トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:煩悩

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「○○としての仏教」という記事を書いてから、7年も経とうとしています。仏教に含まれる内容の幅の広さについて書いた記事です。

例えば「ぶっちゃけ寺」という番組があります。日本史への興味関心から嫌いじゃない内容ではあるのですが、何か違和感を感じてしまって視聴し続けることができません。もちろん、この番組も「仏教」には違いないのでしょうが、私が「仏教」に求めているものとは違う。

また、「葬式仏教」と揶揄する言葉があります。一般の人が仏教と接するのは死者を弔う時に限られるような現状ですから、仕方のないことかもしれません。これも、私が求めている「仏教」ではありません。

私が「仏教」に向き合うことにした理由、それは般若心経の中の「照見五蘊皆空度一切苦厄」だったような気がします。もっと絞れば「度一切苦厄」。生老病死という苦しみから救われる方法、他者を救う方法を見つけることを仏教は目指している!…と発見したのがきっかけです。

そして、今年に入ってから心理学の本を読むようになりましたら、その中に自分が仏教に求めていたものがあることに気づいたのでした。

ケリー・マクゴニガルさんの三部作(勝手に選定:「Yoga for Pain Relief」「Willpower instinct」「upside of stress」)を読むと、「呼吸法」「瞑想」「欲望のコントロール」「一日一善」等々、順不同で思いつくまま羅列しましたが、仏教の修行法とダブるものが多々あります。

仏教は長い歴史の中で、修行者の能力開発法を見つけ、ノウハウを蓄積していったのでしょう。心理学は科学的な実験によってその手法の数々を見つけ出しています。両者を結び付けていくことで、仏教の修行にもエビデンスを付け加えていくことができるような気がしています。
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濁点(煩悩)は後で書く(生じる)もの…

如来蔵を読んでいて漠然と浮かんだイメージなのですが、光(如来)そのものであるはずの我々に生じる無明(煩悩)とは相対的なものだと考えてはどうか?相対論の入門編みたいな話になりますが…。

スピードを出して前の車を追い抜けば、その車はあたかも後ろに進んでいるように見えます。相対的に速いものから見れば、遅いものは全く逆向きのベクトルで進んでいるように見える。でも、実際はどちらも同じ向きのベクトルなのです。

無明と言いますが、闇とは言わないのです。明るく無いだけなのです。光が完全に閉ざされているわけではないのです。明るいものと比べれば、それより明るく無いものは暗く見えます。全然光っていないようにさえ見えます。でも、実際はどちらも光っているのです。

「た」の右上が薄暗くなっていて、濁点が付いているように見える状態…。

全き善なる者からみれば、善の足りない者は悪魔のようにさえ見えるかもしれない。でも、善の足りない者も悪を指向しているわけではなくて、善を指向しているのかもしれない。

しかし、そんな小さな差異が大きな煩悩につながるとは考えにくいし、そんな小さな差異でしかないのなら修行して取り除く必要などないではないか?というのが、如来蔵に対する反論でした。

これに対する説明にはカオス理論を用いてはどうでしょうか?1匹の蝶の羽ばたきが、世界の気象にまで影響を及ぼし得るというやつです。定量化できるパラメータ間に全て因果関係が働くという前提の下でさえ、このような理論が成り立つのです。無明とか煩悩とか定量化できないものに関してはなおさら何が起こってもおかしくはありません。

デフレスパイラルと言った方が今日的でしょうか。「風が吹かないので桶屋どころか誰も儲からない」と言えばいいでしょうか。

無明スパイラルの渦が大きな煩悩を生み、より大きな妄念を創り上げていく。そのきっかけは、消えかけたような微かな濁点。

しかし、このスパイラル(悪循環)が心の中に生じないようにするためには、修行を重ねなければならないのです。
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ひらがなを覚え始めた頃、次女が「『だ』ってどう書くの?」と聞いてきました。「『た』に点々だよ。」と教えたのですが、次女は点々を書いてから『た』を書きました。

「書き順が違うよ」と注意しましたが、考えてみると、発音するときにはdを発音するかtを発音するかは最初から決めなければいけません。書く場合には、取りあえず『た』を書いておいて、後で『だ』にするという手順になりますから、逆の関係だと言えなくもない。

と、ひとりで納得しましたが、当時4歳にもなっていなかった次女がそこまで考えているはずがない。考えていないことは、すぐに分かりました。なぜなら『た』を書くときに、『だ』を書いてから点々を消しゴムで消していたからです。それも一度だけじゃなくて、二度も三度も…

「どうせ消すんだから、点々書かなくていいでしょう?」と注意しましたが、濁点を後で消すという手順が何とも示唆的で、心に残りました。

先日、濁点の有無で大きく違ってしまう「かん細胞」と「がん細胞」の話を書きました。神の如き「かん細胞」が濁点が付いただけで悪魔の如き「がん細胞」になる。それは紙一重よりも小さな違いのように思いました。

濁点の無い姿を「如来蔵」と捉えれば、塵の如き濁点はまさに煩悩(客塵煩悩)。濁点を消す次女の姿が、己の煩悩を消し去ろうとする修行者と重なりました…

しかし、「点々は書かなくてもいい」という私の言葉に向きになって、ひたすら『だ』を書いてから『た』にする作業を繰り返す反抗心は、さすがに菩提心には程遠い…凡夫の生き様そのものです。
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空の剪定…あらゆる方向に根を伸ばし幹を伸ばし枝葉を伸ばし得る私たちが、この世に生まれ、人として育つ中で、空から離れ、アンバランスな存在性を獲得していく。

教育も、この剪定作業のひとつなのかもしれない。今の時代をより良く生きるために、子供の頭や心を、「良かれと思う形」に整えていく作業。

この「良かれと思う形」は、時が経てば変わるし、場所が違っても変わる、「一時的な価値観」。例えば、この国の「ゆとり教育」が方向転換を迫られるのに数年しかかからなかった。国の教育方針なんて、この程度のもの。紛れもない「虚構」

切断したはずの指が痛むことがあるらしい。もう切り落とされたはずなのに、確かにその場所が「痛い」。煩悩とは、剪定で切り落とされた枝葉の叫びではないだろうか…。

例えば、多細胞生物であるがために切り落とされるポテンシャルならまだしも、国の教育方針なんかで切り落とされるポテンシャルはたまったものではない。そこに溜まった煩悩を、単に不浄のものとして片付けていいものなのか…。

ゆえに、真の教育者とは、子供の全てのポテンシャルが見えなければいけないのだと思う。その子を空なる存在として見通した上で、その子のポテンシャルの何が切り落とされたのか、あるいは何が健在なのかに気づかなければいけないのだと思う。

そして、煩悩の疼きをも、受けとめてあげなければいけないのだと思う。

それでもやはり、教育とは剪定であるから、子供が「なるべき形」を示し、その形に近づいていくことを促すために競争を仕向けることもあるだろう。

でも、その「なるべき形」とは「一時的な価値観」であることも教えるべきである。そうすれば、競争に負けたとしても、不必要に過剰な劣等感は持たないだろう。また、勝ったとしても、過剰な優越感を持って敗者を差別することもないだろう。

つまり、教育者はその心を空に保ち、子供の心を空に導かねばならない…。
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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「五章 輪廻と業・煩悩」の後半を読みました。

十二支縁起をまとめておきます。輪廻は惑→業→苦の順に、因から果への流れとして捉えられますが、人間存在の現実にあてはめて、より細かく図式化したものが十二支縁起説だそうです。以下、小生の要約です。

A.(1)無明→(2)行→(3)識
この三支は惑→業→苦の三段階を示す典型的な場合と考えられます。識支は現在の生存活動を代表しており、心と言い換えてもよく、認識主観の意味です。

無明も一つの煩悩であり、一種の行であるとすれば、それは何にもとづいて生じたものか気になるところですが、仏典では輪廻は無始であるとされ、何ゆえ我々が真実を知らず、無明の闇に包まれているかは人知を超えていて、ブッダも回答していません(無記)。

それでも用が足りるのは、その無明をなくせば、すなわち無明が明(知)に転換すれば、苦の滅が実現して、十二支のいっさいの因果関係も消滅し、目標は達成されるからです。

B.(3)識→(4)名色→(5)六入→(6)触
この四項は、我々の認識作用の成立条件を挙げたものですから、相互の関係は同時の依存関係です。直列の流れではなくて、並列に同時進行します。

名色は「名称と形態」、「概念とそれに対応する存在」を指します。仏典では「精神と物質」、「心と身体」と解し、識の対象としての六境(色・声・香・味・触・法)を指します。

阿含経では「根と境と識との三事が和合して触あり」と言った上で「触によりて受あり、受によりて愛あり」と説いています。根に当たるものが、六入すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意です。

C.(6)触→(7)受→(8)愛
受は感受作用。好ましいものと接触すれば楽受(喜びや幸福感、快感)が生じ、その対象に対して愛着が起こります。好ましくないものと接触すれば苦受(いやな思い、不快感)が生じ、その対象を憎んだり嫌ったりします。このような瞋恚はマイナスの愛着として、渇愛に含まれると考えるのがよいでしょう。

D.(8)愛→(9)取→(10)有
愛(渇愛)が苦の原因となる、欲望が諸悪の根元である、というのが仏教の一貫した考え方です。取は愛にもとづいて現にはたらいている執着。有は輪廻生存にほかなりません。

E.(10)有→(11)生→(12)老死(愁悲苦憂悩)
有は輪廻生存のことですから、生→老死の繰り返しです。このような無常なあり方において、われわれは愁・悲・苦・憂・悩というさまざまな苦悩を生じている。

輪廻は、無知が続く限りは無始無終ですが、無明が明に転換すれば輪廻は止まり、涅槃が実現します。そのために、修行しましょう!ということになります。

私は、輪廻については保留の立場です。仏教オリジナルではないということですし…。輪廻の死生観にドップリ浸かってしまうと、人生設計も死んでからのことに重きが置かれてしまうような気がするのです。

輪廻は、苦しみの悪循環という意味に置換できそうだし、そうすれば十二支縁起も哲学や心理学の一理論として遜色ないものになります。

《つづく》
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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「五章 輪廻と業・煩悩」の前半を読みました。

輪廻の観念は仏教の発明ではなく、仏教成立当時のインド社会の周知の世界観・人生観です。インド的な仏教の考え方では、死後一定のとき(四十九日)を経れば必ずどこかに生まれ代わります。ですから、日本で信じられているように、霊魂が草葉の蔭からわれわれを見守っていたり、年に一度わが家に帰ってくるようなことはない。

六道(六趣)
・天上(神々の世界)
・人間(人類)
・阿修羅(神々の敵たる魔神)
・畜生(動物類)
・餓鬼(霊鬼、もとは死者の霊)
・地獄(奈落)

《下記参考文献より引用》
輪廻とは生死(しょうじ)ともいい、迷いの凡夫の状態にある間は善悪の業報に支配されて、善業をなした者はその報いとして天上や人間などの善趣(善道)に生まれて福楽を受け、悪業を犯した者はその報いとして地獄・餓鬼・畜生などの悪趣(悪道)に生まれて痛苦を受けるというように、…六道に生死輪廻するとされる。
《引用終わり》

三界
・欲界:禅定の効果があらわれない、欲をともなった日常的意識の世界。
・色界:禅定によって欲は除かれたが肉体をなお存している。
・無色界:肉体の束縛を離れた自由な精神のみ。


輪廻の世界における生存を「有」とよぶので、三界は三有とも称せられる。仏教の教理としては、輪廻は「有」という名でとばれるほうが多い。


三界の「有」を有らしめるはたらき。煩悩(惑)がひきおこすもの。業(カルマン)は行(サンスカーラ)と類似の概念で、仏典では混用される。身業・口業・意業、善業・悪業、福業・非福業・不動業、有漏業・無漏業、など。

煩悩(惑)
原語クレーシャは「汚すもの」の意。心を汚すものは煩悩に限らないけれども、そのすべての過程の大もとにあるところの心のはたらきが、とくに「汚れ」すなわち煩悩の名でよばれる。身体や言葉によって示される行為の背後にあって、それをあらしめるようなはたらきとしての心のはたらき。行為の根元にある心を大事と見る点で、仏教は一種の動機論に立つ。 貪・瞋・慢・癡(無明)・見・疑の六種を「六随眠」とか「六根本煩悩」とよぶ。

参考文献「仏教要語の基礎知識」
《つづく》



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仏教が伝来したころ、全てのものが「仏教」に包含されていたことでしょう。呪術、哲学、弔い、建築、美術、その他もろもろの生活習慣などなど。当時は、「呪術としての仏教」を最も強く求めていたのではないでしょうか。

新しく興り、急速に広がっていく宗教は、呪術なのだと思います。霊感とカリスマのある人を中心に人が集まり、その人の言葉を大切にし、(比較的短期的な目先の)現世利益を実現していきます。

…尤も、それで本当に羨ましくなるほどの幸運(現世利益)に恵まれている人を、私は見たことがない。「そんなに忙しく信仰しないといけないんだったら、何か仕事してたほうが幸せなんじゃないの?」と思える人ばかりです。

だから、というわけでもないのですが、そういう初期の勢いが無くなった「古典としての仏教」を勉強する、「哲学としての仏教」を修める、ということを今年は頑張ってきました。

真言密教大乗起信論について、初歩の初歩の初歩をかじったところでしょうが、哲学として非常にしっかりした奥の深い内容であることがわかってきました。哲学として仏教は何になるのか?どういう意味があるのか?今の私の考えを書いておきます。

それは「外側から降りかかる災難や、内側から突き上げてくる煩悩に対して、なるべく動じない心を養う」ということではないかと思います。

外側から降りかかってくる災難を取り除くこと、これが「呪術としての仏教」の役割だと思います。でも、それはどうかな?と思っています。災難に遭う確率を下げることなんてできるのかな?と。少なくとも、そんなことを仏教に求めてはいけないと思っているからこそ、「哲学としての仏教」を望むわけなのですが。

内側から突き上げる煩悩も修行をすれば無くなっていく…というのもどうかな?と思っています。欲望を失った人間なんて、結局のところ腑抜けじゃないか。少なくとも現世に生きる以上、煩悩は消せないし、消してもいけないんじゃないか。

じゃあ何も意味がないじゃないか!と思う人もいるでしょうが、内外から襲ってくる艱難辛苦に対して、あたふたと右往左往するか、しっかり受け止めた上で対策をこうじるか、では雲泥の差があります。

「哲学としての仏教」が示す宇宙観・人間観を身につけることで、なるべく動じない心が養われていくように思います。その宇宙観・人間観を思い出し、なるべく自分をその中に置くための作業が読経なのかな、と。108の煩悩を取り除くというよりはしっかり受け止めるつもりで、除夜の鐘を聞きたいと思います。

皆様、良いお年をお迎えください。
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