トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:裁判

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裁判と鑑定団て似てるな、とふと思いました。裁判というのも、罪の重さを鑑定するという点では「なんでも鑑定団」みたいなもんじゃないだろうか?と。「何をバカな!」とおっしゃる方が多かろうことは重々承知の上です。

市場では、物の値段は売り手と買い手との間で折り合えば、基本的には成立します。そこが、裁判とは違うでしょうかね。被害者と加害者、あるいは検事と弁護士が相談して罪を決めるわけではないですから。でも、大体が両者の間を取って決めるのであれば、大差ないかもしれません。

「なんでも鑑定団」は買い手がいないかわりに、鑑定士が玄人の判断を下します。裁判官みたいですよね。

裁判員制度への反対意見として「『あなたは死刑ですよ。死んで下さい。』と我々一般の人間が宣告することなんですよ!そんなことできますか?」というものがあるということは先日書きました。死刑を含む罪の重さと、物の値段とでは全然深刻さが違うじゃないかという意見もあるでしょう。

例えば、こんな場合どうでしょう。親父の形見の骨董品がたくさんあるから、いざとなればそれを売っぱらえばいいやという考えで、借金をしまくっていた人がいたとします。そして、いよいよ骨董品に手を付けざるを得ない日がやってきました。ところが鑑定してもらうとガラクタばかり。全部売っても二束三文でした。借金取りに追われたその人は、自殺するしかありませんでした…

値段をつけることが、死刑宣告みたいなことになる場合だってある。

もっと拡大させれば、普段の何気ない一言がきっかけで、一人の人間の人生を変えてしまうことは結構あるものです。「一般の人間が、他人の人生に介入するようなことはできない」と裁判員制度反対の人は言うのですが、お互い介入しあって生きているのが人生なんじゃないでしょうか?

他人の人生を変えたり変えさせられたりし合うのが、社会なんじゃないでしょうか?

《つづく》
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3月29日にテレビで放送された劇場版の相棒「絶体絶命!東京ビッグシティマラソン」を見ました。ある裁判の判決を不服として国民全員を逆恨みする、というような動機…映画の中ではフェイクっぽかったけど…リアリティが無いとは言えません。ひょっとしたら正論かもしれない。フィクションとは片づけられないように思いました。

裁判員制度反対派の人に言わせれば、一般の人間が判決に関与することでますますそういう逆恨みは現実味を帯びる、ということになるでしょうけど…

昨年のNHKスペシャルに出演した一般の人の意見で気になったのは、「『あなたは死刑ですよ。死んで下さい。』と我々一般の人間が宣告することなんですよ!そんなことできますか?」というものでした。非常に説得力のある意見だと思いました。

しかし、この意見には「プロの裁判官が宣告するのなら問題無いけれど」という前提があるような気がします。私はその前提を疑っているので、裁判員制度には賛成なのです。

現行の制度では、被告や被害者に関係が無ければ全く関係が無いと思いがちです。もちろん判決に対して、妥当だとか妥当でないとか意見を持つことはありますが、あくまでも第三者という認識です。

これは、間違いなんじゃないかな?と思うです。

ある裁判官が下した判決に、我々一般の国民は全く無関係ではないと思います。その裁判に全く関わりを持たなかったとしても、1人の死刑囚が処刑されることへの責任は、国民一人一人にあると思うのです。逆に、処刑されなかったとしても、やはり責任がある。

判決の重みを裁判官だけに背負わせていいんですか?それが仕事だからいい、ということでいいんですか?

少しでも、我々にも関係があり、責任があると思うべきなんじゃないでしょうか?

そのためには裁判員制度も悪くないんじゃないでしょうか?
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邪な見方をやめて、物事を正しく見つめましょう!ということのようです。でも、正邪がはっきり分かるものは、あまり悩みの原因にはなりません。意見が二分していて、どっちもどっちという時が一番困ります。誰もが正しいと信じて疑わなかったことが、実は間違いでした!ということも往々にしてあります。

正邪の見極めがきちんとできるならば、この戒めを守ることは簡単なのかもしれない。何が正しくて、何が正しくないか、そこが一番の大問題です。

大河ドラマ「独眼竜政宗」(原作:山岡荘八)で、政宗を教育した虎哉禅師が「へそまがりになれ!」と教えました。もちろん偏屈になれということではなくて「人と違うものの見方をせよ」ということだったと思います。

正邪の見極めというのは、結局、神ならぬ身なれば常にきちんとできるわけがない。としたら、ひとつのことを最低でも2つ、できれば多方面から見つめて、良し悪し、メリット・デメリットを評価・判断するしかないと思います。

ディベートというのがあります。ひとつのテーマに関して、賛成派と反対派をくじで決めて、それぞれの立場で議論しあうというゲームです。もともと自分の意見は賛成派なのに、反対派として意見を述べなければいけないということもあります。そこが面白いところ。

自分の見方を根本から見つめ直すことにもなります。「あの人は賛成派のはずなのに、あんなこと言ってるぜ」みたいな観衆の目もあるでしょう。先入観や偏見を排除するのに効果的な方法だと思います。これを自分の頭の中で行い、いろんな見方を養うのが「へそまがりになれ!」ということだと私は解釈しています。

検察側と弁護側が議論して判断を下すという、裁判の形式も結局はディベートですね。真理は相反する2つの意見の間(どちら一方の完全な勝訴という場合も含めて)にあるということ。神ならぬ身が他人を裁く方法として考え出されたということでしょう。

そもそも、ものごとに、メリットしかないもの、デメリットしかないものというのは珍しい。必ず、両方あるものです。「これは絶対まちがいない!」「これは絶対正しい!」なんて思えるものは、大きな間違い(デメリット)が隠れている可能性があります。

そう言えば、私のブログのテーマ(そんなのあったのか!?)も「人と違う見方の提案」であります。「ずいぶん変わった人もいるもんだ!」とか「なんて偏屈なやつだ!」とか思われる方もいらっしゃると思いますが、これこそへそまがりに対しては最高の褒め言葉であります。

こんなやつですが、今後もお付き合いのほどをよろしくお願いいたします。

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独眼竜政宗 完全版 第四巻独眼竜政宗 完全版 第四巻
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 ある罪状に対して、どのくらいの刑罰が適切であると思うか?という調査を、裁判官と一般人に対して行った結果が新聞に出ていました。裁判官は軽い刑罰を、一般人は重い刑罰を選ぶ傾向があるとのこと。裁判官の常識と一般人の常識とのズレが明らかになった形です。

 私個人としては、「復讐法」のハムラビ法典が一番合理的なのではないかと思っています。また、仇討ちが認められていた江戸時代の法律はなかなか粋だな、と思います。ですから、裁判所が下した判決に首を傾げてしまうことは、最近非常に多いです。人を裁くことは難しいですが、裁判官という極めて特殊な一部の人の判断が、果たして適切といえるのか?非常に難しい問題です。

 人の仕事を評価するのも非常に難しいことだと思います。会社に勤めていたときに、能力主義が導入される中、いろいろと考えることが多かったです。優秀かもしれないけれども、上司という極めて特殊な一部の人の判断が、果たして適切といえるのか?

 それで気づいたのが、「商売」がすごく民主的だということでした。「あなたが提供してくれる品物(あるいはサービス)に○○円払いますよ」というのは、自分に対するお客様の評価です。極めて普通の多くの人たちから、毎日お金をいただくという形で評価されているわけです。

 これが、私が会社を辞めた数々の理由の中のひとつだということを、思い出しました。自分が設定した値段どおり、お客様から払っていただけるということは、自分の仕事が評価されたということです。そしてそれは、自分の存在意義を認めてもらえた瞬間でもあります。

「うろん語」第二巻目次(その1)を見る

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