トトガノート

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第二章「素敵なお母様への道」の後半と第三章「私が選んだ教育法「公文式」」の前半を読みました。

脳卒中や事故などで障害を持ってしまった人や少年院の人が公文式をやっている例が紹介されていて、興味深く読みました。もちろん前者はリハビリのため、後者は更正のため行っているわけですが、予想以上の効果を上げているとか。

学問というのは人間が作り出したものだし、少なくとも最初に道を切り開いた人は嬉々としてやっていたはず。だから人間なら誰でも本来は楽しくできるはずなのです。少年院の少年たちも誰の力も借りずに問題を解いて満点を取っていくことによって、人に認められ、自分を認められるようになっていく。これは本当に素敵なお話です。

少年院で公文式をすると、子どもたちは国語に一番熱心に取り組み、成績も国語が一番伸びるとのこと。彼らは自分の内面を表現する言葉を持たず、自分を表現できなかったのではないかと分析されていました。

承認欲求は誰にでもあります。自分を表現する術を知らず、したがって周囲から認められることも無く、犯罪を犯すことで注意を引こうとしたとしたら、とても悲しいことです。そういう悲劇を防ぐ可能性が、公文式には確かにあると思います。

《つづく》
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 第4章を読みました。以前聴いた精神科医の講演を思い出しました。最近はうつ病の患者が多いけれども、それは現代の座標軸が躁状態の方に傾いているからなのではないか?というお話でした。人間を評価(診断)する絶対不動の基準なんてないのだから、躁と鬱を判断する場合も、躁にずれた人と鬱にずれた人がほぼ同数になる判断基準が最も妥当なのではないか?というような意見でした。

 こういった精神の像(イメージ)とか、身体の像とか、社会の像とか。これは不動のものではなくて、時代と共に変化する無常のものです。それなのに、人はその像に無意識に縛られ、翻弄されているようです。

 現代の福祉の考え方は、健康な身体の像を絶対的な基準としていて、障害者なら欠けているものを補い、高齢者なら衰えたものを鍛えたり補ったりして、健康な身体の像にノーマライズしようというものです。隔たり(バリア)を埋めることに躍起になっていますが、それだけのコストに見合った幸福を障害者も健常者も老若男女みんなが得ているのかどうか?

 たとえば、縄文・弥生時代、平安貴族の時代、武家の時代…今よりも障害者もお年寄りも幸せだったのかもしれません。吉本隆明さんの文章を読んで、より強く思うようになりました。
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