ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
濁点(煩悩)は後で書く(生じる)もの…

如来蔵を読んでいて漠然と浮かんだイメージなのですが、光(如来)そのものであるはずの我々に生じる無明(煩悩)とは相対的なものだと考えてはどうか?相対論の入門編みたいな話になりますが…。

スピードを出して前の車を追い抜けば、その車はあたかも後ろに進んでいるように見えます。相対的に速いものから見れば、遅いものは全く逆向きのベクトルで進んでいるように見える。でも、実際はどちらも同じ向きのベクトルなのです。

無明と言いますが、闇とは言わないのです。明るく無いだけなのです。光が完全に閉ざされているわけではないのです。明るいものと比べれば、それより明るく無いものは暗く見えます。全然光っていないようにさえ見えます。でも、実際はどちらも光っているのです。

「た」の右上が薄暗くなっていて、濁点が付いているように見える状態…。

全き善なる者からみれば、善の足りない者は悪魔のようにさえ見えるかもしれない。でも、善の足りない者も悪を指向しているわけではなくて、善を指向しているのかもしれない。

しかし、そんな小さな差異が大きな煩悩につながるとは考えにくいし、そんな小さな差異でしかないのなら修行して取り除く必要などないではないか?というのが、如来蔵に対する反論でした。

これに対する説明にはカオス理論を用いてはどうでしょうか?1匹の蝶の羽ばたきが、世界の気象にまで影響を及ぼし得るというやつです。定量化できるパラメータ間に全て因果関係が働くという前提の下でさえ、このような理論が成り立つのです。無明とか煩悩とか定量化できないものに関してはなおさら何が起こってもおかしくはありません。

デフレスパイラルと言った方が今日的でしょうか。「風が吹かないので桶屋どころか誰も儲からない」と言えばいいでしょうか。

無明スパイラルの渦が大きな煩悩を生み、より大きな妄念を創り上げていく。そのきっかけは、消えかけたような微かな濁点。

しかし、このスパイラル(悪循環)が心の中に生じないようにするためには、修行を重ねなければならないのです。