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「空海の風景」(中公文庫)「あとがき」から…

《以下引用》
…ラマ僧にとって絶対的に崇敬せねばならぬものは、その直接師である。師とは、宇宙の普遍的原理の体現者である以上、師そのものが、真言密教の用語でいえば大日如来であり、師からそれを承ける弟子としては、大日如来への拝跪の方法は他にない。その師を拝むことなのである。このことは、空海が大師信仰のなかで神格化されたことと同心円のなかにあり、顕教の最澄が神格化されなかったことの理由をも明快にしている。
《引用終わり》


空海のように歴史的な存在になった人物ならば楽かもしれないけれど、目の前に居る人間を拝むことができるのだろうか?大日如来とみなすということは、師その人の全てを肯定し崇拝するということ。そんなことができるのだろうか?

仏像に対してならできそうな気もする。そんな金属塊や木塊に対してならできそうなのに、人間にできそうもないというのも我ながら奇異な感じはする。

でも、日々変化する生身の人間を、全肯定し、尊崇し続けることなんてできるんだろうか?

松下電器の社長を勤めた方の講演。松下幸之助から直接教えを受けたその人は、ある日、幸之助に聞いたそうです。「嫌いな上司とうまく付き合う方法はありますか?」幸之助は答えたそうです。「どうしたらええんでしょうな…」

その人の悪いところには目をつぶる、という接し方もあるようです。剛腕のワンマン社長の忠実な片腕として働いている人から教わりました。「その人は仕事はできる人なんだから、いいところだけ見てあげればいいじゃないか?人間なんて必ず悪いところも持ってるんだから。いいところがあるだけで素晴らしいんだ。」

それも一理あります。特に仕事だけの付き合いなら、それもいいかもしれない。でも、それではしっかりその人と付き合ってることにならないんじゃないだろうか?いいところだけの付き合いは、いい時だけの付き合いと同じじゃないだろうか?

この問題の解決の糸口も「受けとめる」というスタンスの中にありそうです。自分とは合わない部分に関して激怒したりしない。ただ合わない部分があることを悲しむ

全ての要素を含む大日如来の分身であっても、生身の人間となれば、必ず偏りはあるもの。その偏りが個性であり、光の部分が才能、影の部分が煩悩。しかし、光と影は光のあて方で変わるもの。

それぞれの光と影が合わないことはある。残念ながら必ずある。しかもどうしようもない。

ゆえに悲しい…。

全ての人に対して、そういう接し方ができればいいけれど…。まずは、隗より始めよ。に対して、こういう境地を目指したいと思います。