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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「三章 法」の後半を読みました。

いろはのうたに出てくる「うゐのおくやま」の「うゐ」とは「有為」のことだそうです。
《以下小生要約》
「行」は「いっしょに集めて造るはたらき」というような意味。ものを生み出す力・はたらき、そのようなはたらきを持つもの、結果を生み出すもの、因となるもの。

因たるものが「サンスカーラ(行)」と呼ばれるのに対し、果たるものは同じ動詞の過去分詞形をとって「サンスクリスタ(有為)」と呼ばれる。

「有為」とは、行によって作られたもの、縁によって作られたもの、因によって作られたもの、因縁所生の法、縁起したもの、ということになる。したがって、諸行=諸法=有為法の一切で、それらは無常であり、無我であり、苦(をもたらすもの)である。

同様に、「縁りて生ぜしめるもの」と「縁りて生じた(過去分詞)もの」という言葉もある。この場合、縁りて生じたもの(縁起したもの、縁生したもの)はまた、別の縁によって滅する。つまり、生起したものは必ず滅するということが理解の前提となっている。

無常なるもの、無我なるもの、苦をもたらすものは、この生滅あるものであり、「縁によって生じたもの」である。

一方、「縁によって生起させること」を意味する前者には、因となるもの(サンスカーラ)と同様の意味とならんで、縁起の法則自体をさす場合がある。

これあるとき、かれあり
これ生ずるより、かれ生ず
これなきとき、かれなし
これ滅するより、かれ滅す

という定型句が縁起の法則を示すものとされている。これは、諸行無常・諸法無我と同じことである。

縁起は「諸法に関するきまり」というが、この「きまり(dharmata)」が単独では「法性(ほっしょう)」と訳される。「法性」とは「法の本性」、縁起した諸法に通じる普遍的性質、すなわち縁起することを指す。仏教の教理としては、「無常性(無常であること)」、「無我性(無我であること)」も同じく「法性」である。

まったく同じ縁起の理、無我なることを、大乗仏教では新たに「空性(くうしょう)」と名づけた。「空性」とは「一切皆空」という命題を内容とし、「自性(じしょう)が無い」という意味である。「自性」とは、自己存在で常に同一の性質を保ち、他者を必要としないもの。
《要約終わり》

さらに大乗仏教の真理観についてまとめてあるので、ノートしておきます。
《以下引用》
大乗仏教は、「一切皆空」をものの見方の基本としている点で、いかなるものも実在としては立てないのであるが、そのような真理それ自体を、絶対的価値としていわば一種、宗教的実在とみなすのである。…真理を悟った仏を、真理と一体となった者として「法身」とよび、それとこの「法界」とを同一視する点で、仏に絶対性、究極的実在性を付与することになる。加えて、「法界」には「法という要素」という意味で、意識の対象となるかぎりの全存在をさす(すなわち、法界=一切法)用法があるので、仏の側からすれば、仏が全宇宙にほかならないというかたちでの絶対性を意味し(たとえば『華厳経』の毘盧遮那仏の説明に見られる)、他方、法の側からすれば、全存在は真理の顕現として実有性を認められることになる(華厳宗の法界観に代表される)。ただし、後者はあくまでも仏の目をとおして見た全存在、宇宙、世界、衆生ということであり、決してわれわれが把握しているとおりに現実を肯定したものではない。
《引用終わり》

・第一義諦
悟りの体験は他人には伝ええない。言語表現を超えている(言詮不及、言語道断)。悟りそのものを「最高の真理」という意味で第一義諦(真諦、勝義諦)という。

・世俗諦
教えとしての法は、自内証の体験を言葉によって表現したものであるが、語るべからざるものを語っている点で既に方便であり、仮のものである。言葉に表された法(教説)は二義的なものに過ぎない。これを、「言説諦」「世俗諦」という。

どうあろうとも、言葉は葉っぱ。幹にはなれない…

《つづく》