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「?.真理の具現者」の「二.金剛薩埵」
を読みました。

金剛薩埵のいろいろな経典での扱いの違いが書かれています。が、今の私のレベルでは「教えを受けるもの」という捉え方で十分かなと思います。

大日如来の説法は、あらゆる場所で、あらゆる時に、永遠に続けられている。それは特定の人物を対象としたものでもなければ、なんらかの目的をもって行われているのでもない。しいてその理由を考えれば、自受法楽、つまりみずからの楽しみのためとしかいいようがない。

ここの表現も気に入っているのでメモらせていただきました。たとえがいいかどうかですが、東京タワーのようなものかもしれない。太陽の光のようにみんなに普く行き渡るよう、放送電波が発信されている。チューナーを合わせれば誰でも聞くことができるのですが、チューナーを合わせようとしなければ発信されていることすら気付かない。

…法身大日如来の説法の受者は、われわれ自身、すなわち衆生であるが、法身の説法を知覚する能力のすでに開発されたもの、つまり、密教の法灯を継いだしるしとしての潅頂を受けたもの、でなければならない。…このような性格をそなえた大日如来の説法の受け取り手…を、密教では金剛薩埵という。大日如来につぐ付法の第二祖とされるが、もとより実在の人物ではない。

最も受信の準備ができてる人(?)ということですね。ところで皆さん、地デジの準備はお済みですか?

《つづく》