のうまさを感じました。神の視点で記述した古典力学を、人間の視点で記述し直したのが相対論。人間は光で観測するがゆえに、光速による座標変換が必要になる…言われてみれば、なるほどです。

量子力学の説明は、もっと鮮やかでした。まず、ヤングの2本のスリットの観測装置で、光が粒子と波の双面性を持つことを説明する…これは基本ですね。

2本のスリットに観測装置を追加するとスクリーンの像が変化する。これで、「波の収縮」や「シュレディンガーの猫」を説明するのもどっかで見たような気がします。

でも、盛り場通いの山田博士と後任の斎藤博士を登場させて、「量子暗号」を説明してしまうのは鮮やかでした。

「多世界解釈」というは「パラレル・ワールド」のことだと思います。量子力学の考え方を発展させれば、「多世界解釈」になるのが一番自然だと私も思います。宇宙は複雑多岐で何次元なのか分からないと以前書いたのは、「パラレル・ワールド」が頭にあったからです。

久しぶりに、ワクワクする本に出会いました。

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第一章 物理学」の前半を読みました。

《以下引用》…
科学というのは、世界のありさまを、あるがままの姿で記述することを目的として生まれたものではない。特にキリスト教世界の中で誕生した近代科学が目指したものは、この世界の裏に潜む、人智を超えた神の御業を解明し、理解することにあった。法則性の解明がそのまま神の存在証明になり得たのである。したがって、科学によって解明されるべき世界の構造は、単一的で合理的で、そしてエレガントなものでなければならなかった。神が不格好で複雑で鈍重なものをお創りになるはずがない。…そして人々は、頭の中で、単一的で合理的でエレガントな世界像をいろいろと考え出し、それらのうちで現実によく合うものを選びとって、「これが世界の基本構造である」と主張した。…

頭の中の理想体系は、各人それぞれがそれぞれの個性に応じて生み出すものであるから、しょせん現実の世界と完全に対応するはずがない。大枠は似ていても、食い違いは出る。その食い違いをどう解決するか、そこが科学者の正念場である。ガリレイやデカルトは、外部世界が突き付ける不合理を拒否して、頭の中の理想世界を優先した。…その代償として、現実世界を正確に記述する物理体系を生み出すことはできなかったのである。これに対してニュートンは、己の直覚よりも、実際の現象を優先して、重力という正体不明の概念を導入することで、現実ときっちり対応する体系を創成した。…

本書は科学の方向性をテーマのひとつにしていると言ったが、その要点はここにある。脳の直覚が生み出す完全なる神の世界が、現実観察によって次第に修正されていく、悪く言えば堕落していく、そこに科学の向かう先が読み取れると想定するのである。…

神の視点が人間の視点に移っていくことを、自分の勝手な言い方で「科学の人間化」と呼び、それを堕落だと考える傾向を「下降感覚の原理」と呼んでいる。ただしここで注意しなければならないのは、神の視点というのが、もちろん実際の神を想定して言っているのではなく、我々が頭の中で常識的に最も端正で納得できる美しい形として捉えている視点のことを指しているという点である。「神の世界はこうあるべし」というそのような見方のことである。先にも言ったように、脳の直覚が生み出す完全なる神の世界が、現実観察によって次第に修正されていく、それが「科学の人間化」なのである。
…《引用終わり》


とても私好みの指摘です。漠然と同じことを考えてきましたので、うまく言葉に置き換えていただいたようで、気持ちがいいです。自分も同じような考え方をしていたとはいえ、言葉にできず、発展させることもできませんでした。著者がどのように展開させるのか、先が楽しみです。

もともとの「神」というのは結局、脳の中に居るのですね。そしてそれは脳の都合に依存した「神」であるから、思い込みの影響も受けるし、脳の生理学的あるいは構造的(解剖学的)制約も受けます。(結局は感覚器官に由来する)現実観察によって補正を繰り返してきたのが科学史と言えます。

脳はそもそも「神」を理解するだけの容量や能力を持っているのか?言い換えれば、本当の「神」を脳は「単一的で合理的でエレガント」だと感じるだろうか?逆に、現実観察というのは絶対に確かだと言えるのか?この辺のところを固めないと、科学は足元からすくわれて完全にひっくり返る可能性さえあると思います。

《つづく》

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先週、複雑系科学の池上高志先生のことを書きました。

「一個の水の分子。一個だけでは水なのか氷なのか湯気なのか分からない。そして、どんどんマクロに見ていくと、我々の体の中で生物の一部になっていたりする。生物かどうかは、スケールで違うのか?」

このイメージ、「本当」の世界で書いたこと、「思い込み」の平野で書いたこと、「思い込み」の海で書いたこと、と似てます。

これって華厳経のイメージかもしれませんね。

こういうイメージで考えると、自分という存在自体が相対的で、あやふやなもののように思えてきます。「自分」に関しては、あの疑い深いデカルトでさえ疑わなかったんですけどね

 


 脳から出ている神経の全てを完璧な機械に一本一本つないで、頭の中に納まっている時と全く同じように神経信号のやり取りをすれば、脳は頭の外に自分が居ることに全然気付かないのではないか?と、小さい頃に空想したことがあります。これは、まさにSF版「胡蝶の夢」です。自分はそんな機械につながれてなんかいない!と、どうして決め付けることができるだろうか?自分は蝶々なのに、人間だと錯覚させられているんじゃないのか?

 デカルトも、そんなふうに「自分」を徹底的に疑った人だと思います。「我思う、ゆえに我あり」こんなに自分が思い悩んでいるんだから、自分が存在しているということだけは確かだ!と彼は考えました。

 では存在するということはどういうことなのか?箱の中にウサギがいるかどうかは、箱を開けて中を見た瞬間に決まる!というのが量子力学の考え方なのだそうです。箱を開けないうちは、ウサギはいるかもしれないし、いないかもしれない。物事は観測しないうちは決定しない。「あ、自分は今悩んでいる」と自分を観測した瞬間に自分の存在が決定する!?それじゃあ、ボーッとしていると、自分は消えてしまうのだろうか?

 量子力学には不確定性原理というのがあって、小さなものを観測する限界について述べられているそうです。これと似た名前で、数学には不完全性定理というのがあって、論理学の限界が述べられているそうです。論理のパズルをどんどんと組んで広げていくと、どこかで合わないところが出てくる。だから、皆が正しいと思うことをどんどん積み重ねていっても、いつか必ずつじつまが合わなくなるんですよ!ということが数学的に証明されているらしいのです。

 そんなことが、脳の研究のテーマのひとつにきっとなっているんだろうと思います。脳とはどんなものか?私たちが正しいとか合理的だとか思うのはどういうことなのか?そもそも思うというのはどういうことなのか?

 するってぇーと、「思う」がわからなかったら、自分が存在しているかもわからないじゃないか?自分が人間か蝶々かよりももっと肝腎なこと、自分がいるかどうかわからない!デカルトさんは随分簡単なところで結論を出してしまったもんだ。

 こんなどうしようもない問題を一言で表したのが、「色即是空」じゃないかと思います。最近、般若心経を唱えているお年寄りを見ると、スゴイ!と思います。だいたいみんな意味はわからない。でも、それでいい。わかるということがどういうことか、そもそもわからないのだから。

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