トトガノート

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Tag:覚

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大乗起信論(岩波文庫版)
第三段「解釈分」の第一章「顕示正義」の第二門「心消滅」のB「<まよい><さとり>をあらしめるもの―アーラヤ識の機能」まで読みました。

意のはたらき五種(業識・転識・現識・智識・相続識)が述べてあります。これは「意形(8/10)」の内容に対応します。

汚れた心の六段階

1.執相応染
執着を特色とし、表層的生滅と結びついてあらわれる汚れ。執取相・計名字相・起業相・業繋苦相に相当。信と結びついた段階(信相応地)に達することで遠ざけることができる。

2.不断相応染
不断に相続すること特色とする、表層的生滅と結びつく汚れ。相続相に相当。信相応地に達したのに基づき、修行の手立て順次学ぶにつれて徐々に遠ざけ、浄心を得た段階(浄心地・初地)で最終的に除去できる。

3.分別智相応染
感覚的弁別を特色とする、表層的生滅と結びついた汚れ。智相に相当。菩薩が戒律を保持する段階(具戒地・第二地)に入ると徐々に離れはじめ、すべての現象には相無しとのさとりに入る手だてを完成した段階(無相方便地・第七地)に入れば完全に離れることができる。

4.現色不相応染
対象の相として現れることを特色とし、表層的生滅と結びつかない潜勢的な生滅心にともなう汚れ。境界相に対応。対象を自在に制御できる段階(色自在地・第八地)に入ることで遠ざけることができる。

5.能見心不相応染
主観としてはたらく、潜勢的な生滅心にともなう汚れ。能見相に相当。心を自在に制御できる段階(心自在地・第九地)に入ることで遠ざけることができる。

6.根本業不相応染
主観としてはたらく、潜勢的な生滅心にともなう汚れ。無明業相に相当。菩薩の最終的段階(菩薩尽地)に達し、如来の階位に入ってようやく離れることができる。入ることで遠ざけることができる。

「表層的生滅にむすびつく」とは主観・客観の相と同じということであり、「表層的生滅とむすびつかない」とは主客に分かれる以前で主観・客観の相と同じにならないということ。

《つづく》
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大乗起信論(岩波文庫版)
第三段「解釈分」の第一章「顕示正義」の第二門「心消滅」のA「心生滅―さとり(覚)とまよい(不覚)」まで読みました。

始覚に至る四段階(不覚・相似覚・随分覚・究竟覚)が述べてあります。それから随染本覚。これは「意形(9/10)」の内容に対応します。

次に鏡のたとえ(さとりの体と相)が出てきます。さとり(覚)の特色には四種の「大」がある。それは虚空(おおぞら)のように広く、鏡のように浄らかである。

1.如実空鏡
一切の主観(心)客観(境界)の相を離れていて(遠離=空)、何ものもそこに現れるものがない。空すなわち純粋に清浄。

2. 因熏習鏡
衆生の心は本来、不動で煩悩に汚されない諸徳性を具備している(もともときれいな鏡は、汚れた物をもそのままに映し出すけれども、鏡自体は汚れていない)。それが衆生にはたらきかけて、さとりに向かわせる。

3.法出離鏡
前項の因に備わる不空なる諸徳が、煩悩という妨げ(煩悩礙)や知に関する妨げ(智礙)を除き去り、さとりとまよいの和合したアラヤ識の相を離れる。

4.縁熏習鏡
前項の不空な徳性が覆いを離れて輝き出る(法出離)のに基いて、雲から出た満月のごとく遍く衆生の心を照らし出し、善根を修めさせるべく、その心の動きに応じて(随念)はたらきを現す。

最後に、まよい(不覚)の基本的構造として三細(無明業相・能見相・境界相)、表層的現象として六麁(智相・相続相・執取相・計名字相・起業相・業繋苦相)が書いてあります。これは「意形(8/10)」の内容に対応します。

《つづく》
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「意識の形而上学」
第三部「実存意識機能の内的メカニズム」の「13.「覚」と「不覚」」「14.「不覚」の構造」の前半を読みました。覚と不覚について書いてあります。

《以下引用》…「アラヤ識」のこの新しい局面を具体的に分析するために、ここで『起信論』は「覚」と「不覚」という一対のキータームを導入し、さらに「覚」を二分して「始覚」と「本覚」というキータームの一対を作り出す。…これら4つのキータームが、たがいに接近し、離反し、対立し、相剋し、ついに融和する力動的な意識の場、それが個的実存意識のメカニズムとして現象する「アラヤ識」の姿なのである。《引用終わり》

「覚」について。
《以下引用》…「覚」の実存的現成のためには、何よりも先ず個的実存意識が、MからAの方向に進んで、道の極限に達し、絶対無分節的「自性清浄心」そのものとの合一を体験すること(「離念」)が必要である。それが「覚」現成の第一段。だが、それだけでは「覚」はまだ完成しない。「自性清浄心」との合一を体験した実存意識は、そのままひるがえってBの方向に向かい、A・Bの両方を無差別的に、全一的に、綜観する境地に達さなければならない。と言うよりも、むしろ、Aの道の究極に達することが、同時にそのままBへの道を極め、Bの真相を覚知することになるのでなければならない。そのような意識状態が実存的に現成したとき、それを「覚」というのである。《引用終わり》

「不覚」について。
《以下引用》…このような「法界一相」的世界観は、我々平凡人の普通の現実観ではない。…普通の人は現に「不覚」の状態にあるはずだ…「不覚」とは文字どおり「覚」の否定、つまり、人がA←Mの道に行くかわりに、ひたすらM→Bの道に行き、ただ現象的現実の中に跼蹐(きょくせき:ひどく恐れかしこんで身のおきどころも無い状態)して生きることである。…理論的、いや、理念的に言えば、人は誰でも(=「一切衆生」)「自性清浄心」をもっている。それが、いわゆる現実界の紛々たる乱動のうちに見失われている。いかにすれば、本性の「清浄」性に復帰することができるか。これが『起信論』の宗教倫理思想の中心課題として提起される。《引用終わり》

さらに「不覚」を、「根本不覚」:根源的・第一次的「不覚」(無明)と、「枝末不覚」:派生的・第二次的「不覚」と、二段階に分けています。

「根本不覚」とは、真理(「真如」=「心」の真相)を、全一的意識野において覚照する能力がないこと。

「枝末不覚」とは、「真如」についての根本的無知ゆえに、「真如」の覚知の中に認識論的主・客(自・他)の区別・対立を混入し、現象的事象を心の外に実在する客観的世界と考え、それを心的主体が客観的対象として認識する、という形に構造化して把握する意識のあり方。

「根本不覚」の全体的支配の下で、人が「妄念」の所産である外的世界を、真実在の世界と誤認して、その結果、限りない迷い(=煩悩)の渦に巻き込まれていく実存のあり方が「枝末不覚」。

《つづく》
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