第4章を読みました。以前聴いた精神科医の講演を思い出しました。最近はうつ病の患者が多いけれども、それは現代の座標軸が躁状態の方に傾いているからなのではないか?というお話でした。人間を評価(診断)する絶対不動の基準なんてないのだから、躁と鬱を判断する場合も、躁にずれた人と鬱にずれた人がほぼ同数になる判断基準が最も妥当なのではないか?というような意見でした。

 こういった精神の像(イメージ)とか、身体の像とか、社会の像とか。これは不動のものではなくて、時代と共に変化する無常のものです。それなのに、人はその像に無意識に縛られ、翻弄されているようです。

 現代の福祉の考え方は、健康な身体の像を絶対的な基準としていて、障害者なら欠けているものを補い、高齢者なら衰えたものを鍛えたり補ったりして、健康な身体の像にノーマライズしようというものです。隔たり(バリア)を埋めることに躍起になっていますが、それだけのコストに見合った幸福を障害者も健常者も老若男女みんなが得ているのかどうか?

 たとえば、縄文・弥生時代、平安貴族の時代、武家の時代…今よりも障害者もお年寄りも幸せだったのかもしれません。吉本隆明さんの文章を読んで、より強く思うようになりました。