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裁判と鑑定団て似てるな、とふと思いました。裁判というのも、罪の重さを鑑定するという点では「なんでも鑑定団」みたいなもんじゃないだろうか?と。「何をバカな!」とおっしゃる方が多かろうことは重々承知の上です。

市場では、物の値段は売り手と買い手との間で折り合えば、基本的には成立します。そこが、裁判とは違うでしょうかね。被害者と加害者、あるいは検事と弁護士が相談して罪を決めるわけではないですから。でも、大体が両者の間を取って決めるのであれば、大差ないかもしれません。

「なんでも鑑定団」は買い手がいないかわりに、鑑定士が玄人の判断を下します。裁判官みたいですよね。

裁判員制度への反対意見として「『あなたは死刑ですよ。死んで下さい。』と我々一般の人間が宣告することなんですよ!そんなことできますか?」というものがあるということは先日書きました。死刑を含む罪の重さと、物の値段とでは全然深刻さが違うじゃないかという意見もあるでしょう。

例えば、こんな場合どうでしょう。親父の形見の骨董品がたくさんあるから、いざとなればそれを売っぱらえばいいやという考えで、借金をしまくっていた人がいたとします。そして、いよいよ骨董品に手を付けざるを得ない日がやってきました。ところが鑑定してもらうとガラクタばかり。全部売っても二束三文でした。借金取りに追われたその人は、自殺するしかありませんでした…

値段をつけることが、死刑宣告みたいなことになる場合だってある。

もっと拡大させれば、普段の何気ない一言がきっかけで、一人の人間の人生を変えてしまうことは結構あるものです。「一般の人間が、他人の人生に介入するようなことはできない」と裁判員制度反対の人は言うのですが、お互い介入しあって生きているのが人生なんじゃないでしょうか?

他人の人生を変えたり変えさせられたりし合うのが、社会なんじゃないでしょうか?

《つづく》