トトガノート

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Tag:菩提心

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ひらがなを覚え始めた頃、次女が「『だ』ってどう書くの?」と聞いてきました。「『た』に点々だよ。」と教えたのですが、次女は点々を書いてから『た』を書きました。

「書き順が違うよ」と注意しましたが、考えてみると、発音するときにはdを発音するかtを発音するかは最初から決めなければいけません。書く場合には、取りあえず『た』を書いておいて、後で『だ』にするという手順になりますから、逆の関係だと言えなくもない。

と、ひとりで納得しましたが、当時4歳にもなっていなかった次女がそこまで考えているはずがない。考えていないことは、すぐに分かりました。なぜなら『た』を書くときに、『だ』を書いてから点々を消しゴムで消していたからです。それも一度だけじゃなくて、二度も三度も…

「どうせ消すんだから、点々書かなくていいでしょう?」と注意しましたが、濁点を後で消すという手順が何とも示唆的で、心に残りました。

先日、濁点の有無で大きく違ってしまう「かん細胞」と「がん細胞」の話を書きました。神の如き「かん細胞」が濁点が付いただけで悪魔の如き「がん細胞」になる。それは紙一重よりも小さな違いのように思いました。

濁点の無い姿を「如来蔵」と捉えれば、塵の如き濁点はまさに煩悩(客塵煩悩)。濁点を消す次女の姿が、己の煩悩を消し去ろうとする修行者と重なりました…

しかし、「点々は書かなくてもいい」という私の言葉に向きになって、ひたすら『だ』を書いてから『た』にする作業を繰り返す反抗心は、さすがに菩提心には程遠い…凡夫の生き様そのものです。
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第五章「成仏論」の第一節「序説」と第二節「成仏への道」を読みました。

自己が自己に対して抱く矛盾による悩みは、人間として逃れられない宿命なのでしょう。その苦しみから這い上がろうとする気持ちが宗教的回心(発心)へとつながれば良い。

肉体的存在(因果に支配される自然的存在)と精神的存在(自由を求め因果の束縛から脱却しようとする価値的存在)という自己の中にある矛盾。そこでどんどん落ち込んでいくのではなく、そこを出発点として立ち上がるところに意味がある。それが言わば、人として「生きる意味」なのでしょう。

仏教では、発心あるいは発菩提心と呼びます。龍樹によれば菩提心は3つに分類されます。1は勝義心。一切の哲学や宗教の価値を批判し、智的に真の宗教思想を見出す心。自利のレベルです。2は行願心。一切衆生を我が身のように見て、普く救済しようという心。利他のレベル。3は密教独自のもので三摩地心。凡夫即仏の立場で実の如く自心を知るということ。

高校の倫理社会とか哲学は(難解なれど)面白かったのですが、勝義心のレベルで終わっているように思います。知情意として分類するなら知だけであり、自分だけが理解し高まればいいという感じがする。もちろん、深く勉強すれば更に深い境地はあるのかもしれないけれど。

真言密教にあっては、最初から智だけではダメで、実践が伴わなければダメ!ということが最初から声高に書いてある。智(頭デッカチ)は低いレベルに分類されます。そこが哲学と根本的に違うような気がしています。

《つづく》
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