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以前、不殺生について考えた時から、人間は生まれた瞬間から二律背反に苦しむさだめ…という憂鬱なとらえ方をしていました。

改めて噛みしめてみて、確かに憂鬱なとらえ方が基本だとは思ったのですが、ちょっと吹っ切れたところもあって、何だか明るい気持ちにもなったのでした。

それは、「不殺生を完全に守ったら、人間は生きられない」ということは、生きること自体が破戒になるということではありますが、「生きる」を認めるなら不殺生の例外も認められるということに気付いたことでした。

人がいなくなってしまったら、仏道も修行もなくなってしまうわけです。だから、「人が生きる」ということは善悪はともかくとして受け止めなければいけない。他者を食べたり他者に食べられたりという衆生のドロドロとした営みは受け止めることになる。

そう考えると、正邪はともかく淫もなければ人は生まれてこないわけで、これも受け止めざるを得ない。で、結局、十善戒ことごとく必要悪として受け止めざるを得ない部分があるのではないか…

淫を受け止めたのが理趣経だ!という言い方をしてみると、空海という思想家、真言密教という思想に、現実的なものを感じました。

そもそも、宗教は生きた人間が修めるもの。死んで生まれ変わったところにしか希望が持てないような教えでは話にならない。つまり即身成仏を唱えなかったら、何の意味があるのか?

人間が生まれ出ることを受け止めずして何とするか、例えそれが暗いものであるにせよ。
人間が生き続けることを受け止めずして何とするか、例えそれが他者の冥い死の上に成り立っているにせよ。

この吹っ切れが結局なににつながったかと言いますと、「金を稼ぐ」ことで感じていた罪悪感を軽くしたのでした。獲物を追いかける雌ライオンのように、仕事も頑張らないといかんな…と思ったのでした。