トトガノート

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Tag:アーラヤ識

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「唯識入門」(春秋社)
「第六章.唯識の修行論」の「一.修行の階梯」の前までを読みました。

第六章に入る前に、唯識説についてまとめてあるので、メモっておきます。

《以下要約》
唯識説の三本柱は、以下の内容。
(1)アーラヤ識を基本とする識の体系
(2)一切法についての見方としての三性説
(3)唯識観(一切法は識の現わし出したものにほかならないという見方)の体得

この学説は、竜樹によって大乗の空思想が確立したあとで、瑜伽行派の間で形成された思想。『華厳経』「十地品」で説かれていた「三界は唯心」「十二因縁分はただ一心によっている」という教えに基づいて、その唯心の理の観得の方法として発達した。瑜伽行派は唯識観をその観法(瑜伽行)の基本とする学派。

この唯識観を理論的に説明するべく、一切法については迷悟によって三種の見方があるという学説が立てられ、それが竜樹の「一切法は縁起したもので、空である」という説を展開するものであることが標榜された。

一方、生死輪廻のかなめとなる識の性格についての考察もすすみ、個体存続、身心の維持者、業の担い手としてのアーラヤ識の説が発達する。これと認識の主体、三性の見方の転換のかなめとなる識の機能の考察が加わって、唯識の学説は完成する。

唯識の三本の柱は、『解深密経』『摂大乗論』を経て『唯識三十頌』によって確立される。『瑜伽師地論』『大乗荘厳論』『中辺分別論』などでは散発的に説かれるが不十分な点がある。
《以上要約…詳しくは本書参照》

さて、次から実践編ということかと思います。

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「三.個体の存続と輪廻転生」を読みました。

世親の『唯識三十頌』の第十八偈と第十九偈です。

識はじつに一切の種子を有するものである。その転変は更互の力から、あのよう、このように行われる。それによって、あれこれの妄分別が起こる。(第十八偈)

業の諸習気は、二取の習気に伴なって、まえの異熟が尽きたときに、他の異熟たるそれを生ずる。(第十九偈)

《以下要約》
われわれが自身と考えている存在、つまり生れてから死ぬまで自己同一を保っているとみなされている個体は、刹那ごとに生滅を繰り返す識の継起したものにすぎない。

それが自己同一を持つように見えるのは、アーラヤ識が自体や感官となる諸要素をまとめ、統べているからである。

身体とか感官といわれているものは、過去において仮構して、物質と考えたことの習気であり、それがアーラヤ識の実質を構成している。

アーラヤ識は刹那ごとに、習気(種子)を顕勢化するはたらきと、顕勢化した対象意識の習気を受けるはたらきを繰り返しつつ、次の刹那の識をつくりあげては変化しつつ継起する。

顕勢的な識の継起は、汚れたマナスという自我意識と、対象分別としての六識との、各刹那における顕現にほかならないが、そこに連続性があるごとくに見られるのは、アーラヤ識のはたらきであって、決してマナスや六識のはたらきではない。

刹那ごとに次の刹那に影響を与える力は、潜勢力(行)と呼ばれ、業とも言われる。各刹那の識の性格は、この業によって決まる。

業の影響力が刹那ごとに顕勢化することなく、一定の量に達した時、刹那ごとの変化とは異なったドラスティックな大変化が起きる。それが死である。

そのような潜在力もアーラヤ識のなかに種子として貯えられ続け、飽和状態になったときにアーラヤ識のまとめる力を超え、個体としての統一性は失われる。

こうしてひとたび分裂しても、識としてのはたらきはつづき、習気の条件しだいで、次の生に転生する。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「二.識の機能」を読みました。

世親の『唯識三十頌』の第三偈です。

そして、それ(アーラヤ識)は感知できない執受と住処との了別を有し、つねに触と作意と受と想と思(という五つの心作用)に伴われている。(第三偈)

《以下要約》
アーラヤ識も識であるかぎりは、所縁があり行相があるはずですが、潜在的に機能しているので、通常の六識のように顕著なものはありません。それを「感知できない」と言っています。行相は「了別」作用、「執受」と「処」が所縁となります。

例えば、眼識ならば、眼根を所依として、色を所縁としてはたらく作用です。行相は「見る」。

「執受」とは、アーラヤ識によって了別された形(つまり、所縁としての形)でいうと、個体存在としてまとまったいるもの。すなわち、各種の感官(根)とその土台(所依)となる身体(「有根身」と『成唯識論』では訳される)と、その個体に付属しているとみなされる各種の精神作用(「名」と呼ばれる)の二つです。

アーラヤ識は、有根身と名を合せたものを、まだ「我」だと意識するわけではないのですが、ひとつのまとまりある個体であると認識します。

しかし、唯識の理論では感官を具えた身体は外界に実在しないと考えるので、それは我および、その個体にかかわるかぎりの諸法を分別(=了別)する機能(これは汚れたマナスと六識の作用)が引き起こした習気にほかならない、と捉えます。

アーラヤ識はかつて自ら現わし出した像の習気を素材として次の認識活動行っています。言わば識の自己生殖であり、これが「識の転変」です。

もうひとつの「感知できない所縁」である「処」(住処)は、自己自身以外の外界と通常われわれが考えている存在です。そのうち他人の個体を「有情世間」それ以外を「器世間」と言います。

これも色などとして妄分別した習気として、アーラヤ識の中に貯えられたものです。

執受と処は内か外かの違いで、両者を合わせれば一切の「名色」となります。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「マナスの役割」まで読みました。

前節に、転変という概念は、識と対象の相互関係と、時間的前後関係の全てを同一語で説明できるところが素晴らしいと書いてあるので、メモっておきます。

さて、世親の『唯識三十頌』の第五偈です。第二種の転変としての「思量」のはたらきについてです。

意(マナス)と名づける識が、それ(アーラヤ識)に依止し、それ(アーラヤ識)を所縁として起こる。(これは)思量を性とするものである。(第五偈)

《以下要約》
この「マナスと呼ばれる識」が独自の認識作用を起こす拠り所はアーラヤ識(にある習気)になるのですが、マナスの認識機能はアーラヤ識を認識の対象としています。

つまり、マナスは、アーラヤ識を「我」アートマンだと誤認するはたらきをしているということです。このマナスこそ自我意識にほかなりません。

『中辺分別論』では「我としての顕現」と表現していました。
《以上要約…詳しくは本書参照》

(このマナスは)四種の有覆無記性の煩悩につねに伴われている。(四種の煩悩とは)我見と我癡と我慢と我愛である。(第六偈)

《以下要約》
・我見(がけん):有身見ともいい、我があるとする見方。
・我癡(がち):我に関する無知。
・我慢(がまん):「私はなになにです」と思うこと、およびそれによって心が高ぶること(慢)。
・我愛(があい):我が身可愛やという思い。

この四つは修行の妨げとなる煩悩ですから、これを伴っているマナスは「汚れたマナス」と呼ばれます。そのことが「有覆」(覆われた)という言葉で示されます。しかし、善悪とは直接には規定できないので「無記」です。

アーラヤ識は煩悩の心作用は伴われていないので、「無覆無記」と規定されます。

「汚れたマナス」は、さとりにおいても出世間の修行道においても(無漏ですから)機能しません。無意識の状態でも、汚れているかいないかに関わらず機能しないはずですから、「滅尽定」においても機能しません。しかし、定に入る前後の意識の連続性はアーラヤ識によって保たれることになります。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「アーラヤ識の役割」まで読みました。

世親の『唯識三十頌』の第二偈です。

(三種の転変とは)異熟と、思量と称せられるものと、境の了別とである。そのなかで、異熟とはアーラヤとよばれる識のことで、一切の種子を有するものである。(第二偈)

《以下要約》
安慧の注釈によれば「転変は因の場合と、果の場合に分けられる。因転変は、異熟の習気と等流の習気がアーラヤ識のなかに成長すること。果転変とは
異熟習気がはたらきを得るので、前世の業の牽引が成満したとき、アーラヤ識が他の個体(衆同分)として生ずること、
等流の習気がはたらきを得るので、各種の転識(六種の対象を了別する識)と、染汚の意(すなわち思量のはたらき)がアーラヤ識から生ずること、
である。」とされています。

異熟とは、因と果の性質が異なる関係。善因楽果、悪因苦果というような道徳上の因(善悪)と果(無記)の関係。

等流とは、因と果が同じ性質の場合。刹那刹那の識と識との関係。アーラヤ識⇔思量・了別の作用との間ではたらくもの。その性質は善悪とは無関係の無記なるもの。

了別の機能をもつ六識には等流の習気と異熟の習気の両方が有り得るが、思量のはたらきはただ等流の習気だけを残す。異熟か等流かは識に伴う心作用によって決まることで、識自体は無記。

習気とは、ある作用があったとき、その残す力のこと。次刹那の作用を引き起こす力を持っているので、植物の種子に例えて「種子(しゅうじ:ビージャ)」と呼ばれる。

アーラヤ識はこうした種々の習気の貯え場所(アーラヤは蔵、倉庫)。種子の集合体。アーラヤ識は、顕勢となっていない状態で刹那ごとの相続を続けるので、潜在意識とか深層意識と言っていいだろう。

アーラヤ識は、善悪どんな性質の顕勢態の識の習気を受けても、それ自体は無記であるので異熟だということになる。

アーラヤ識は、輪廻転生におけるある種の連続性(結生相続)を説明すべく仮定された原理、と言える。つまり、過去世の善悪の業の習気の担い手。

また、アーラヤ識は、生まれてから死の瞬間まで、自体を一つにまとめ維持して、個体としての同一性(衆同分)を存続させる役を担っている。この、身体をまとめ維持して個体の存続を成り立たせる機能をアーダーナ(執持)と呼ぶので、アーラヤ識はアーダーナ識とも呼ばれる(『解深密経』)。
《以上要約…詳しくは本書参照》


《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「三種の転変」まで読みました。

この章は、虚妄分別が依他起であるメカニズムについて、世親の『唯識三十頌』から読み取っていきます。

どんな種類の我や法の想定(仮説)が行われるとしても、じつに、それは識の転変においてである。そして、その転変は三種である。(第一偈)

《以下要約》
「転変」とは、安慧(ステイラマテイ)の注釈によれば「因の刹那が滅するのと同時に、果が因の刹那とは異なって生ずること」とされています。言わんとしていることは、まず、我法を想定する識と我および法という想定されるものとの間の同時成立と相互影響ということ。もうひとつは、刹那生滅の識の刹那ごとの連続(相続:サンタティ)。このふたつを転変という一つの言葉で表現することで、「縁起」を説明しようとしています。

『倶舎論』では、すべての法は刹那滅で断絶しつつ接続しますから、色法(たとえば身体を構成する諸法)は色法でそれぞれ転変しますが、唯識の理論ではこれが認められていないので、諸法の成立を識との関係でだけ説明しています。(本書に図示)

識の転変の三種とは…
(1)異熟としての転変:主体はアーラヤ識:因としてのアーラヤ識のはたらき。
(2)思量としての転変:主体はマナス:その識の顕現としてのマナス。即ち自我意識。
(3)対象の了別としての転変:主体は六識:「了別」と呼ばれていた六識。

(2)は「我」の観念をつくりだす。(3)は六境に分類される法およびその観念成立の入口たる六根(正式には意根を除く五種)なる法を認識し、判断するはたらき。そして(2)(3)は共に(1)のアーラヤ識からの転変。

識の転変は、アーラヤ識と、思量および了別という二種の転識(現に機能している識)との間の相互関係であり、識の内部での相互作用ということになります。が、刹那ごとの識の連続性(同じ性質が刹那を超えて持続すること)はもっぱらアーラヤ識に託されていると言えます。
《以上要約…詳しくは本書参照》

マナスの連続性とは「自己同一性」のことかもしれません。

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第四章.識と縁起」の「二.二種の識」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第九偈が出てきます。

(1.9)一つは縁(因)としての識であり、(現象的な面において)享受〔など〕に関係するものが第二(の識)である。そこ(第二の識)には、享受すること、判別すること、および動かすものとしてのもろもろの心作用がある。

《以下要約》
これに対する世親の注釈。

識は、一方では潜勢的な原因の識として生起し、他方ではそれの結果として顕勢的・現象的な識として生起する。アーラヤ識は前者であり、それ以外の七つの諸識に対して原因となるものである。「縁(因)としての識」である。

それを縁として(顕勢的に)はたらいている七つの識(転識)が「享受に関係するもの」である。「享受」とは感受(受)のことである。「判別」とは観念(想)のことである。識を「動かすもの」とは形成力(行)のことであり、すなわち思考(思)、心の集中(作意)など(の諸種の心作用)である。
《以上要約…詳しくは本書参照》

ついにアーラヤ識という言葉が登場しました。

《以下要約》
さらに付け加えられた著者の注釈。

顕勢的・現象的な識が、われわれが通常認識しうる機能で、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識と自我意識で合計七種あります。これらは諸種の心作用(心所)を伴って機能します。

感受作用、表象作用、意志作用、注意、対象に触れる作用(触)は、基本的な心作用で、心が動いている限り、つまり識が機能している限り、常に必ず伴うものと瑜伽行派は考えています。現象的な七種の識は、「転識」すなわち「活動している識」とも呼ばれます。

唯識説では、潜勢的なアーラヤ識と顕勢的な七識との因果関係が縁起にほかならず、それ以外に縁起するものはない、とされています。
《以上要約…詳しくは本書参照》

転識という言葉は「意識の形而上学」「大乗起信論」にも出てきます。ちょっとニュアンスが違うようですが、復習しておきましょう。

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「序章.唯識思想の成り立ち」の「一.唯識ということ」を読みました。

同じ著者による「仏教入門」の中に、


自性清浄心=如来蔵と、アーラヤ識とは、同じ一つの心の表と裏、楯の両面のように相反し、対立しつつも、決して切り離せません。そこで、それを同一視する考えが生まれ、それが『楞伽経』となり、『大乗起信論』で完結しました。


というような説明がありましたので、『大乗起信論』を理解するには唯識についても理解しておかなければならないと思いました。その時からエントリーしておいたのがこの本です。同じ著者なら分かりやすいだろうとも思いました。

この本は講義形式(話し言葉)なので、その点でも分かりやすいかと思います。

最初に参考となる本が紹介されていますので、もっと勉強したくなった時のために整理しておこうと思います。

『唯識思想』(『講座大乗仏教』全10巻の第八巻)春秋社
瑜伽行派の形成から説明を進めている。

『認識と超越〈唯識〉』(『仏教の思想』全12巻の第四巻)角川書店
インド哲学の専門家(服部正明さん)と西洋哲学畑の方(上山春平さん)の共著。服部さんは世親の『唯識二十論』をもとに、上山さんは法相宗の聖典『成唯識論』(世親の『唯識三十頌』の注釈)をもとに書かれています(とのこと)。

『唯識の哲学』(サーラ叢書)平楽寺書店
著者は横山紘一さん。伝統的な唯識法相の学にも詳しい方ですが、ユングやフロイトの学問と比較して唯識へと導いている、とのこと。『唯識三十頌』をもとにしています。

『唯識の心理学』青土社
著者は岡野守也氏。『唯識三十頌』をテキストにして、トランスパーソナル心理学的な視点から見ていきます。

『唯識十章』春秋社
著者は多川俊映師。玄奘訳『成唯識論』をテキストにして、伝統的な法相宗の唯識学を現代的に解説。

『唯識の構造』春秋社
著者は竹村牧男さん。唯識説を、その成立から『成唯識論』に至るまでの歴史的展開を視野に入れ、しかも現代的に解説。

『摂大乗論・和訳と註解(上・下)』講談社
著者は長尾雅人氏。唯識説のインド学的チベット学的研究の成果。入門書ではないので、いささか難解。

『世親論集』(『大乗仏典』全15巻の一冊)中央公論社
原典の翻訳。『唯識二十論』『唯識三十頌』『三性論』『中辺分別論』などが入ってます。

えーと…、まずは高崎直道さんの本、読みますよ。

《つづく》
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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「八章 修行者の理想像」を読みました。

アビダルマ教学確立の中で組織化された修行者の階位がいろいろあるようですが、それは本書を読んでいただくことにします。

ブッダ以来、出家の修行者の最高位は阿羅漢であり、阿羅漢になっても仏にはなれないと考えられてきました。これに対し、大乗は、万人に仏と同じ阿耨多羅三貘三菩提を得ることを究極の目的とさせ、発心したかぎりでのすべての修行者を、悟る前の仏と同じ「菩薩」と呼びました。

この菩薩の階位もいろいろあり、『般若経』では四位、『華厳経』では四十二位が並び、『梵網経』では五十二位、等々あるそうです。

ですが、大乗経典中最も強調されていることは、「菩薩はその衆生済度の誓願のあついゆえに、自ら仏となるより先に、すべての衆生を彼岸にわたそうと努める存在である」ということです。「智慧によって、生死に住せず、慈悲によって、涅槃に住せず」といわれ、生死にも涅槃にもとどまらないがゆえに、菩薩のあり方を「無住処涅槃」と称しています。これが利他に生きる菩薩の理想像です。

《以下引用》
…菩薩はすべてが行の完成者なのではない。そもそも発菩提心したのが菩薩であるから、そのままでは凡夫の菩薩であり、しかもその数は無数である。実はすべての衆生が菩薩となりうるし、菩薩とならなければならない。そこに大乗仏教の理想があるといえよう。このことは『法華経』において高らかに強調され、やがてそれが如来蔵思想を生む母胎の一つとなった。いわゆる「一乗」の教えである。
《引用終わり》

唯識説は三乗説を唱えているようなのでメモっておきます。

《以下引用》
…しかし、インドの大乗仏教の歴史を見ると、三乗説もなかなか根強い。これは先天的な種姓というよりも、行のむずかしさを主張し、行の重要性を強調するところに由来するのである。現実の人間のあり方を直視するとき、いかに執着をなくし、苦を滅し、悟りをひらき、仏となるのが困難なことか、衆生がいかに仏とは遠く隔たった存在であるかが容易に想い起こされる。それに打ち克つ行こそが仏道であると見る人びとは、三乗説にこそ真実を見出している。その代表が唯識説を説く瑜伽行派である。…
《引用終わり》

階位を設けることは、修行の道のりが遠いことを示しながらも、修行者のモチベーションを下げさせない工夫として、意味があるのかもしれません。

《つづく》


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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「七章 心」の後半を読みました。

唯識説は迷っている凡夫の心のあり方を説明しているのに対し、どんなに迷っていても心は清らかで、仏の心と同じだという見方があります。この心を「自性清浄心」と言います。

唯識説でいう心は、狭義ではアーラヤ識だけを指しますが、広義ではマナス(意)や六識や、心に伴って現れる種々の心作用(心所法)にいたるまでが含まれます。

《以下引用》
…それに対し、この考え方によると、心と、心にともなう作用(あるいは属性というのも同じ)としての煩悩などとを切り離し、煩悩などは心の上に外からやってくる客、つまり一時的滞在者のようなものだという(客塵煩悩)。外からやってくるからといって、どこかに煩悩が実在しているわけではなく、それはもともと存在しないのだが、心がものの道理をわきまえず真理を知らないとき、つまり無知(無明)であるときに現われ出て心に付着し、心を汚す。それが凡夫における状態である。場合によっては、それは月の光をさえぎる雲にも喩えられる。雲が行き過ぎれば月はまたもとどおり皓皓と輝く。悟りというものは、ちょうどこの雲間を過ぎてふたたび光をとりもどした月のようなものである。さらに言えば、雲がおおい、光をさえぎっているように見えても、実は、月の光は前も後も少しも変わらずに光り輝いているように、迷悟にかかわらず、衆生の心もつねに輝いている。心それ自体は汚れることはない。…
…同じ変わらぬ清浄な心が、修行によって、そのことを知るか否かによって、あり方の異なっていることが教えられており、したがって修行、訓練による心の変化が要求されているが、ただ唯識説のように心自体の転換ではなく、心の状態の変化(心そのものは不変)としてとらえられている。
《引用終わり》

このような見方は阿含の教えの中にも多く見られましたが、アビダルマの仏教ではあまり関心が持たれず、大乗仏教になって急に脚光を浴びます。

《以下引用》
…『般若経』では、「自性が清浄」とは自性がないこと、つまり空という意味と解釈した。そうなると、唯識説のところで述べたように、迷うも悟るも心が要という教えと近くなる。もちろん、その教えと自性清浄心の考えとが矛盾するものではなく、両方の統一は可能であるが、『般若経』の場合は、それ以上に心の問題を掘り下げることをしなかった。…
《引用終わり》

自性清浄心の教えを出発点として学説を展開させた系統が、如来蔵思想ということになります。

《以下引用》
…自性清浄心が、全面的に無為法、真如、法界、法身という絶対的価値そのものと同一視されるようになると、煩悩の存在はますます影がうすくなって極小化される。そのあげくには、煩悩はもともと無いものだから、衆生は本来覚っている(本覚)という言い方まで出てくる。これは場合によっては修行による浄化という過程をも極小化させることにもなりかねない。また逆に、それにもかかわらず、現実にはどうしてこうも煩悩が多く、なかなか除くことができないかということを説明不可能にもさせる。実はアーラヤ識の説が生まれるについては、このような難問に対する解答という意味もあったようである。…
《引用終わり》

自性清浄心=如来蔵と、アーラヤ識とは、同じ一つの心の表と裏、楯の両面のように相反し、対立しつつも、決して切り離せません。そこで、それを同一視する考えが生まれ、それが『楞伽経』となり、『大乗起信論』で完結しました。『起信論』は、その基本を如来蔵のほうに置き、如来蔵の側面を「心真如」、アーラヤ識の方面を「心生滅」と呼んでいます。その場合でも、如来蔵の上にどうして本来ありもしない煩悩が現われるかというメカニズムは必ずしも巧みに説明されているようには見えない(そうです)。

《以下引用》
…唯識説では、如来蔵の学説は真如・法界の説明といっしょに導入され、円成実性と同一視されている。しかし、その重点は、迷悟転換の基盤としての中性的な場といった意味がつよくなり、悟りの原動力という意味あいはうすれている。そして悟りを、迷いの根元であるアーラヤ識の転換、自己否定に求めた点で、宗教的実践のうえで如来蔵思想以上の深みを示すけれども、どうしてそのような転換がおこるかについてのメカニズムについては必ずしも十分に成功しているとは見えない(術語でいうと、アーラヤ識に、それと本質上あい容れない無漏の種子が、法を聞いた余熏として生じて〔聞熏習の種子〕付着し、しだいに本体を抑え、消滅させるにいたるという)。結局、両思想は相補的に仏教の求めるもの、悟りにいたる実践の主体のあるべき姿を明かすものと言うべきであろう。…
《引用終わり》

「光は波である」という見方と「光は粒子である」という見方の両方を相補的に用いないと、光の性質を語ることができないのと同じようなことなのでしょうか…。

《つづく》
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