トトガノート

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Tag:梵我一如

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「空海の夢」(春秋社)
「3.生命の海」を読みました。

《以下引用》
…仏教の要訣は、せんじつめればいかに意識をコントロールできるかという点にかかっている。生命は進化して意識をもった。長いあいだの時の流れが必要ではあったが、結局のところそれによってふたつの世界が見えてきた。

ひとつは「梵」に代表されるマクロコスモスである。もうひとつは「我」に代表されるミクロコスモスである。仏教直前までの努力によって、この両者の統一こそを意識がはたすであろうという予想が確立された。これがおおざっぱにはヒンドゥイズムの「梵我一如」の構想である。…

続く仏教は、それにしてもその「我」が問題だと考えた。「我」を認めたうえで「梵」との合一をはかる困難よりも――なぜならばそのためには苦行が必要だと考えられていたからでもあるが、「我」そのものを発想してしまう意識の中の特異点をとりはずせないものかと考えた。そこで仏教者たちは、なぜ「我」というものが意識の中にこびりついてしまったのか、まずその原因の除去からとりかかることにした。業(カルマ)というも、四諦八正道というも、およそはそのことである。そこで、日頃の生活意識を変えてしまわないかぎり、「我」はとりのぞけないと考えた。物欲や性欲や他者をなじる生活態度そのものに「我」が芽生えるのであることをつきとめた。

しかし、社会にいて「我」をとりのぞくのはなかなか困難なことだったはずである。「我」は生物界から離脱した人間が牙と毛皮のかわりにみがきあげた武器である。その武器を放棄するのは社会的生活の失敗を意味していた。社会生活の只中でいっさいの「我」の原因にあたる言動を廃止するのが困難ならば、そこから脱出するしかないだろう。かれらは超俗をはたし、ここに家を出奔するという様式が確立する。出家である。
…《引用終わり》

なるほど、そんな捉え方もあるかな…という感じです。

出家は釈尊登場以前から、つまり仏教以前からインドにあった風習ですから、出家は修行に没頭するためにしたんだと思いますけどね…。仏教が確立してからは上記のような理由で出家した人もいたでしょうが。

同様にちょっと気になる点は他にもありますが、まあ、この捉え方で論を進めるとどうなるのか、非常に興味深いです。

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「2.釈尊前後のインドの時代と環境」を読みました。

・ヴェーダ時代(紀元前1500〜1200年)
アーリア人がインドに侵入し始め、この新しい土地で、一方では自然の脅威と立ち向かい、他方ではドラヴィダ人などの先住民族と衝突していたが、着々と勢力を拡大していった。

・ブラーフマナ時代(紀元前1200〜700年)
アーリアの社会が安定したものになる。アーリア人は、バラモン(純粋な種族。祭事や学問をつかさどる最上位の階級)、クシャトリヤ(異民族との混血種族のうちで、戦いに従事したり、政治を司る武士王族の階級)、ヴァイシュヤ(異民族との混血種族のうちで、牧畜、農業、商工業などにたずさわる庶民の階級)の3つの階級を形成。その下に被征服民族のドラヴィダ族がシュードラ(奴隷階級)として仕えた。

・ウパニシャッド時代(紀元前700年以後)
アーリアの社会は爛熟とともに腐敗堕落するようになった。ガンジス上流地方から東南の中流地域へと繁栄は移り、新天地では政治勢力をもった王族階級が実質的権力を握った。商業貿易も盛んで、豪商財閥も多かったらしい。

祭官であるバラモンは私利私欲に走って、真面目な研学実践や、民衆の精神的指導のような、本来の義務を怠り、民衆からの信頼尊敬と、社会への影響力を次第に失っていった。

そこで、新しい思想が生まれた。神や祭式が人生の運命を決定するという説に対して疑問をいだくようになり、人間の運命はわれわれ自身の心の持ち方や努力のいかんにかかっており、われわれの行為の善悪によって決定されると考えられるようになった。

それはわれわれの自由意志による善悪の業(行為)によって、幸不幸の結果が得られるという善因善果、悪因悪果の因果応報の思想である。

この因果の連鎖は、単に現世のみの間に存在するのでなく、過去から現世へ、現世から未来世へというように三世にわたって不断に存続するとせられた。これが三世にわたる業報説であり、業に従って幸不幸の世界に生まれ代るという輪廻説である。

ウパニシャッド時代には、昔ながらの祭祀バラモンと、業報輪廻説を説き、輪廻からの自我の解脱を考究実践する哲学バラモンとがいた。

・解脱思想
輪廻は永遠に続いて、そのままでは、この輪を断ち切ることはできず、絶対の幸福と安心は得られないから、実は苦悩にみちたものであるという、現状に対する悲観が基調となっている。

この不安な現状を脱して、絶対平安の世界を求めたのが解脱の要求であり、ウパニシャッドでも、自我(アートマン)と精神世界である梵(ブラフマン)とが融合して、梵我一如の理想境に到達した時に、輪廻からの解脱が得られるとした。

《つづく》
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